お夜食処おやさいどき~癒やしと出逢いのロールキャベツ~

「ここにいたか、望」
「社長」

 オフィス廊下の突き当たりにある、大窓が広がる休憩スペース。
 自販機で買った飲み物片手に窓の外を眺めていると、背後から快活な声がかかった。

 会社内で自分を「望」と呼ぶのはこの人しかいない。
 望が勤める会社の創設者。初代社長の榊木(のぼる)だ。

 御年五十五。
 ほんのり入り交じった白髪は年相応でも、はつらつとした笑顔もピンと背筋が伸びた佇まいも、その辺の若者よりよほどパワーがみなぎっている。

「お一人さまの休憩じゃ寂しいだろ。俺も隣にご一緒させてもらっていいか?」
「ご辞退しても居座るつもりでしょう」
「ははっ、邪険にするなよ。一カ月ぶりに可愛い甥の顔を見に来ただけさ」
「……社内じゃ甥扱いは控えてくれっていってるだろ。昇おじさん」

 諦めたようにうなだれる望をよそに、昇は嬉しそうに頭を撫でつける。

 伯父である昇が一人会社を立ち上げたのは、望が小学生の頃だった。

 それがいつの間にか仲間が一人、また一人と増え、気づけば東京の一等地にオフィスを構える有名イベント企画会社へと成長を遂げていた。
 その変貌ぶりを、望は間近で見てきた。

 就職活動をはじめた望は、迷うことなく伯父が経営する会社への就職を希望した。

「お前のところのプロジェクト要員、来週以降に補充が出来る目処が付いた。あとで詳細を送るから確認を頼む」
「承知しました。他メンバーの空きは大丈夫ですか」
「問題ないさ。いざとなれば俺が直接動く。管理職もたまには頭を動かさねえと錆びちまうからな」
「はあ。現場荒しの異名を持つ人がよくいう」
「お。なんだなんだ。ついに可愛い甥っ子も反抗期かあ?」
「あいにく、反抗期なんて時期はとうに過ぎましたよ」
「だな。お前は結局、そういった時期がないまま大きくなっちまったもんなあ」
「……伯父さんがいないところでは、それなりにありましたよ」

 年長者としての詫びの感情が滲む言葉に、望はすぐさま首を横に振る。

 母は未婚のまま望を産んだ。
 父親の話を聞いたことはあるが、どうやら妊娠を知るやいなや母と自分を捨てて逃げたらしい。

 以来、母は身重で必死に働き、未婚だった伯父もまたかなりの援助をしてくれた。

 金銭だけではない。
 父兄参観には毎年欠かさず出てくれたし、運動会ではぶっちぎりで父親リレーを走りきってくれた。

 加えて母子家庭をからかうクラスメート相手に、あの手この手を使って打ち負かす術も伝授してくれた。

 どんな逆境でも、たちまち奇跡を起こす。
 伯父は望にとって、無敵のヒーローだった。

「まあ、いつまでもお前にこっちの仕事を任せっきりにするわけにはいかないからなあ」
「気づけばもう来月ですもんね」
「お前、本当にいいのか? 一年間の大阪赴任」
「何を今さら」

 伯父の会社は順調に規模を拡大し、昨年には大阪支社を新たに立ち上げた。
 徐々に仕事を獲得していたそちらでの新しいチーフリーダーとして、望に新たに白羽の矢が立ったのは先月のことだ。

 関西の業務内容に、能力面、住環境面からも、望はまさに適任だった。
 断る理由も特になかった望は、二つ返事で引き受けた。

「あっさり決めちまったけど、本当にいいのか? お前もこっちに愛着もあるだろうし、それこそ、いい人の一人や二人いてもおかしくねえだろ?」
「確かに東京に愛着はありますが、残念ながらいい人はいませんよ。考えたこともありません」
「もったいねえなあ。うちの妹に似て、きれいな面に生んでもらったのによ」

 酷く重いため息を吐くものだから、望も何となく居心地悪く視線を背ける。

「うちの社に入ってから、社内の子にだって何度か告白されたって聞いたけど」
「はあ、まあ」
「取引先の受付嬢にも、数名からお誘いを受けたって聞いたけど」
「はあ、まあ」
「イベント当日の女性客にも、複数名から声をかけられたって聞い」
「……あんたは甥の恋愛情報を集めるのが仕事なのか?」

 思わずため口で突っ込んでしまった望に、昇はにやりと口元に意地悪い笑みを浮かべる。

「今は離れた母親に代わって俺が気にしてやってるんだよ。可愛い可愛い甥っ子の行く末を」
「野暮な詮索は不要ですから、また妙な気を利かせて見合い話とか持ってこないでくださいね」
「はいはいわかった……、ん?」
「あ」

 会話が進んだこともあり、追加でコーヒーを購入しようと財布を手に取ったときだった。

 折りたたみ財布の狭間から滑り落ちた茶色の紙が、ひらひらと木の葉のように昇の靴先に不時着したのだ。

 まずい。
 そう思ったときにはすでに、紙は昇の手に拾われていた。

 次の瞬間、昇の顔ににんまりと愉快げな笑みが上っていく。

「これはこれは。確かに昇伯父さんの手助けは不要なわけだなあ。甥っ子に、こんな可愛いメモ紙を渡してくれる存在がいるとはねえ?」
「……言っておきますが、最近初めて訪れた夜食処の方が、事務的に渡してくれているものですから。別に何か意味があるわけでは」
「ほおおおお。事務的かあ。事務的ねえ」

