侍従に案内されたオキザリスの間は、宮廷内の役職に携わる貴族たちが、会議などで使う部屋だ。
「急にお呼び立てして悪かったわね、グレアン伯……いえ、今は侯爵かしら?」
部屋で待っていた、薄紫のドレスの女性が、室内に入ってきたアンナに言った。
「こちらこそ、挨拶が遅れました。正式な家督のご継承と、女官長へのご就任おめでとうございます。グリージュス公爵」
クラーラ・ディ・グリージュス公爵。新たな宮廷女官長は、かつて皇妃主催の茶会を潰そうとした女だった。
当時はグリージュス公爵夫人を名乗っていた彼女だったが、このたび亡き夫の家督を継ぎ、正式にグリージュス公爵家の当主となったのだ。アンナに続く、現在の帝国で2人目の女当主である。
もともと、寵姫ルコットのお気に入りだった女だ。あの事件で消えるとは思っていなかったが……まさか自殺した夫の跡を継いで、自らが当主となるとは……。この相続を高等法院が認めたのは、間違いなくアンナの前例があったからだろう。アンナにとってはそれが面白くない。
「どうかしら? グレアン家を乗っ取ってたから2年足らずで、宮廷の役職を得た気分は」
グリージュスはストレートに悪意をぶつけてくる。なので、アンナも嫌味で応戦することにした。
「光栄です。思えば今の私があるのは、あの皇妃様のお茶会があってこそです。そう言う意味ではグリージュス公、あなた様のおかげかもしれませんね」
グリージュスの眉根が露骨にねじ曲がった。
「なるほどね。なら、今回の人事についても喜んでいただけたかしら?」
「どういうことですか?」
「あなたをその役職に推したのは、この私ですもの」
「!?」
その一言で、アンナはふたつの事を理解した。ひとつは、この格式はあるが国政への影響がないこのポストにアンナが選ばれた経緯。そしてもうひとつは、当面の敵がこの女だということだ。
「宰相閣下も、皇妃様お気に入りのあなたをどの職につけるか悩んでいたそうなの。だから私が提案したんですのよ」
「そう、でしたか」
「あなた今、皇妃様が館を建てるのを手伝っているでしょう? そういうのお好きなのかなって」
全く、いいところに目をつけたものだ。私を無用な役職押し込める絶好の理由ではないか。
百年の戦争を終結させたアンナでも、こういう所はおしゃべりとゴシップのみに命をかけてきた宮廷の女たちに敵わない。
「わかっているとは思うけど、女官長は宮廷内のどの役職よりも権限が上です。つまり形の上で、私はあなたの上役ということになる。力を貸してくれるわね、アンナ?」
「……はい」
わざとらしくファーストネームで呼んでくるこの女に怒りが込み上げてくるが、アンナはぐっとそれを堪えた。
確かに、アンナに与えられた役職では女官長の下にならざるを得ない。皇帝から任命状を渡された時、アンナは役職そのものの価値よりも、こちらの方に落胆したのだ。
得意げにグリージュスは続ける。
「長い戦乱が終わり、新しい時代が来ます。前任のペティア夫人ではそれに対応することは出来ない。だから、私やあなたが選ばれたのですよ」
アンナの力量を認めているような言い方だが、これは脅しだろう。
長年、宮廷女官長の座にあったペティア夫人は、今回の人事改正でその座を退いていた。
目が合えば小言ばかり並べ立てる老夫人に辟易していたのは、皇妃派の女性たちだけではなかった。寵姫ルコットも彼女にはうんざりしていたため、父クロイス宰相にこの人事をねだったのである。
そしてそれはつまり、この女やルコットの機嫌を損ねれば、アンナも即座に首を切られる事を意味している。
「それで……本題はここからなんだけれど、皇妃様の館に出入りしていた業者を一旦止めてくださる?」
「なんですって!?」
「今は国力を回復させる時です。お金の使い方には慎重にならなくてはいけない。わかるわね?」
「……」
アンナは何も言わずにいたが、心の中では毒付いていた。
(馬鹿なのかこの女は?)
