おいしいごはんをたべましょう!


 翌朝。目覚めたあたしはショックを受けていた。
 ーー初対面の男性の部屋(?)に泊まって、ぐーすか熟睡してしまった!
 あたしは頭を抱えた。倒れてしまったのだから、そこまでは不可抗力だろう。しかし、その後も居座ってしまった。というか、ラーメン食いたいとおごってもらってしまった!
 なんという図々しさ。なんというふてぶてしさ。
 あたしは自己嫌悪に陥りながら部屋のドアを開けた。
「あ、山崎さーん。大丈夫でしたか?」
「わ、川瀬さん?」
 ドアを開けた先、店内の窓際のテーブルでは、川瀬さんが座ってパンをかじっていた。
 そうだ、確か鍵を渡してあると言われたのだった。きっとあたしが起きてくるまで待っていてくれたのだろう。
「ごめんね、待った?」
「ううん、今来たとこ。なーんて! きゃはっ!」
 川瀬さんは朝から元気だった。低血圧で朝が死ぬほど辛いあたしとは大違いでうらやましい。
「山崎さん、今ごはん出しますね。食べられます?」
「う、うん」
 後輩に面倒掛けてしまって情けない。そう一瞬躊躇したが、川瀬さんが「サンドイッチでーす」と紙袋から取り出した途端、お腹が鳴ったので、ありがたくいただくことにした。 川瀬さんの向かいに腰掛けて「いくら?」と聞いた。昼、夜、と続いてこの上朝ご飯までタダ飯を食らうわけにはいかないだろう。コンビニサンドならおよその値段はわかるが、これはどうやら手作りだ。
「あ、これ春人くんが作った奴だからお金いらないですよー」
「えっ」
「てゆーか、すみません。『お前は食べるなよ』って言われてたのに半分食べちゃいました」
 川瀬さんはしょんぼりと目を伏せた。
「そ、そっか」
 あたしは深く突っ込まずにありがたくサンドイッチをいただくことにした。
「冷蔵庫入ってたんで、ちょっとパサついてて申し訳ないですー」
 そう言われたが、よく違いはわからないので美味しくいただいた。
 というか、うまい。
 昨日のお昼はお腹がすいていたから美味しく感じられるのかと思ったが、やはり料理人のつくる物はひと味違う気がする。
 食べ終わると、あたしは深いため息をついた。
 久しぶりにまともな朝ご飯を食べた。
 平日はだいたいよくてもコーヒー一杯、休日は起きるのが昼になるので、社会人になってから朝ご飯などほとんど食べたことがなかった。
「仕事、やめたいなあ」
 窓から差し込むあたたかな朝日を感じながら、自然と呟きが漏れた。
 ここ一年、家には寝に帰るだけだった。今を乗り切れば、と思えればよいのだが、その前の二年間も、家では食べて寝て終わりだった。
 川瀬さんが身を乗り出してきた。
「え、次の仕事のあてとかあるんですか?」
「うーん。あてというか」
 履歴書に書ける資格をいくつか持っている。まだ二十五なら、転職できるのではないかと思う。今より給料は下がっても問題ない。なぜならば、職場直近のマンションの家賃がワンルームなのに十三万もする。寝る為に十三万必要な職場ってなんだ。あたし、なんの為に働いてるんだ。
「あの、山崎さん!」
 川瀬さんがあたしの手を握った。
「な、なに?」
 自分の世界に入っていたあたしはびっくりしてのけぞった。
「うちのマンションの管理人、やりません?」
「は?」

 朝ご飯を食べ終わったあと、川瀬さんと別れて、帰宅した。そして、あたしはマイスイートホームを見回した。
「ゴミ屋敷予備軍……」
 腐るゴミだけはこまめに捨てるように心がけている。が、他はどうだ。
 リサイクルに出そうと思い放置してあるペットボトル、段ボール。仕事のストレスから通販でポチりまくった服やバッグが入っている段ボールや紙袋。いつの間にか枯れてしまっていた観葉植物。棚には白く積もる埃。日差しの心地よかったワンルーム。カーテンは土日の午後くらいしか開けない。
 あたしはそっと玄関を開けて外に出た。
「いや、ないわ」
 暗い気持ちでマンションの階段を降りる。
 あたしって、学生時代はもっとはつらつチャレンジャーな生を謳歌してなかったっけ?