 なるほどなるほど、と仰々しく顎をさする伯父が差し出すメモ紙を、昇は憮然とひったくる。

 事務的に渡しているだけのメモ紙。
 それはこの紙を受け取ったときから、幾度となく自分自身に告げてきた言葉だった。

 これはあの人が仕事の一環で渡しているだけの紙。
 他になんの意図もないのだと。

「脇目も振らずに仕事に精を出してきた、副作用が出ちまってるなあ」

 なんとも言えない呟きを残し、伯父は去って行った。
 そんな背中を見送ったあと、望は手元に戻った茶色のメモ紙を開く。

 記されているのは、先日メニューの主役として登場した春キャベツの簡単レシピだ。
 手書きで記したレシピで、どうやら野菜ごとに何パターンか用意されているらしい。

 そしてメモ紙の下部には、数行のメッセージを残すことができるスペースがあった。

 ──今日も本当にお疲れさまでした。
 ──春キャベツの優しさで、今夜はぐっすりお休みになれますように。

 ココア色の水性ペンで記されていたのは、紛れもなく手書きされた沙都の文字だった。

 初来店のあのとき、つい眠りこけてしまった自分に向けて残してくれた、自分宛のメッセージ。
 文末には、簡易的な沙都の似顔絵まで加えられている。

「……可愛い人、だよな」

 本人がいないからこそ、ぽつりと漏れた言葉だった。

 連日の仕事疲れに押しつぶされそうになっていた望を、偶然の出逢いが力強く引き上げた。
 その正体は店舗のまとう温かな空気かも、春キャベツの力かも、あの人の柔らかな人となりかもしれない。

 でもあと一カ月。

 どうせあと一カ月で、自分はこの街を離れる。
 あの店とも当然、繋がりは途絶えるだろう。

「……さて、仕事仕事」

 メモ紙を静かに財布に仕舞った望は、今日中にこなすべき業務スケジュールの洗い出しをはじめた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「こんばんは。今日も一日お疲れさまでした」

 今日「も」。
 どうやら数日前の来店を覚えられていたことに、望は密かに安堵する。

 日中の仕事を怒濤の勢いで片付けた望は、再び夜食処へと訪れていた。
 会社からの道順には少し自信がなかったが、手渡されていたメモ紙に記された住所が頼りになった。

「今日も野菜たちが元気にお待ちかねですよ。メニュー表をどうぞ」
「ああ、いえ。よければまた、以前と同じロールキャベツのお夜食をお願いします」
「承知しました。できあがりまで少々お待ちくださいね」

 ふわりと柔らかな笑みをたたえ、沙都はカウンター内へ戻っていく。

 相変わらずうきうきと音符が見えてきそうな沙都の様子に、望は知らずのうちに笑みを浮かべていた。

「……? どうかされましたか」
「いいえ。ただ、とても楽しそうにお料理されているなあと思いまして」
「……前回は、大変失礼いたしました。頼まれたわけでもなく、野菜のあれやこれやと語りはじめてしまいました」

 巨大冷蔵庫から取りだした春キャベツを脇に置き、沙都は深々と頭を下げる。

 どうやら先日自分が家路についたあと、一人反省会を開いていたらしい。

「確かに圧倒されはしましたが、不快には思いませんでしたよ。野菜への愛情が感じられて、好感を持ったほどです」
「本当ですか」
「ええ」
「よかった……!」

 心底胸をなで下ろしたのが伝わる笑顔に、思いがけず胸が大きな音を鳴らす。

「実は以前、私の話がいきすぎてお客さまに叱責を受けたことがありまして……それ以来、程よい会話を探りつつ経営を続けているんです。馴染みの方は逆に会話を望んでくださる方もいらっしゃいますが、初来店の方がそうとは限りませんから」
「こればっかりは、人それぞれですからね」
「本当に。日々試行錯誤の連続です」

 ふふ、と笑みを交わしたあと、沙都は再び調理へと手を進めていった。

 みずみずしい春キャベツの葉を、労るように一枚一枚切り離していく。
 色とりどりの野菜たちを細切れに刻んでゆき、挽肉と卵、豆腐とあわせて手早くこねていった。
 キャベツの着物を美しく纏ったタネたちが、小鍋の中に丁寧に敷き詰められていく。

 ふうわりと漂ってきた豊かなだしの香りに、望は思わず深呼吸をしてした。

「いい香りですね」
「ありがとうございます。もう少しだけ、お待ちくださいね」

 いたずらっぽく告げる沙都に、望も自然と笑みが引き出される。

 沙都という女性は、どうやらこの店舗を一手に経営しているらしい。

 料理、こと野菜に関して特別な愛情を持っている様子の沙都にとって、きっとこの仕事は天職なのだろう。

 しかしその反面、一人での店舗経営は並大抵の努力では継続が困難だということも、イベント企画に携わる望は熟知している。

 先ほども沙都は、客人から叱責を受けたことがあると話していた。

 正当な指摘ならまだしも、人目が少ない深夜となれば、理不尽な要求を通そうとする輩が現れても不思議はない。

 しかも、こんなに可愛らしい女性がひとりで店に立つというのは──、とそこまで考えた瞬間、望の思考がぱちりと止まった。

 陰った視界に顔を上げると、トレーを差し出す沙都と目が合う。

「お待たせいたしました。ロールキャベツのお夜食でございます」
「あ、ありがとうございます」

 思わず言葉に乗ってしまった動揺を抑えつけ、望は笑顔でトレーを受け取る。

 今日のお夜食も、仕事疲れをひきずった望の食欲をみるみる引き出していった。

 温かなだしの利いたロールキャベツを、ゆっくりじっくり味わっていく。
 このお夜食を食べることで、足りていなかったいろいろなものが優しく補充されていくような心地がした。

「美味しいです。とても」
「ありがとうございます。どうぞゆっくりされてくださいね」

 食事を進めながら、望はそっとカウンター越しに沙都の姿を見遣る。

 緑色のベレー帽を頭に置き、カウンターに並べた野菜たちをひとつひとつ丁寧に手に取っている。
 時に満足げに、時になるほどと顎をさすりながら凝視したあと、表面をそっと撫でつけてふわりと笑みを深める。