逆であろう。これまで軍事に偏っていた経済を、今こそ民政に戻さなければいけない。そのためにも宮廷は率先して、民間にお金を使っていくべきだ。
「皇妃様の私的な空間よりも、今後の外交の拠点となる本殿を優先させなさい」
そう言うと、グリージュス公は背後の召使いに命じ、アンナに丸めた書類を渡した。
「これは……?」
「本殿の改修計画です。今後は"鷲の帝国"や"獅子の王国"をもてなす機会が増えるでしょう。彼らな我が帝国の威容を知らしめるのです」
なるほど、馬鹿みたいに金がかかる計画だった。
装飾に使われていた4万個の宝石を一旦外し磨き直す。台座の金銀細工はすべて作り直し。壁面は総鏡張りとし、床の大理石も張り替える。さらにはカーテンやカーペットも東方大陸の商人から買い付け、天井にはシャンデリアを1基追加したいらしい。
「わかるわね。東苑の館なんかに職人を使ってる場合ではないの。全員引き上げさせて、こっちに回してちょうだい」
「……かしこまりました」
皇妃派の拠点となる新居館の工事を止めるわけにはいかない。あまりに稚拙な皇妃派への嫌がらせにはうんざりするが、ここは頷くしかなかった。
(どうせ工事の実務に携わるのは私。いくらでもやりようはある)
アンナは頭の中で、帳簿とスケジュールの調整を始めていた。
「それともうひとつ」
グリージュスが追い打ちをかけるように言った。まだ何かあるのか……。
「ルコット様のお部屋に買って欲しいものがあるの」
「……皇妃様よりも寵姫様のお部屋を優先しろと?」
流石に面の皮が厚すぎだろう。アンナの声に、押し殺していた怒りの色がにじみ出てしまった。
「そんな顔をなさらないで。これも国益のためなの」
「国益ですって?」
「そう。遊んでばかりの皇妃様の家よりも、国母になられるかもしれない方の部屋に、子供用のベッドを入れる方が大切でしょう?」
「えっ!?」
アンナの驚愕の表情に、グリージュス公は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。
「ルコット様がご懐妊された可能性があります。もしかしたらお世継ぎが生まれるかもしれません!」
「急にお呼び立てして悪かったわね、グレアン伯……いえ、今は侯爵かしら?」
部屋で待っていた、薄紫のドレスの女性が、室内に入ってきたアンナに言った。
「こちらこそ、挨拶が遅れました。正式な家督のご継承と、女官長へのご就任おめでとうございます。グリージュス公爵」
クラーラ・ディ・グリージュス公爵。新たな宮廷女官長は、かつて皇妃主催の茶会を潰そうとした女だった。
当時はグリージュス公爵夫人を名乗っていた彼女だったが、このたび亡き夫の家督を継ぎ、正式にグリージュス公爵家の当主となったのだ。アンナに続く、現在の帝国で2人目の女当主である。
もともと、寵姫ルコットのお気に入りだった女だ。あの事件で消えるとは思っていなかったが……まさか自殺した夫の跡を継いで、自らが当主となるとは……。この相続を高等法院が認めたのは、間違いなくアンナの前例があったからだろう。アンナにとってはそれが面白くない。
「どうかしら? グレアン家を乗っ取ってたから2年足らずで、宮廷の役職を得た気分は」
グリージュスはストレートに悪意をぶつけてくる。なので、アンナも嫌味で応戦することにした。
「光栄です。思えば今の私があるのは、あの皇妃様のお茶会があってこそです。そう言う意味ではグリージュス公、あなた様のおかげかもしれませんね」
グリージュスの眉根が露骨にねじ曲がった。
「なるほどね。なら、今回の人事についても喜んでいただけたかしら?」
「どういうことですか?」
「あなたをその役職に推したのは、この私ですもの」
「!?」
その一言で、アンナはふたつの事を理解した。ひとつは、この格式はあるが国政への影響がないこのポストにアンナが選ばれた経緯。そしてもうひとつは、当面の敵がこの女だということだ。
「宰相閣下も、皇妃様お気に入りのあなたをどの職につけるか悩んでいたそうなの。だから私が提案したんですのよ」
「そう、でしたか」
