怯えているノンはその言葉すら飲み込んで、後ろに下がろうとした。

「逃げるのですか?」

男は志我一衣に気付いていないのか彼女に見向きもしない。
日傘をくるくると回しながら背後から手を伸ばしてノンの肩を指先で突く。

「貴方は目の前の相手に怯えている。格下の相手に、貴方がその内に秘めているどす黒いもの、私が与えたものを解き放てば、目の前の矮小な存在なんかあっさりと叩き潰すことができるのよ?」
「そんなもの、わたしには」

いつも逃げてばかりだった。
桜木ノンがアイドルになった理由は両親が金儲けになりそうだから応募したという理由。
そこに彼女の意志や考えは存在しない。
アイドルになった時は戸惑いながらも目の前に広がる未知の世界に興味津々で挑んでいた。
そんな世界をこの男のせいで無茶苦茶にされた。
これ以上、自分の世界を汚されないようにできた事が逃走だった。
逃げる事しかできない自分にこんな奴をどうこうできる力はない。それは嫌というほど思い知らされていた。
絶望している彼女に怪異は囁く。

「あるのよ。貴方、最初に力を上げた際にショックを受けていたから記憶が忘れてしまったのかしら?仕方ないわね」

ツンツンと突いていた指が動いてノンの頭に触れる。

「さあ、起きて」