 その横顔はまるで、我が子の成長を喜ぶ母親のようだ。

 心の中で呟いた瞬間、伯父のにやけ顔がふと頭を過り、望は慌ててかぶりを振った。

 違う違う。
 これは別にそういうあれではない。

 沙都はただ業務を遂行して、自分に料理を提供してくれている。
 自分はそれを、お金を払って提供されている。

 ただそれだけの関係だ。

 それにどのみち、自分がここに通うことが出来るのだって今月いっぱいであって──。

「あの。もしかして、味に何か問題がございましたか」
「え?」

 気づけば心配そうに眉を下げた沙都が、カウンター越しにこちらをじいっと見つめていた。

 先ほどまで愛おしげに野菜に向けられていた瞳に、今は自分が映し出されている。
 その事実に、心臓が大きく震える。

「今、首を何度か振られているようでしたから。何か不都合がございましたら、すぐに作り直しますが」
「っ、いいえ違います」

 どうやら先ほどの自分の動作が目に留まってしまっていたらしい。
 望は慌てて手を横に振った。

「誤解をさせてしまってすみません。仕事のことで、少し考え事をしていまして」
「そうでしたか。こんなに遅くまでお勤めなんですもの。きっと大変なお仕事なんでしょうね」
「……実は私、来月に関西への転勤が決まっているんです」

 するりと口から出た話題に、望自身驚いた。

 どうして沙都に話そうと思ったのか、話したことで何を期待したのか。
 どちらもよくわからないまま、しかし言葉は元には戻せない。

「転勤自体に迷いはないんですが、慣れた土地を離れることになりますし、やっぱり少し考えることもあって」
「そうなんですね……関西ですか」

 どこかしんみり告げる沙都の表情を、望はうまく見ることができなかった。
 一体どんな表情で言ってくれているのだろう。

「私も、地元から離れるときはやっぱり色々と考えたものですが、期待も不安もありますよね」
「そうですね。それにその」
「?」
「せっかく素敵なお店を見つけたばかりなのに、残念だなあと」
「……もしかすると、うちのことでしょうか?」

 聞き返され、望は顔を持ち上げ正直に頷く。

 その瞬間、沙都の表情にふわっと幸せそうな笑みが浮かんだ。
 まるで桜の花のような人だな、と望は思った。

「ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいですし、励みになります」
「ここのごはんを食べてから、少しおざなりになっていた食生活も見直す意識が出てきました。確かに、食べたものが自分を作ると考えると、あまり適当にはしていられませんよね」
「そう、そう。その通りだと思います!」

 いつの間にか、沙都の野菜愛に火がついてしまったらしい。
 深く頷いたあと、沙都はカウンターに並べていた野菜たちから、大きな丸いものを抱え上げた。

 本日の主役でもある、春キャベツだ。

「このキャベツは、千葉県と東京都の県境の農家さんからうちに来ることになりました。その農家さんは夫婦二人で畑仕事を続けておられるんですが、人手も足りず、幾度となく今期で最後にしよう、最後にしようとお話が出ていたそうなんです」
「そうなんですか」
「それでも、この農家さんの春キャベツを求める人の声はあとを絶たなかった。ご夫婦がこの春キャベツ栽培をはじめたのはもう二十年以上前なんですが、当時ではかなり画期的な農法を取られていて……」

 初対面のときこそ呆気にとられた望も、今回の話には純粋に耳を傾けることが出来た。

 沙都のうちに宿る野菜への愛情を、自分はもうすでに知っているのだ。

「ですから、この地を離れてしまってもきっと大丈夫です」
「……え?」
「お野菜は今はもう、全国至る所で顔を合わせることができますから」

 包み込むような笑顔で、沙都は続ける。

「もしも心細くなったときはきっと、野菜さんたちがお客さんを見守ってくれています。食べてくれてありがとう、私も君を応援するよって言ってくれています。私もずっとそうでした」
「……」
「だから、どうか元気を出してくださいね」
「……俺」
「はい?」
「……少し、元気が出ました。ありがとうございます」

 笑顔で返した望の言葉に、沙都も笑みを濃くする。
 本当に続けたかった言葉を呑み込んで、望は食事を平らげた。

 俺の名前も、お伝えしてもいいでしょうか──なんて、さすがに言えない。

「ご馳走さまでした」
「はい。お粗末さまでした」

 会計を済ませたあと、沙都は前回と同様に小さなメモ紙を渡してくる。

「どうぞ、お気を付けて行ってきてくださいね」
「……はい。ありがとうございます」

 わざわざあんな話をしたんだ。
 きっと沙都は、もう望は店に来ないと思っているに違いない。

 店が見えなくなる位置まで歩みを進めたあと、望は手中のメモ紙の中身をそっと覗く。

 そこには前回と内容の異なるキャベツレシピとともに、やはり手書きのメッセージが添えられていた。

 ──関西のキャベツ料理といえば、やっぱりお好み焼きですね!