 近くのデパートに向かいながら朝方に川瀬さんに言われたことを思い返す。
 先程、マンション管理人にスカウトされた。聞くところによると、マンションに常駐している管理人さんが一人、通いの管理人さんが一人いるそうだ。ただ、管理人さんが共に男性で、女性の入居者から女性管理人さんも入れて欲しいとの要望を受けていたという。
「住み込みの管理人さんとか、いいと思うんですー」
 川瀬さんはそう言っていた。
 とても、心が動く。
「先輩管理人さんたちが親切に教えてくれるから、初心者大歓迎ですよー」
 とも言ってくれていた。
 が。
「住み込み管理人とか、今より自由時間がないんじゃ……」
 もしかして、夜中でも早朝でも何かあればたたき起こされるのではないか。
 そう思うと「実家に帰ったほうがいいのでは」とも思うのだが、実家は兄夫婦が同居しているため、おいそれとは帰れない。
「うーん」
 あたしは一枚のエプロンを手に取った。転職について考えながらも、きちんと買い物も実行しているあたしはすごい。別のエプロンを手に取る。
「あ、これがいいかも」
 黒や茶色が多い男性向けのエプロンの中で、そのベージュのエプロンは明るくて爽やかな感じがした。
「汚れが目立つかな。でも、これが気に入ったなー」
 これはお礼だ。昨日お世話になった春人くんへの。
 最初は無難に金券にしようかと思ったのだが、相場がわからない。それならば、料理人ならエプロンは消耗品だろうと思い、買いにきたのだ。
 春人くんの顔を思い出す。まだ若そうだったな。三十はいってないだろう。もっと冒険して派手な柄でもいいかもしれない。
「あ、これかわいい!」
 真っ赤なエプロンの胸元にくまさんがいる。「これ欲しい」
 あたしは買い物の目的をあやうく忘れそうになった。あたしは、料理をする時にエプロンなど着けない。というか、そもそも料理はここ三年ほどしていない。
「あれ? もしかして、山崎さん?」
 聞き覚えのある声に振り返ると、後ろには昨日お世話になった春人くんがいた。Tシャツにジーパンというラフな格好だ。こちらに向かって歩いてくる。
「良かったです。元気になったみたいで……」
「あ、春人くん」
 びっくりして目を丸くすると、春人くんは耳を赤くした。
「偶然ですね、って、なんか、照れてます?」
 すると、春人くんは視線を微妙に逸らした。「いや、いい年して春人くんてガラじゃないので……」
 川瀬さんがそう呼んでいたから真似したのだが。
「おいくつなんですか?」
 あたしは尋ねてみることにした。
「あ、えっと、二十七ですが」
 それを聞いてあたしはしょんぼりとした。
「あたし、今年二十六になるんですけど、まだ自分は若いモンには負けないと思ってるんですが」
 すると、春人くんは慌てた。
「いや、若いです! 俺も自分で言うのはなんですが、ぴっちぴちだと思ってますね!」
「ぴっちぴちって、古いですね」
「どっちだよ!」
 そう突っ込んだ春人くんは、あたしの顔を見ると、ぷっと吹き出した。あたしもつられて吹き出した。
「春人くん、じゃああたしのことは紬ちゃんて呼んでいいですよ」
「わかりましたよ、紬ちゃん」
 そう言ったあと、春人くんはちょっと考え込むように顎に手をあてた。
「くん、ちゃん、づけで敬語ってのもなんですね。タメ口でいきましょう」
「そうですね!」
 あたしが元気よく同意すると、春人くんは「そうだな」と笑った。
 あたしは嬉しくなって春人くんのシャツを掴んだ。
「これ、どっちがいい? 春人くんへの昨日のお礼なんだけど!」
 ベージュのエプロンと赤いくまさんエプロンを手に持って見せる。
「いや、別にお礼なんて」
「どっちがいい?」
 遠慮するのでごり押しすると、春人くんはベージュのエプロンを指さした。あたしは再びしょんぼりした。
「赤いのは好きじゃない?」
 ベージュもいいけど、今は赤いくまさんの気分だったあたしは首を傾げて尋ねた。
 すると、春人くんは、こちらを見て一瞬声を詰まらせた。そのあと、咳払いをして「いや、かわいいけど俺には派手すぎて」と答えた。
「てか、気に入ったんなら赤いのは自分用で買えば?」
 あたしはがばりと顔を上げた。
「春人くん……!」
 春人くんはわずかに身を引いた。そのあと、しまったというような顔をした。
「あ、それ俺が買ってやろ……」
「あたしは決めた! このエプロンを買って、お料理をする!」
 そうだ、これを機に料理をしよう。元々料理は嫌いじゃない。疲れているのにやりたいほど好きではないだけで。
 となると、やはり転職だ、転職。
 マンションの管理人の仕事も含めて、転職活動スタートだ!