「あなた今、皇妃様が館を建てるのを手伝っているでしょう? そういうのお好きなのかなって」
全く、いいところに目をつけたものだ。私を無用な役職押し込める絶好の理由ではないか。
百年の戦争を終結させたアンナでも、こういう所はおしゃべりとゴシップのみに命をかけてきた宮廷の女たちに敵わない。
「わかっているとは思うけど、女官長は宮廷内のどの役職よりも権限が上です。つまり形の上で、私はあなたの上役ということになる。力を貸してくれるわね、アンナ?」
「……はい」
わざとらしくファーストネームで呼んでくるこの女に怒りが込み上げてくるが、アンナはぐっとそれを堪えた。
確かに、アンナに与えられた役職では女官長の下にならざるを得ない。皇帝から任命状を渡された時、アンナは役職そのものの価値よりも、こちらの方に落胆したのだ。
得意げにグリージュスは続ける。
「長い戦乱が終わり、新しい時代が来ます。前任のペティア夫人ではそれに対応することは出来ない。だから、私やあなたが選ばれたのですよ」
アンナの力量を認めているような言い方だが、これは脅しだろう。
長年、宮廷女官長の座にあったペティア夫人は、今回の人事改正でその座を退いていた。
目が合えば小言ばかり並べ立てる老夫人に辟易していたのは、皇妃派の女性たちだけではなかった。寵姫ルコットも彼女にはうんざりしていたため、父クロイス宰相にこの人事をねだったのである。
そしてそれはつまり、この女やルコットの機嫌を損ねれば、アンナも即座に首を切られる事を意味している。
「それで……本題はここからなんだけれど、皇妃様の館に出入りしていた業者を一旦止めてくださる?」
「なんですって!?」
「今は国力を回復させる時です。お金の使い方には慎重にならなくてはいけない。わかるわね?」
「……」
アンナは何も言わずにいたが、心の中では毒付いていた。
(馬鹿なのかこの女は?)
逆であろう。これまで軍事に偏っていた経済を、今こそ民政に戻さなければいけない。そのためにも宮廷は率先して、民間にお金を使っていくべきだ。
「皇妃様の私的な空間よりも、今後の外交の拠点となる本殿を優先させなさい」
そう言うと、グリージュス公は背後の召使いに命じ、アンナに丸めた書類を渡した。
「これは……?」
「本殿の改修計画です。今後は"鷲の帝国"や"獅子の王国"をもてなす機会が増えるでしょう。彼らな我が帝国の威容を知らしめるのです」
なるほど、馬鹿みたいに金がかかる計画だった。
装飾に使われていた4万個の宝石を一旦外し磨き直す。台座の金銀細工はすべて作り直し。壁面は総鏡張りとし、床の大理石も張り替える。さらにはカーテンやカーペットも東方大陸の商人から買い付け、天井にはシャンデリアを1基追加したいらしい。
「わかるわね。東苑の館なんかに職人を使ってる場合ではないの。全員引き上げさせて、こっちに回してちょうだい」
「……かしこまりました」
皇妃派の拠点となる新居館の工事を止めるわけにはいかない。あまりに稚拙な皇妃派への嫌がらせにはうんざりするが、ここは頷くしかなかった。
(どうせ工事の実務に携わるのは私。いくらでもやりようはある)
アンナは頭の中で、帳簿とスケジュールの調整を始めていた。
「それともうひとつ」
グリージュスが追い打ちをかけるように言った。まだ何かあるのか……。
「ルコット様のお部屋に買って欲しいものがあるの」
「……皇妃様よりも寵姫様のお部屋を優先しろと?」
流石に面の皮が厚すぎだろう。アンナの声に、押し殺していた怒りの色がにじみ出てしまった。
「そんな顔をなさらないで。これも国益のためなの」
「国益ですって?」
「そう。遊んでばかりの皇妃様の家よりも、国母になられるかもしれない方の部屋に、子供用のベッドを入れる方が大切でしょう?」
「えっ!?」
アンナの驚愕の表情に、グリージュス公は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。
「ルコット様がご懐妊された可能性があります。もしかしたらお世継ぎが生まれるかもしれません!」