「本当に、野菜一色だな。あの子は」

 にっこり微笑む手書きの似顔絵を、親指でそっと撫でつける。

 財布の中に丁寧に仕舞った二枚目のメモ紙は、小さな落胆を抱える望の胸をほんのり温めていた。
「ええっ、それじゃあ榊木さん、関西転勤の噂は本当だったんですかっ?」
「うそー……」

 若い声がオフィスの一角に小さく響く。

 顔を見合わせるのは、勤続五年目ほどの女性社員二人だ。
 新人時代に望が教育係についていたこともあり、今でも慕ってくれている。

「そうなんだ。こちらので大きなプロジェクトもようやく一段落ついたしね。バタバタするけれど引き継ぎはしっかりさせてもらうし、何かあればいつでも連絡してくれて構わないから」
「ありがとうございます……でも! 榊木さんがいなくなるのはやっぱり寂しいですよ!」
「仕事もそうですけれど! これからいったいどうしたらいいんですか? 私たちの日々の目の保養はっ!?」
「ははは……目の保養ね」

 苦笑するしかない望に、「笑い事じゃないです!」と二人が揃って喰ってかかる。

 浮いた話がなかなか出ない自分は、どうやら若い子たちにとっては丁度いい話のネタらしい。
 とはいえ別れを惜しんでくれる後輩の存在は、やはり嬉しいものに変わりなかった。

 先ほど自販機で買ってきた飲み物を差し出しながら、望は微笑む。

「はい。ひとまず飲み物でも飲んで、午後の仕事も乗り切ろう。微糖のカフェラテと、炭酸オレンジでよかったよね?」
「うう……ありがとうございます、榊木さん」
「榊木さん優しい……別れが辛いいい」
「ありがとう。俺も寂しいよ」

 目を細める望に、二人の頬がふわりと桃色に染まる。

 そのとき、ポケットのスマホが震えていることに気づき、望は足早にオフィスをあとにした。

 廊下の先に行き着いたところで着信ボタンを押す。
 母からだ。

「もしもし。母さん、どうかした?」
「ああ、望。仕事中だったかしら、一応昼休憩かと思ってかけたんだけど」
「大丈夫だよ。元気そうだね。身体の具合はどう?」
「お陰さまでとっても元気よ。最近は近所の奥さまたちと小旅行に出掛けたりしてね」

 受話器越しに聞こえてくる弾むような声色に、望は小さく安堵の息を吐く。

 望の母親は、昔から身体が弱い人だった。
 一人で黙々と無理を重ねては、突然倒れてしまうことも一度や二度ではなかった。

 女手ひとつで自分を育て上げてくれた母親に、望は心から感謝している。

 今は無理のないペースで楽しく働いて、友人との時間も取れている。
 母親のとりとめない近況を聞くたびに、望は心穏やかになれた。

「ところで昇兄から聞いたんだけど。あなた、ようやくどなたかいい人が出来たんだって?」
「……はっ?」

 まずい。つい大声を張ってしまった。

 幸い周囲に人の影はないものの、受話器からは母親の愉しげな笑い声が届く。

「実は最近私の職場の人からも、お見合いの話を結構な頻度で頂いていたのよ。あ、私のじゃないわよ。もちろん望のね。お断りの文句を考えるのも結構大変だけれど、お相手がいるなんて嘘を吐くのも、何となく気が咎めたりしていたものだから」
「お相手なんていないって。期待させて悪いけど」
「え、そうなの? でも昇兄が」
「昇伯父さんのいうことは真に受けるなって、いつも言ってるだろ?」

 とはいえ、心底がっかりした声を出されてはこちらの罪悪感も多少は疼く。

 単身上京した息子の行く末を案じているのだろうが、もう三十一。立派な大人だ。
 加えて、結婚を選ばない人生を送る人なんてごまんといる。

「別に母さん、早く結婚してほしいなんてせっついているわけじゃあないのよ。だってほら、現に私自身、結婚直前で大失敗しでかしたいい見本だものねえ?」

 きゃはっと笑う母親に苦笑が漏れる。
 ブラックジョークだ。

「でもあなたってば私に似て、仕事ばかりに明け暮れていると自分を省みなくなってしまうから。ふと周りを見回して、立ち止まれる存在があれば安心だわあなんて、母さん思うのよ。恋人さんじゃなくてもいいの。お友達とか、趣味とか」
「……馴染みのお店とか?」
「そうそう、それよお」

 嬉しそうに語る母親に相づちを入れながら、望の脳裏には先日訪れた店の情景が浮かんでいた。

 彩り豊かな野菜たちを愛して止まない、小柄で可愛らしいあの人の姿も。



 母親との通話をしている中、とある準備が着々と進んでいたらしい。

 望がオフィスに戻る頃には、入り口横のホワイトボードにスケジュール調整の赤ペン文字が多数入り組んでいた。

 話によると、今夜二十時、望の送別会が急遽開催されることとなったらしい。
 先ほどの話を聞いていた社員たちが協力し、時間調整をしてくれたようだった。

 伯父の会社というひいき目なしに、ここはとてもいい会社だ。

 仕事のやりがいも勿論のこと、何より社員同士の人間関係もとても良好だ。

 例えば人生の岐路と呼べる子の出産時も、産休育休は男女問わず取ることが昔からの慣例となっている。
 緊急時の仕事の割り振りや人員補充の仕組みも確立され、それらの負担も見込まれた給与体制も整っていた。