「買ってくるからね! 待っててね!」
 あたしは後ろで呆然としている春人くんを尻目に、意気揚々とレジに向かった。

 流れで、そのまま春人くんとは一緒にお昼ご飯を食べることになった。
「何食べたい?」
 春人くんがこちらの要望を聞いてくれた。あたしはうーんと考える。久しぶりの外食だ。「ラーメン!」
 昨日のラーメンだけではまだラーメン欲が満たされていなかったのだ。
「らーめん……」
 春人くんがオウム返しをした。
「ん? ラーメンイヤ?」
 では他の物にしようか。そう考え始めると、春人くんは「いやいや」と手を振った。
「嫌じゃない。けど、若い女の子が男とラーメン屋行きたいって、どんだけラーメン好きなんだよ、と」
 どうやら昨日もラーメンを所望してしまったから、生粋のラーメン好きと思われてしまったようだ。間違いではないので、特に訂正はしなかった。
 ラーメン屋に入る。あたしは今日は醤油ラーメンにした。春人くんは「なんか、俺も食べたくなった」と言って昨日あたしに作ってくれた味噌ラーメンを注文した。
 春人くんは苦笑していた。
「ラーメン、ラーメンって、どうせ家ではカップ麺ばっか食ってんだろ」
「いや? カップ麺なんて手間のかかるもの、食べる気力はないよー」
「手間、かかるか……?」
 そんな楽しい(?)会話を交わしながらラーメンを食べる。久しぶりの外食は格別だった。
 満足しながら店を出た。
「紬ちゃんは、これからどうすんの? 良かったら、お茶でも……」
「あ、あたし、転職活動しまっす」
「は?」
 あたしは転職活動しようと思い至った経緯を説明した。
 公園のベンチに座りながらあたしの話をうんうんと聞いていた春人くんは、思い切ったように言った。
「それ、一刻も早く転職したほうがいいぞ。とりあえず、カップ麺くらい作れる環境にしないと」
「うん、でもとりあえず次を決めてからじゃないと不安だから」
「なら、芽衣の言うとおり、うちの管理人やればいいだろ? 今まで二人で回ってた仕事を三人で回すってんだから、そんなに心配するような労働環境じゃねえって」
「うーん」
 だいぶ心が傾いてきた。
 しかし、うまい話には裏がある。
 川瀬さんには懐かれているからスカウトされたのだと思うが、春人くんにまでスカウトされる理由がよくわからない。
 疑問をそのままにしておくのは良くない。だから聞いてみた。
「なんで春人くんはあたしに管理人を薦めるの?」
 すると、春人くんはぐっと詰まった。
 ん? これは何か裏がある?
 その表情を見逃さないようにずいっと身を乗り出すと、春人くんは視線を逸らした。
「ねえ、なんで?」
 春人くんは深く息をつくと、あたしの肩を掴んで自分から遠ざけた。目は合わせないままだ。
「心配、だろ」
「ん?」
 あたしはきょとんと首を傾げる。
 春人くんはあたしに向き直った。
「過労と栄養失調で倒れちまうような生活送ってる奴、ほっとけないだろ」
 春人くんは眉を寄せながらそう絞り出した。「てゆーか、芽衣も今のうちに辞めさせたほうがいいって、叔父さんたちにも言っとく」
「それもそうだね」
 あたしは同意した。川瀬さんのようなかわいい女の子があたしみたいになってしまうのは考えただけで苦しい。
 あたしがうんうんと考えていると、春人くんは立ち上がった。
「俺、そろそろ仕込みの時間だから行くけど」
「あ、うん。またそのうち」
 あたしはベンチに腰掛けたまま手を振った。春人くんはじっとこちらを見下ろした。
 どうしたのかな、と思っていると、春人くんは胸ポケットから一枚のカードを取り出した。見覚えがある。
「今日の夕食も食べに来いよ。住民価格でご提供するぞ」
「えっ、悪いよ」
 あたしは慌ててそのマンションのセキュリティカードを返そうと立ち上がった。が、春人くんはそれを押しとどめる。
「今日の夕飯の予定はなんだ?」
 そう聞かれて、あたしは思い巡らせた。
「冷凍庫に、冷凍チャーハンが入ってたから、それにしようかな」
「よし、食べに来い」
 そう宣言すると、春人くんはマンションへ向かっていった。

 夕方の六時。あたしは例のマンションの前に立っていた。
