「な、なんとか一週間の流れがわかりました」
「そうか、そうか、やっぱり若い子は飲み込みが早いねえ!」
住み込み管理人さんは、定年後にここに就職したという。おじいちゃんにはまだまだほど遠い元気なおじさんだった。
「ほう、空手二段持ってるのか。いいね、いいね。でも、約束だ。不審人物を見つけても自分一人でやっつけようとしてはいけないよ。必ず警備会社に連絡。自分の身を守る為だけにその技は使うんだ」
「ほう、行政書士の資格も持ってるのか。じゃあ、難しい書類関係は即戦力だね」
色々なことを教えてもらった。この調子ならうまく仕事ができそうな気がする。
通いの管理人さんは三十半ばくらいの男性だ。この人は警備会社からの派遣だそうだ。週に二日やってくる。その人が来る日が、住み込み管理人さんのお休みの日ということだ。「では、お疲れ様でしたー」
「おう、お疲れ!」
おじさんに手を振り、あたしは食堂へと向かった。へとへとでも足取りは軽い。なんせ、今日は春人くんの美味しいお料理が待っているのだから。
今日はドリアを注文してあるのだ。「イタリアンシェフのお手並み、拝見!」と言って注文したら、「イタリアにドリアはないけどな」といなされてしまったが、とにかく楽しみだ。
春人さんも週休二日だそうで、林さんのお料理の日もある。林さんのお料理はもちろん美味しいのだが、なんだろう、春人くんのお料理は、和でも洋でも中華でも心が温まる味がするのだ。
食堂の入り口の引き戸を開けようとしたところで、「山崎さん?」と声を掛けられた。
振り向くと、大柄な男性がいた。派遣の管理人さんだ。名前は……忘れた。
「こんばんは」
名前を忘れたことが後ろめたくて小さくなる。しかし、管理人さんは気にしたふうもなく嬉しそうに笑った。
「ちょうど良かった! 山崎さんこれから飲み行かない?」
「へ?」
あたし、お腹すいてるんですけど。
「おごるからさ! 管理人同士、親交を深めようよ」
管理人さんはがしっとあたしの手首を掴んだ。
なんか、やな感じだな。
そう思ったあたしは振り払おうとしたが、ふとおじさん管理人さんの声が心に蘇った。
いや、ここで技をかけたら失礼だよね?
「あ、すみません。あたし、今日食堂予約してあって」
やんわりと断ろうとしたが、管理人さんはどこ吹く風だ。肩まで掴んでぐいぐいと自分のほうに引っ張ろうとする。
あたしは幼少時から兄とのプロレスごっこで鍛え上げられているので、動じることはない。が、かといって邪険にするのも今後の職場環境にかかわる気がした。
あー。そっか。川瀬さんとかパートさんがセクハラに対抗しなかったのって、物理的にできなかったんじゃなくて、心理的にできなかったのか。
あたしが明後日のことを考えている間にも、管理人さんはあたしを店の入り口から引っぺがそうとする。
「いいじゃん、いいじゃん。予約なんかばっくれちまえば。しみったれた定食ばかり食べてないで、たまには美味しいもん食おうよ!」
「しみったれた……?」
瞬間、あたしの頭に血が上ってしまった。
「ーー紬!」
「うおっ!」
同時だった。
店から春人くんが飛び出してくるのと、管理人さんが左腕をねじ上げられて悲鳴をあげたのと。あたしが管理人さんの右腕をねじ上げたのが。
「おいおい、何すんだよ!」
管理人さんは怒鳴った。春人くんが手を離すと、管理人さんは尻餅をついた。春人くんは上から見下ろしながら言い放った。
「営業妨害なんですけど。入り口の前でナンパとか。彼女嫌がってるんじゃないですか。しかも『しみったれた料理』とか言ってませんでした?」
管理人さんは立ち上がった。
「やんのか! 俺は警備会社から派遣されてる管理人だぞ! 空手初段持ってるぞ!」
「俺はこのマンションの経営者の甥です」
「あ、あたしは空手二段です!」
話の流れで口を挟むと、春人くんに「黙ってろ」とでも言うように睨まれた。
管理人さん的には「マンション経営者の甥」というのが一番精神にきたらしい。わかるよ、あたしも社畜だったもん。みるまに勢いがなくなった。