 社員を大切にする風潮があるからこそ、社内の空気も清々しい。

 関西でもきっと、うまくやっていける。
 新鮮な仕事環境が、自分をさらに成長させてくれるに違いない。

 だからこそ望は、真っ先に転勤の打診に手を上げたのだ。

「飲み会の企画は、いつも榊木さんが率先してやってくれていましたからね!」
「こういうときくらい、遠慮せずに誘われてくださいよ!」
「ああ。ありがとう」

 照れくささを覚えながらはにかむ望に、周囲の社員たちが一様に笑顔になる。

 いつも一生懸命な仲間たちに恵まれた幸運を、望は改めて噛みしめていた。
「『今から現地で合流するよ』……と」

 その夜。
 社外で取引先との打ち合わせを終えた望は、ひとり夜の街を歩いていた。

 送別会の指揮を執ってくれている後輩からのメッセージに短く答え、望は早足で進んでいく。

 取引先では思ったよりも話し込んでしまったが、時刻は十九時五十分過ぎだ。
 約束の店には時間通りに辿りつく。

 高層ビルが立ち並ぶ、都内一等地のオフィス街。
 ここでは夜でも眩しいほどのライトが、あちこちで忙しなく瞬いている。

 赤信号で止まった望は、無尽蔵に横切っていくテールランプの名残を眺めながらふう、と小さく息を吐いた。

 周囲から微かに視線を感じたが、さっと確認してみても特に知り合いというわけではない。

 そこまで目立つ格好ではないはずだが、社外に出るときは特にこういった女性の視線を感じるときが多くあった。

 同性の知人に言わせれば「好みの子がいるかもしれないんだから少しは反応しろよ!」とのことらしいが、いちいち足を止めていたら予定のスケジュールをこなせない。

 青信号で渡った横断歩道。
 よし。じきに集合予定の店に着く。

 腕時計を確認し、レンガ敷きの歩道をさらに進んでいく中、早足だった歩みがぴたりと止まった。
 望の革靴の先端に、何かがころころと転がってきたのだ。

 これは──……、キャベツ?

「すみません!」

 呆気に取られた望の背に、ひどく慌てた様子の声がかけられる。

「そちらのキャベツ、私のです! 手から滑り落ちてしまったようで、お怪我はありませんか……って、あれ?」
「あなたは」
「わあ。こんなところでお会いするなんて、偶然ですね……!」

 ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた人物は、夜食処店主の沙都だった。
 しかし目に飛び込んできた姿に、望は一瞬目を見張る。

 今の彼女は、夜食処で目にする緑色のベレー帽にエプロン姿ではなく、爽やかな私服姿だった。

 ふんわり身体を包み込む綿素材の淡色ワンピースに、ジーンズを重ねている。
 背中には彼女の身体の大きさに負けないほどに膨れ上がったリュックがかつがれ、両手の手提げ鞄も苦しそうなほどにパンパンだ。

「こんばんは。このリュックや鞄の中身は……もしかすると、すべてお野菜ですか」
「はい! 今日はお店が休業日なので、日頃お世話になっている農家さんのお手伝いに行っていたんです。そしたら農家さんのご厚意で、こんなにお野菜を持たせていただいて……!」

 人工的な光が瞬く夜の街で、沙都はまるで太陽のように笑った。

 よく見ると、手には土色に染まった軍手がはめられている。
 ワンピースの裾から見えるスニーカーにもほんのり土色が混ざっているし、何より。

「失礼」
「え……?」

 土の香りをまとった沙都に、気づけば望は手を伸ばしていた。

 白い頬に薄く伸びていた茶色を、親指の先ですっと拭い取る。

「頬に、土がついていました。畑仕事を頑張られた証拠ですね」
「あ……」

 望の行動の意図を知った沙都は、照れくさそうに眉を下げた。

「わざわざすみません。一応身なりは確認したつもりだったんですけれど」
「いいんですよ。大変でしたね。今日も一日お疲れさまでした」
「……ふふ。いつもとは台詞の主が逆ですね」

 はにかむ様子に目を細めながら、望は改めて私服姿の沙都を眺めた。

 話によれば今着ているワンピースも、土で汚れた服を隠すためのアイテムとして採用されたのだという。
 それでも、足元をふわりとなびくワンピースの裾は、望の胸を小さく逸らせた。

 休日も野菜一筋な沙都を眩しく思いつつ、望は拾い上げたキャベツを差し出した。

「今日も美味しそうなキャベツですね。幸い傷もないようでよかった」
「はい。ありがとうございます」

 沙都が、嬉しそうにキャベツを抱え直す。
 両手に少しめり込むように提げられた鞄を目にし、望はふとある考えが過った。

 このまま彼女を店舗まで送ったとしたら。
 このキャベツを食する客人は、自分ということになるのだろうか。

「榊木さーん! こっちですこっち!」

 そのときだった。
 通りの向こうから響いた自分の名に、望はぱっと振り返る。

 そこには待ちきれない様子で店舗の入り口から顔を出している後輩の姿があった。

 ネクタイをすでに外していて、飲み会の準備もばっちりといったところか。

「なかなか来ないから、迷子になっちゃったのかと思いましたよー!」
「さあさ、早く来てください! 主役がいなくちゃ始まらないんですから……、あれ、この方は?」

 どうやら、望の背後に立つ人物の存在に気づいたらしい。
 沙都の姿をちらりと確認した瞬間、後輩の瞳にきらりと光が灯った。

「あれれ。もしかして、榊木さんのお知り合いですか?」
「わあ、榊木さんが社外の女性といるところって、何気に初めて見ましたよ!」
「こら。余計なことを言うんじゃない」

 興味津々に沙都を見る二人の後輩を、望は短く諫める。
 とはいえわざわざ紹介するほどの関係でもない。気もする。

 どうしたものかと小さく振り返る望に、沙都は微笑を向けた。

 先ほどまでみせてくれていた太陽のようなものではなく、何か明確に線引きをされたような、よそ行きの笑顔だった。

「足をお止めして申し訳ありません。私が転がしてしまったキャベツを、こちらの方が拾ってくださったんです」
「あ……」
「本当にありがとうございました。それでは、失礼します」