 結局夕飯の誘惑に負けてやってきてしまった。
 ロビーを抜け、一番奥まで歩いて行くと、例の定食屋さんがあった。
 あたしはそろりと中に入っていく。店内は半分くらいの席が埋まっていた。
「いらっしゃいませー」
 エプロンを着けた中年の女性がこちらに挨拶したあと、不思議そうな顔をした。
「あら。新しい入居者さん?」
 あたしは背筋を伸ばした。そうだった。ここはマンション住人専用食堂。いわゆる会員制レストランのようなもの。
「あ、あたし、はる……こちらの店長の紹介で」
「あ、来たか」
 厨房の奥から、黒いエプロンを着けた春人くんが顔を出した。
 女性はあたしと春人くんの顔を交互にせわしなく見ると「あらあらあらあら」とにこにこした。
「店長ー。お嫁さんを迎えるんですねー」
「ちが……!」
「あ、ちがいます。管理人を募集してると聞いてやってきました」
 あたしが淡々と答えると、春人くんは気まずそうに咳払いをした。
「町田さん。食べたいもの聞いて、適当に出してやってください」
「はいはい、わかりましたよ」
 町田さんと呼ばれた女性はあたしに席に着くように勧めた。メニュー表のような紙を広げる。
「これが今日のメニューね。ここの住人の人は前日までにこの中から食べたいものをオーダーしておくことになってるんだけど、あなたはどれでもいいわよ」
「わあ、どれにしようかなー」
 あたしは手をたたいた。今日のメニューは、ハンバーグ定食、たぬきうどん、カルボナーラ、中華丼、鯖の味噌煮定食の五つだった。
 なるほど。事前に予約を取っておくことによって、無駄のない経営をしているのか。今日のメニューということは、多分飽きが来ないように毎日違うものを提供しているのだろう。食材の有効活用も考えてメニューを決めているのに違いない。
 あたしはふんふんとこのお店の経営について思い巡らせた。
「ここに書いてないけど、おにぎりとお味噌汁はいつでもあるわよ」
「あ」
 あたしは口の中が昨日食べたシャケおにぎりになった。
「おにぎりとお味噌汁にしてください」
「え、それでいいの?」
 あたしは頷いた。あの美味しいおにぎりがまた食べたい。どうしても今はあれが食べたい。
 町田さんからオーダーを聞いた春人くんは少し驚いた顔をした。そして、こちらに向かって微笑みかけた。
「他のメニューは今度また食べてくれよ」
「うん!」
 それは、またこのマンションに食べに来てしまうということを意味していたが、その時は気が回らなかった。ただ、春人くんの料理を食べられるのが楽しみだった。
 次はハンバーグ定食が食べたい。今度ハンバーグ定食がメニューに上がるのがいつだかはわからないが。味噌ラーメンも美味しかった。塩ラーメンもあるのだろうか。
 周りをきょろきょろと見回してみる。
「今日はノー残業デーだったからくたびれたよ」
「わかる。毎日がノー残業デーで済む仕事量にしろってんだよな」
 スーツを着た男性が二人、愚痴りながらも楽しそうだ。
「あなた、そのハンバーグひとくち頂戴」
「じゃあ、お前の鯖の味噌煮一切れ俺にくれ」
「一切れやったら、こっちの食べるものがなくなるんだけど」
 若いご夫婦だろうか。仲が良さそうで微笑ましい。
「ごちそうさーん。明日の夕飯もよろしくー」
 食べ終わった人が出て行くと、また次のお客さんがやってくる。店内は活気があり、なかなか忙しそうだ。
 あたしはなんとなくわくわくとした気持ちになってきた。
「はい、お嬢さんどうぞ」
 しばらくすると町田さんがお盆を持ってやってきた。
「シャケと昆布だそうよ」
「わーい」
 あたしはつやつや光るそのおにぎりに感動しつつ、ぱくりと口に入れた。
「こっちが昆布でした」
 あたしが町田さんに話しかけていると、配膳に入っていた春人くんが顔を出した。
「紫蘇も入れてあるからな。うまいか?」
「うん!」
 あたしがにこにこおにぎりを頬張っているのを、春人くんは目を細めてみつめてきた。やはり、自分の作った物を美味しく食べてもらえるのは料理人冥利に尽きるのだろう。
「あらあらあら。胃袋を掴むのがうまいこと」
「町田さん!」