「す、すみません! あの、会社にはこのこと……」
すると春人くんはにこりと作り笑いをした。「大丈夫です。俺は言いませんよ。ただ、後ろ見てください」
管理人さんはそろりと後ろを振り返った。
そこには、鬼の形相の川瀬さんと、彼女と腕を組んだお父様がいた。
「おいしー!」
やっとあたしはドリアにありつけた。
先程の管理人さんは川瀬さんとお父様と一緒にどこかに連れて行かれた。まあ、後はあたしの知ったことではない。
食べ終わったらしい二人組のお客さんがあたしの横にやってきた。
「山崎さん、災難だったね」
あたしは顔を上げてへへっと照れ笑いをした。もう一人のお客さんが言う。
「ほんと、しみったれた料理と言われた時には、俺も飛び出していこうかと思ったよ」
「それな。俺たちのお袋の味をなんだと思ってんだよ」
「お袋の味、ですか」
あたしがきょとんとすると、お客さんはにっと笑った。
「これ、店長とか林さんには言うなよ。実は俺たちこのマンションの住人の間では、あの二人はお袋とオヤジなんだ。もちろん、店長がお袋だ」
あたしはぶっと吹き出した。
「もちろん、なんですか」
「ああ。店長の味はお袋の味だからな」
そう内緒話を聞かせてくれると、二人は「ごちそうさまー」と店を出て行った。
そうか、お袋の味。だからあったかい気持ちになるのかな。
あたしは再びお袋の味のドリアに取りかかった。
だんだん気温が上がってきたので今日は麦茶の気分だった。気分良く食後のお茶を飲んでいると、手が空いたらしい春人くんがこちらにやってきた。
「あ、春人くん、さすがイタリアンシェフ。美味しかったよー」
あたしが声を掛けると、春人くんは照れくさそうに「そりゃ、喜んでもらえて良かった」と答えた。
その手にはあたしと同じくドリアが載ったお盆があった。春人くんの休憩時間のようだ。 春人くんがあたしの向かいに腰掛けるのを待って、あたしは頭を下げた。
「ごめんね。お店の前で騒いじゃって」
「紬ちゃんのせいじゃねえだろ」
そう言ってくれる春人くんは優しい。あたしはありがたく「そっかー」と微笑んだ。
「でも、ふたつ約束して欲しい」
「ん?」
あたしはコップを置いて首を傾げた。
「この食堂は住民に夕飯を提供するためにある。もし都合でキャンセルになるなら、連絡をして欲しい。予約があったのに来ないと心配するんだ。家族に連絡するのと同じだと思って欲しい」
「うん、わかった」
先程管理人さんが「予約なんかばっくれちまえ」と言っていたのを聞いていたのだろうか。
「あとひとつ」
「うん」
春人くんはあたしの手に小さなキーホルダーのようなものを握らせた。
「何かあったら、この防犯ブザーを使え。このマンションは防犯ブザーの音に反応して警備が来るシステムになってる」
そういえば、管理人のおじさんの説明である一定以上の音に反応するとかなんとか言われた気がする。
「これ、もらっていいの?」
あたしはキーホルダーを軽く振った。カモフラージュか、ひよこのイラストが描いてあってかわいい。
「ああ。俺が入社した時に叔母にもらった奴だ」
「じゃあ、春人くんの分は? あたし空手二段だから、今度買ってくるから大丈夫だよ」
申し訳ない気がして遠慮する。春人くんは苦笑した。
「俺は格闘技は何もやってないから紬ちゃんより弱い可能性もあるけどな。でも俺はいざとなったら大声出すから紬ちゃんが持っとけ」
防犯ブザーを持った手を軽くぽんと叩かれる。
「うん、ありがとう」
あたしはなんとなく気恥ずかしくなって目を逸らした。でも、心はぽわりとあたたかくなった。
春人くんのごはんと同じだ。
春人くんは、あったかい。
防犯ブザーを見つめていると、もう食べ終わったらしい春人くんが立ち上がった。
「デザートあるけど、食うか?」
「え、それもまさか五十円?」
「そのまさか、だ」
「やったー!」
あたしも、春人くんみたいになれるといいな。春人くんのごはんみたいに、あったかい気持ちを分けてあげられる人に。
春人くんの背中を見つめる。あたしは何故か心臓がドキドキとしてきた。