 ぺこりと頭を下げた沙都は、くるりと背中を向けて通りの向こうへ歩いて行く。

 その様子を呆然と見送る望を、後輩二人はここぞとばかりに挟み込んだ。

「榊木さんっ、今の女性、可愛らしい方でしたね……!」
「小柄なのに荷物をあんなにたくさん持って、力持ちだなあ」

 きっと沙都は、望に気を遣ったのだろう。

 互いの関係を言葉にしかねていた望に気づき、ただの通りすがりを演じてくれたのだ。

 唐突に見知らぬスーツ姿の男に囲まれた状況は、沙都にとって居心地のいいものではなかったに違いない。

 それなのに、もしかしたらもう二度と会うことのない、望の心中を慮って。

「──……沙都さん!!」

 夜道に響く声は、真っ直ぐにその人の背に届いた。

 目をまん丸にした沙都が振り返る。
 ボブショートの髪が柔らかく揺れ、背負ったリュックにぺしりと跳ね返されていた。

「明日の夜、あなたのところに行きます!」
「……!」
「必ず行きますから、そのキャベツ、ぜひ食べさせてください……!」

 洗練された街中でくり広げるには、おおよそ相応しくない会話だろうと思う。

 それでも声を張り上げた先で、沙都はふんわりと柔らかな笑みを浮かべてくれた。
 送別会では、終始からかわれて終了した。

 望は知らなかったが、望の私生活については社内でも様々な推測が飛び交っていたらしい。
 実はすでに奥さんがいるとか、彼女がいるとか、彼氏がいるとか、何とかかんとか。

 そんななかで唐突に起こった望の異性関係イベントに、会場に集まった社員たちは沸きに沸いた。

 中には尋常ではないペースで酒を喰らう女性社員もあって、望は慌てて止めに入った。
 そんな望に、女性社員は泣きながら祝福の言葉を贈ってくれた。

 別に祝福されるようなことは何もないのだが、望は黙って受け取った。

 そして迎えた、約束の日。

 夜食処まで続く道を、望はいつもより遅い歩調で進んでいた。

 早くあの店に行きたい気持ちと、何となく行きづらい気持ち。
 ふたつが、先ほどから望の心中をぎゅうぎゅうとせめぎ合っている。

 こんなに緊張することは、仕事上でも経験のないことだった。

「ご馳走さん。また来るよ」

 ようやく夜食処が見える辺りまで差し掛かったとき、中から男性客らしき人物が出てきたのがわかった。

 恰幅のいい中年の男性だ。
 あとに続くようにして、見慣れた小柄の女性も笑顔で姿を見せる。

「いつもありがとうございます、大塚さん。またどうぞお越しくださいね」
「ああ! サトちゃんの作ってくれるごはんは母ちゃんの次に美味いからな!」
「ふふ。それは嬉しいです……、あっ」
「んん?」

 通りの向こうに立つ望に気づいたらしい。
 沙都が視線を向ける方へ、男性客もゆっくりと視線を合わせた。

 眉をしばらく寄せたあと、男性客は何かを呑み込んだように「はあ」と笑みを浮かべる。

「なあるほどねえ。今日のサトちゃん、何だかそわそわ扉を見つめていたなあなんて思っていたが、おっさんの気のせいじゃなかったってわけだ」
「お、大塚さんっ」
「へいへい。野暮なことは言いっこなしってな。そこの兄ちゃん! 突っ立てないで入ってきな」
「は、はあ」

 沙都と親しげに会話を交わしたあと、何故か男性客は望を中へ促した。

 去り際に何やらじいいいっと品定めに近い視線を向けられた気もするが、ひとまず笑顔で会釈したのち夜食処へと入っていく。

「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席にお座りくださいね」
「はい。ありがとうございます」

 いつも通りの笑顔で迎えてくれた沙都に、望はひとまず安堵する。

 昨日の街での出来事で何か不快な思いをさせたかもしれないと思っていたが、杞憂で済んだのなら何よりだ。

 先ほどの男性客は、扉近くのカウンター席に着いていたらしい。
 望はいつも座っている奥のカウンター席に着き、ほっと息を吐いた。

 瞬間、ふと覚えのある匂いが鼻腔をくすぐる。

「どうぞ、おしぼりです。今日も一日お疲れさまでした」
「はい。ありがとうございます」

 差し出されたおしぼりを、有り難く受け取る。
 その間も、心臓が妙な高鳴りをしていることに気づいていた。

「あの」

 口元が緩まないように注意を払いながら、望はそっと口を開いた。

「この香り……もしかするとすでに、ロールキャベツの準備をしていただいて……?」
「あっ」

 カウンター越しに見つめる沙都の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

 どうやら望の想像は、ただの都合のいい妄想ではなかったらしい。

「すみません。今晩お越しになると伺ったものですから、その、おだしのご用意をと思いまして……っ」

 恥ずかしさのせいか、沙都は傍らに置かれていたキャベツで顔を隠した。

 まるでキャベツのお面を被ったような姿に、望はとうとうぷっと吹き出してしまう。

「昨日、俺が絶対に行くと言ったからですよね。わざわざ下準備を整えてくださって、ありがとうございます」
「いいえ。気が早くてすみません。お恥ずかしいです……」
「そんなことありませんよ。嬉しいです。とても」
「その。ご注文は、ロールキャベツでよろしかったですか?」
「もちろんです。ぜひお願いします」
「はい! 承知いたしました!」

 いつものように柔らかな笑みを浮かべた沙都が、ようしと気合いを込めて腕まくりをする。

 手にしていたキャベツは恐らく昨日街中で自分が拾ったものなのだろう。
 わざわざ望の交わした一方的な約束を守ってくれた。

 律儀で優しい──素敵な人だ。

「昨日は、街中でお会いして驚きましたね」
「本当に。まさかお店(ここ)以外でお客さまにお会いするなんて思いませんでした。しかも、あんな姿を見られるなんて」
「あんな姿、ですか?」

 首を傾げた望に、沙都が眉を下げながら苦笑を零す。

「あの洗練された街並みに、私のような土まみれの格好はやっぱり悪目立ちしてしまいますから。農家さんからの最短距離で夜だから問題ないだろうと考えたのですが、少々浅はかでした」
「そんなことはありません。それに、あの道を通ってくださらなければ、今夜の約束も取り付けられませんでした」
「ありがとうございます。でも、お約束がなくともお料理ならしっかりお出しできますから、安心してくださいね」
「……それはまあ、確かに」