 春人くんと町田さんが何やらわいわい言っていたが、あたしはお皿に載っているウインナーをいつ食べるかに気を取られてよく聞いていなかった。
 食後、給湯器から無料のお茶を飲む。あったかくて美味しい。
 驚いたことに、この食堂、どのメニューを選んでも四百円だそうだ。量が足りない人の為に、スープやサラダのサイドメニューを追加で頼めるらしいが、それはどれも五十円。どうなっているのだ。お得すぎる。家賃にある程度上乗せされているのかも知れないが。
 一息ついたので帰ろうとバッグをごそごそ整理していると、裏からアラフォーくらいのお兄さんが顔を出した。
「店長、今から入りまーす」
「あ、よろしくお願いします」
 もう一人の料理人のようだ。あたしはそんなやりとりを見ながら、お会計のお盆に四百円を入れた。レジがない。人を信用しすぎだろう、と心配になったが、あたしが口を出すことでもないので「ごちそうさまでしたー」と店内に声を掛けて出口に向かった。
「あ、紬ちゃん、ちょっと待て」
 春人くんがエプロンを外しながらこちらに声を掛けた。
「林さん、ちょっと抜けるんでこっちお願いしていいですか。今日土曜なんでそんな混んでないので」
 なるほど。むしろ土日のほうが食堂はすいているのか。他に外食に行ったり、ゆっくり自炊する時間があるのかもしれない。
 そんなことを考えつつぼーっと突っ立ていると、横に来た春人くんが一言「送る」と言った。
「え。なんで?」
 あたしは首を傾げる。首を傾げられて春人くんは困惑したようだ。
「なんでって、夜だから」
「まだ七時だけど」
 都会の七時など、まだまだ明るくて人通りも多い。というか、うちまですぐそこ、歩いて十分もかからない。いつも今日は午前様なるか、というチキンレースを繰り返している者にとっては、不可解極まりなかった。
 春人くんは少し考えるように口を噤んだ。その後、とってつけたように言った。
「昨日の今日だろ。体調心配だから」
「はあ。でもさっきあたし置いて仕事行っちゃっ……」
 言葉の途中で林さんと呼ばれた男性が顔を出した。
「お姉さん! 店長が送りたいんだって。男を立ててやって。店長は送り狼になれるような甲斐性はないから安心して」
「林さん!」
 春人くんは怒ったようで真っ赤になって林さんを睨み付けたが、林さんはにやにやしながら作業に戻って行った。
 春人くんはこちらに向き直った。
「違うから。でも、紬ちゃんが自宅を知られたくないって言うなら、無理にとは」
「いえいえいえいえ」
 これからここの管理人になったとしたら、自宅の個人情報も何もない。ここは林さんの言うとおり、彼を立てるとしたものだろう。
 じゃあ、ということで、あたしたちは店を出た。
「ほんと近くなんだよ。このマンションとは職場挟んで反対側。『マンションA』って言うんだけど、知ってる?」
 春人くんは目を見開いた。
「『マンションA』!? それ、めちゃくちゃ家賃高いとこじゃねえか!」
「うん。睡眠時間確保の為に、職場に近いところにしたの。背に腹は変えられぬとはよく言ったもので」
 すると、春人くんは頭を抱えた。「そんなとこに住んでたのかよ……」と呟いた。そして、顔を上げる。
「住み込みならうちのマンションは家賃ゼロだけど」
「やちん、ぜろ」
 あたしは繰り返した。
 十三万が浮く。これは断る理由が見当たらないのでは。
 そんなことを話しているうちに、マンションに着いた。
「管理人の件、前向きに考えさせていただいてよろしいでありましょうか……」
 早く決めなければ、他になり手が出てきてしまうかも知れない。あたしは上目遣いでおどおどと尋ねた。春人くんは一瞬目を逸らしたあと、「ああ、急がないから考えてみ」と言ってくれた。
「あ、山崎さーん!」
「へ?」
 春人くんと二人して振り向くと、街灯に照らされながら川瀬さんが手を振ってこちらに走って来るところだった。
「良かったー。今、母からうちのマンションのパンフレットもらって来たんですよう」
 春人くんを無視して、川瀬さんは手に持った紙袋をごそごそした。
「こっち入居者向け、こっち従業員募集です」
 あたしはそれを受け取る。ぱらりとめくると、春人くんも一緒に覗き込んだ。
「あと、これ。契約してる警備会社のパンフレットですー」
「そんなのまで用意してくれたの? 川瀬さん、大変だったでしょう」
「あたしの父が社長やってる会社なんで、すぐですよう」
「そ、そう」
 お母様はマンション経営、お父様は警備会社社長とか、どんだけお嬢様なんだ。
 あたしたち三人は、マンションの前でパンフレットを覗き込んだ。
 ふむ。夜間、早朝はこの警備会社が対応してくれるのか。ならば、一日中気が抜けないというわけではないな。
 川瀬さんはあたしの腕に自分の腕を回した。「ね、やりましょうよー。あたしも山崎さんと一緒に働きたいですー」
 あたしより小柄な川瀬さんがごろごろと甘えるように額を押しつけてくる。春人くんの顔が何故か強張っていた。
「てことは、川瀬さんも転職するの?」
 募集は二人だったのだろうか。人時生産性的に大丈夫なのかと考えてしまうあたしは立派な社畜だ。
 川瀬さんはきらきらした瞳をあたしに向けた。
「はい! 一緒に管理人さんやりましょー」
「おいおい、待て、芽衣」
 ずっと黙っていた春人くんがやっと口を開いた。
「お前、そんなに勝手に」
「お父さんからはいいって言われたもーん」
「ったく、お前んちはどんだけ娘に甘いんだか」
 じゃれあっている二人を尻目にあたしはパンフレットをぱらぱらと眺めた。
 美味しそう。
 そこには「住民食堂完備!」と春人店長のお店が掲載されていた。「疲れた夜も、こちらでゆっくりおくつろぎください」と。
 落ち着いて考えれば、このマンションに入居しなければ、もう春人くんのごはんは食べられないのだ。
 それはなんというか。とても嫌だな。
「ね、やりましょ?」
 川瀬さんが潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
 あたしは決意した。
「うーん。かわいい後輩にそう言われて受けなきゃ女が廃るよね」
 春人くんのごはんが目当てだということは、食い意地がはっていると思われてしまうので言わなかった。
「やったあ! 決まりですね」
 川瀬さんの腕に力が籠もった。そして、何故か春人くんのほうを向いて勝ち誇ったような笑顔を見せている。
「そうだな」
 春人くんはひきつりながら川瀬さんに笑いかけた。その後、あたしのほうを見て「じゃあ、よろしくな」と言ってくれた。

 それから三週間。マンションの面接やら退職手続きやら引き継ぎやらで慌ただしい日々を送った。
 川瀬さんは面接で落とされたそうだ。面接官のお母様曰く「あなたもうちょっと世間を知りなさい」だそうだ。が、さすがに今の会社はブラックが過ぎるということで退職した。今は家事をしながら転職活動をしていると楽しそうに言っていた。
 そして、今日。あたしは管理人としてこのマンションの一階に引っ越してきた。
 ゴミ屋敷のゴミはきっかり処分。使わない物はリサイクルショップで売ると、わりといいお値段になった。つまり、それだけ無駄買いをしていたということだ。
「あれ、紬ちゃん。もしかして荷物それだけ?」
 手伝いに来てくれた春人くんが驚いたように目を丸くした。
 あたしの荷物はスーツケースひとつに、リュックひとつだった。なんせ、夜逃げのようにぼろぼろになりながら今のマンションに引っ越してきたので、他の荷物は全部実家に送ってしまってあるのだ。両親から「片付けろ」と言われているのでそのうち片付けに行かねばならないが。
「手伝うこと、もしかしてないか?」
 春人さんは幾分がっかりしたようだった。親切な人だ。あたしはつい微笑んだ。
「あの、生活に必要なものの買い物、手伝って欲しいなあって。今度は自炊しようと決めたから!」
 春人くんは嬉しそうに微笑んだ。
「よし、荷物持ち、まかせとけ」

「ふー。疲れたねえ」
 あたしは春人くんと向かい合って座布団に座りながらオレンジジュースを飲んでいた。
「そうだな」
 春人くんもスポーツドリンクを飲みながら同意した。
 ある程度買い物が終わり、一段落すると、夕方になっていた。とは言え、六月の空は五時でも明るい。春人くんは今日は食堂のお仕事はお休みだそうだ。