 それでも、今夜の来店は望にとって少し意味合いが違った。

 自分が来店する前の、ほんの僅かな時間でも、彼女が自分のことを考えてくれている。
 そのことにこそ意味があったように思う。

 まるで子どもみたいな考えだ。

「そういえば、先ほどの男性客の方はこちらの常連さんなんですか」

 自分の拙さに何となく居たたまれなくなった望は、それとなく話題を変える。

「大塚さんですか? あの方はこのお店のすぐ近くに住んでいらっしゃって、開店当初からよく足を運んでくださるんです」
「そうなんですか」

 先ほど親しげに交わされていた会話を思い返す。

 あの男性客──大塚が口にしていた「かあちゃん」は、恐らく自身の妻のことを指しているのだろう。
 既婚者であるということに、望は密かに安堵の息を吐いた。

「女性お一人でお店を営まれることは、やはり大変な部分もあるのでは?」

 急な指摘に、沙都は鍋で回していたおたまを止め、望を見つめる。

 まずい。
 いくらなんでも踏み込みすぎたか。

「不躾にすみません。ただ、重いものを運ぶようなこともそうですが、無礼な輩があなたを困らせるような事態になった場合、対処が難しい部分もあるのではと……」

 実際今まで携わってきたイベントでも、若い女性スタッフが来客から迷惑行為を受けることも珍しくはなかった。
 そのたびに表立って対処するのは現場を統括する望の役割でもあった。

 しかし、ここでの自分は、そんな踏み込んだ事情を任される立場にはない。

「すみません。つい、立ち入ったことを」
「いいえ。心配してくださっているんですね。ありがとうございます」

 落としていた視線をぱっと上げる。
 幸いなことに、沙都の顔に不快な色は浮かんでいないようだった。

「先ほどの大塚さんにも、開店当初はよく心配されていたんです。若い女の子が一人でお店を出すなんて大丈夫なのか、近くに頼れる男手はあるのか、無礼な輩に言い寄られたり、何かあったときの対処法は考えているのかと」
「あの人が」

 どうやら大塚は、自分よりもよほど踏み入った質問をしていたらしい。

 ともすると、先ほど望が受けた無遠慮なまでの視線の意味も理解ができた。

 要は望自身が、この女店主に言い寄る『無礼な輩』になりはしないかという警戒の視線だったのだろう。

 自分にそのような心配は必要ない。
 必要ない。はずだ。

「そのご指摘もあって、店内には防犯カメラを付けさせていただいているんです。防犯ベルも複数箇所と、私自身にもひとつ。何かあれば飛んでくるといってくださる大塚さんのご厚意にも甘えて、連絡先も頂きました」
「……ああ。それなら安心ですね」

 沙都にはもう、日頃頼りにできる存在がいるのだ。
 それはとても望ましいことであるはずなのに、何故だか複雑な想いが胸に小さく顔を出す。

「誰かに言い寄られるなんて心配はないにせよ、頼りない私を見て強盗に入られる可能性は十分ありますからね。幸いお客さまは皆さんいい方ばかりですが、用心を重ねるに越したことはありませんから」
「? どうしてですか」
「え?」
「誰かに言い寄られる心配だって、十分あると思いますよ。こんなに可愛らしい人が、こんなに美味しいお料理を出してくださるんですから」
「……」
「……あ」

 半ば諭すように口にしていた言葉を振り返り、望は口を噤む。が、もう遅い。

「……余計なことでしたね。すみません」
「……お客さま、本当にご親切な方ですね」

 薄い湯気が立ち込める先の沙都は、望の言葉に動揺する素振りはない様子だった。

 客人から「可愛い」なんて言われることも、沙都にとっては珍しいことではないのかもしれない。

 女店主に言い寄る『無礼な輩』。

 その線引きはいったいどこになるのだろう。
 沙都の迷惑になるのは、いったいどこまで踏み込んだらなのだろうか──。

 そんな考えを過らせている時点で似たようなものか、と望は内心独り言ちる。

「お待たせいたしました。ロールキャベツのお夜食でございます」

 そうこうしている間に、トレーに収められたお夜食が届けられた。

 今日のロールキャベツも、立ち込めるだしの香りが早くも望の食欲をそそる。

 ふわふわに巻かれたキャベツを箸でそっと裂いてみると、詰められた彩り豊かなタネが顔を出した。

 キャベツの優しい食感のなかで、タネに込められた野菜たちの歯ごたえが時折口内で弾ける。美味しいアクセントだ。

 惰性で口の中に放り込んでいた食事とは、明らかに違う。
 身体のどこか足りない場所にじわりと染み入るように行き渡り、温まり、幸福感に包まれていく。

 ──お客さまの身体の一部となって、頼もしい応援団になってくれると思います。

 本当に、その通りだな。

 沙都に出逢った日にかけられた言葉が去来し、望は一人微笑んだ。



「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「はい。お粗末さまでした」

 ロールキャベツのだし汁まできれいに飲み干して、望は胸の前に手を合わせた。

 名残惜しさを引きずりながらも、食事を終えた自分の時間はここまでだ。
 身なりを整え鞄を手にし、席を立つ。

 お会計の金額も、三度目となればもう覚えてしまっていた。
 関西に行くまでの残り日数、この店に来ることはあと何度出来るだろうか。

「転勤前にお越しいただけるのは……これが最後、なんでしょうか……?」
 え、と漏れかけた声を慌てて呑み込む。

 気づけば会計を終えた望を、沙都は遠慮がちに見上げていた。

 カウンター越しでは見ることのできなかった長いまつげ。

 それが望の返答を待つように小さく揺れていて、どきっと大きく心臓が震える。

「すみません。こんなこと聞かれても困りますよね。お客さまもお仕事で本当にお忙しいでしょうし、職場でのお付き合いだってあるでしょうから」
「あ、いや……」
「昨夜街でお見かけしたお客さま……あのきらきらした街の中にとても自然に溶け込んでいらっしゃって、ああ、格好いいなあと思いました。田舎くささが抜けない私とは、きっと住む世界が違う人なんだなあと」