「春人くん、ごはん食べてく?」
「ぶっ!」
 あたしが先程買ってきた食料をごそごそしながら尋ねると、春人くんは飲んでいたスポーツドリンクを吹き出してむせた。
「大丈夫?」
「いや、紬ちゃん。警戒心なさすぎだろ。……他の男相手でもそうなのか?」
 春人くんが探るようにあたしの目を見つめた。あたしは今までの人生を思い返す。
「あんまり、男の人の友達いなかったから、わかんないなあ」
「……そっか」
 ほっとしたような、悔しそうな、微妙な表情をして、春人くんは黙った。
「で、食べる? シーフードとカレー、どっちがいい?」
 あたしはカップ麺を意気揚々と両手に持って尋ねた。
「初日から自炊断念かよ!」
 春人くんの鋭い突っ込みがあたしを襲った。「だ、だって。疲れちゃったし」
 半泣きになりながらカップ麺を持っていると、春人くんが焦ったように「あー、ごめん、ごめん!」と頭をかきむしった。
「良かったら、俺が軽く作ってくるから。ちょい待ってな。紬ちゃんはちょっと休んでろ」
「え、悪い……」
「いーから」
 そう言ってあたしを座布団に座らせると、春人くんはドアを開けて出て行った。そして、隣の部屋のドアが開いて締まる音がした。春人くんのおうちはお隣だから。
「ほい、お待たせ」
 しばらくすると、春人くんは鍋とタッパーを抱えて戻ってきた。
「あ、そのエプロン」
 あたしがあげたベージュのエプロンだ。
 実はこの三週間、夕飯を食堂に食べに行くたびに、あのエプロンを着けていないだろうかとそわそわ観察していたのだ。が、今まで一度も着けているのを見たことはなかった。
「今日、おろしたの? うん、似合う、似合う、イケメン、イケメン」
 あたしは満足してうんうんと頷いた。春人くんは「いや?」と首を振った。
「もらった日から着てたけど」
「そうなの? 着てるの見たことなかったから」
「もったいないから、家で使って……いや、なんでもない」
 春人くんは頬を染めて口ごもった。
 気に入ってくれたんだ。良かった。
 あたしはにこにこしながら、鍋とタッパーを受け取った。わくわくしながら鍋を開ける。湯気がぼわっと出て、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
「肉じゃが作っといた。多めに作っといたから、明日の夜も食えると思う。そっちのタッパーはサラダ入れといた。ドレッシングはさっき買ってたよな?」
 春人くんが説明をしてくれる。あたしはじゅるりとよだれが出そうだった。
「早速、食べよう! 冷めないうちに!」
 スキップしそうな足取りであたしはキッチンに向かった。
「おう、食え食え。鍋は急がないから後で返してくれればいいから」
 春人くんは部屋を出て行こうとする。あたしは首を傾げた。
「食べていかないの?」
 春人くんはわずかに眉を寄せた。そして少し考えてからふわりと笑った。
「紬ちゃんは男にもっと警戒心持ったほうがいいぞ」
「え、でも春人くんは友達だから」
 きょとんとしながらそう返すと、春人くんは苦笑した。そして、あたしの頭をぽん、と軽く一回叩いた。
「友達レベルがもっと上がったら、な」
「……了解しました」
 春人くんが出て行ったドアをしばらく見つめる。
 あたしとて二十も半ばの女性だ。男は狼なのよ、ということくらい知っている。相手によってはそれなりに警戒すると思う。多分。が、これは春人くん個人への信頼なのだが。
「春人くんは、彼女とか好きな人にしか、狼にならない人だと思うんだけどなあ」
 まあ仕方がない。友達レベルが足りないと言われてしまったのだ。これからお隣さんだ。そのうちレベルアップしていくことだろう。
「そうだ、冷めないうちにー」
 あたしは気を取り直して歌いながらキッチンに行った。買ってきたばかりの白いお皿に肉じゃがとサラダを盛り付ける。ドレッシングは色々種類があっても使い切らないのが経験上わかっていたのでイタリアンドレッシング一種類だ。肉じゃがとイタリアン。それもなかなか合うのだ。
 まずはじゃがいもからいく。
「うまっ」