 思いも寄らない言葉だった。

 咄嗟に否定の言葉を出そうとした口を、沙都の笑顔が優しく封じた。

「でも、お客さまはそんな私にも変わらず接してくれました。土汚れを付けた私の顔を、笑顔で拭ってくれました。そのことが私、とても嬉しかったんです。自分でも驚くくらいに」
「沙都さん……」
「ふふ。そう、私の名前を覚えていてくださっていたことも」

 照れくさそうな微笑みを向けられ、望の頬に堪えきれない熱がのぼる。

「関西に行かれても、もしもまたこちらに来る機会があるときはお立ち寄りくださいね。お待ちしていますから」
「……」
「……お客さま?」
「望です」

 短い言葉とともに、望はポケットの中から一枚のメモ紙を差し出した。

 いつも沙都が用意してくれる簡易レシピメモの、半分程度大きさ。
 わざわざ文具店に立ち寄り品定めをした、カボチャ型のメモ紙だった。

「榊木望といいます。名前と……プライベートの電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのアカウントが、こちらに」
「……あの」
「驚かせてしまって、本当にすみません!」

 メモ紙を受け取ってくれたのを確認し、望はすぐさま深く頭を下げた。

 掃除の行き届いた店内の床を見つめながら、望の心臓は痛いくらいに胸を叩き続けている。

「沙都さんに会う時間は、俺にとって特別な時間でした。近く関西に飛ぶ人間がなにをと思われるでしょうが、それでも……このままあなたとお別れになるのは、とても、嫌だなと……」
「……」
「ご近所の方には到底敵いませんが、何かに困ったときの愚痴相手くらいにはなれます。でも、もしも不快に思われたかご迷惑だったら、これは捨ててください。俺も、二度と沙都さんの目の前に現れませんので」
「す、捨てません!」

 気づけば渡したメモ紙は、沙都の両手にぎゅうっと大切そうに握られていた。

 そしてまるでお返しのように、沙都からもいつものレシピメモが渡される。

「私も、同じことを考えていました」
「え……え?」
「愚痴の相手くらいにはなれますって、ご迷惑だったら捨ててくださいって、お伝えするつもりでした」

 受け取ったレシピメモに、そっと目を落とす。

 いつもメッセージが書かれた空きスペースには、名前と電話番号とメールアドレス、メッセージアプリのアカウントが記されていた。

 瞬間、ぐぐぐとこみ上げてくるものを感じ、望は思わず喉を鳴らす。

「榊木さん、とお呼びしてもよろしいですか……?」
「いえ。よければ名前のほうで。俺も沙都さんとお呼びしたいですから」
「それじゃあ……望さん」

 控えめに呼ばれた自分の名に、思わず顔がにやけそうになる。

「アカウント名を書いてはみましたが、実はこういうデジタル関係は疎くて。どうやったら望さんのアカウントを見つけることが出来るんでしょうか」
「もしよければ、今ここで交換しませんか。そのほうが、お互い間違いもないでしょうから」
「よ、喜んで! とはいえ、どこをどう操作したらいいのか……?」
「アプリを起動させてみてください。そしたら、ここにあるプロフィール画面に移動して……」

 慣れない様子で必死にアプリの操作を進める沙都の様子に、胸がじんと温かくなる。

 追加された新しいアイコンは、色とりどりの野菜の写真だった。



「榊木の関西への転勤は、白紙になった」
「……は?」

 素っ頓狂な望の声に、オフィスにいるメンバー全員がぴたりと動きを止める。

 そんななかでも変わらないのは、我らが会社の長、伯父の昇のみだ。

「実は先日、別の東京チームのひとりから、親の介護の関係で急遽関西への転勤希望が出てな。もともと主戦力のお前が抜ける痛手も考慮すると、こちらから二人も関西に出すわけにはいかないってなわけで」

 介護。出産。育児。傷病。
 メンバーの人生の岐路をメンバー全員でサポートしていく姿勢が、我が社の大きな魅力のひとつだ。

「え。それじゃあ、俺は引き続き東京勤務になると?」
「ああ、そうなるな!」
「向こうで用意された社宅の部屋は?」
「お前の代わりに転勤になる奴に、そのままスライドさせるから問題ない」
「でも俺、こっちのマンション引き払っちゃったんですけど」
「ははっ、せっかくだから、この期にもっと立地のいい所を見つけたらどうだ?」

 例えば、もっと気軽にいい人のところに通うことのできる場所とかさ。
 そう耳打ちする伯父に思わず噛みつこうとした矢先、オフィス内は一気にお祝いムードに包まれた。

 よかったよかったと、あちこちで祭の音頭のように交わされる。

 続けて扉近くのホワイトボードにはまたも各自のスケジュール調整のあとに、『祝・榊木課長残留決定会!!』と仰々しい赤ペンで記された。

 このオフィスのメンバーは本当に祝いごとが好きだ。
 自分を慕ってくれるたくさんの存在に改めて感謝しつつ、望はそっとオフィスをあとにする。

 廊下の突き当たりにはめ込まれた大きな窓。
 脇のベンチに寄りかかりながら、どこまでも広がる青空を仰ぐ。

 初めてのメッセージの内容がこれだったら、きっと彼女も驚くだろうな。

 そんな想像を過らせながら、望は追加されたばかりの野菜のアイコンを静かにタップした。

 おわり

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