 味の染み方はいまいちだが、これは明日の夕飯に期待できる。
「次にお肉ー」
 美味しくて食が進む。けれど。
「一緒に食べたかったなあ」
 今まで夕飯を家族以外と一緒に食べたことなどほとんどない。一人で食べるのがデフォルトだ。
 けれど、今日はどこかとても寂しい気持ちがした。

「な、なんとか一週間の流れがわかりました」
「そうか、そうか、やっぱり若い子は飲み込みが早いねえ!」
 住み込み管理人さんは、定年後にここに就職したという。おじいちゃんにはまだまだほど遠い元気なおじさんだった。
「ほう、空手二段持ってるのか。いいね、いいね。でも、約束だ。不審人物を見つけても自分一人でやっつけようとしてはいけないよ。必ず警備会社に連絡。自分の身を守る為だけにその技は使うんだ」
「ほう、行政書士の資格も持ってるのか。じゃあ、難しい書類関係は即戦力だね」
 色々なことを教えてもらった。この調子ならうまく仕事ができそうな気がする。
 通いの管理人さんは三十半ばくらいの男性だ。この人は警備会社からの派遣だそうだ。週に二日やってくる。その人が来る日が、住み込み管理人さんのお休みの日ということだ。「では、お疲れ様でしたー」
「おう、お疲れ!」
 おじさんに手を振り、あたしは食堂へと向かった。へとへとでも足取りは軽い。なんせ、今日は春人くんの美味しいお料理が待っているのだから。
 今日はドリアを注文してあるのだ。「イタリアンシェフのお手並み、拝見!」と言って注文したら、「イタリアにドリアはないけどな」といなされてしまったが、とにかく楽しみだ。
 春人さんも週休二日だそうで、林さんのお料理の日もある。林さんのお料理はもちろん美味しいのだが、なんだろう、春人くんのお料理は、和でも洋でも中華でも心が温まる味がするのだ。
 食堂の入り口の引き戸を開けようとしたところで、「山崎さん?」と声を掛けられた。
 振り向くと、大柄な男性がいた。派遣の管理人さんだ。名前は……忘れた。
「こんばんは」
 名前を忘れたことが後ろめたくて小さくなる。しかし、管理人さんは気にしたふうもなく嬉しそうに笑った。
「ちょうど良かった! 山崎さんこれから飲み行かない?」
「へ?」
 あたし、お腹すいてるんですけど。
「おごるからさ! 管理人同士、親交を深めようよ」
 管理人さんはがしっとあたしの手首を掴んだ。
 なんか、やな感じだな。
 そう思ったあたしは振り払おうとしたが、ふとおじさん管理人さんの声が心に蘇った。
 いや、ここで技をかけたら失礼だよね?
「あ、すみません。あたし、今日食堂予約してあって」
 やんわりと断ろうとしたが、管理人さんはどこ吹く風だ。肩まで掴んでぐいぐいと自分のほうに引っ張ろうとする。
 あたしは幼少時から兄とのプロレスごっこで鍛え上げられているので、動じることはない。が、かといって邪険にするのも今後の職場環境にかかわる気がした。
 あー。そっか。川瀬さんとかパートさんがセクハラに対抗しなかったのって、物理的にできなかったんじゃなくて、心理的にできなかったのか。
 あたしが明後日のことを考えている間にも、管理人さんはあたしを店の入り口から引っぺがそうとする。
「いいじゃん、いいじゃん。予約なんかばっくれちまえば。しみったれた定食ばかり食べてないで、たまには美味しいもん食おうよ!」
「しみったれた……?」
 瞬間、あたしの頭に血が上ってしまった。
「ーー紬!」
「うおっ!」
 同時だった。
 店から春人くんが飛び出してくるのと、管理人さんが左腕をねじ上げられて悲鳴をあげたのと。あたしが管理人さんの右腕をねじ上げたのが。
「おいおい、何すんだよ!」
 管理人さんは怒鳴った。春人くんが手を離すと、管理人さんは尻餅をついた。春人くんは上から見下ろしながら言い放った。
「営業妨害なんですけど。入り口の前でナンパとか。彼女嫌がってるんじゃないですか。しかも『しみったれた料理』とか言ってませんでした?」
 管理人さんは立ち上がった。
「やんのか! 俺は警備会社から派遣されてる管理人だぞ! 空手初段持ってるぞ!」
「俺はこのマンションの経営者の甥です」
「あ、あたしは空手二段です!」
 話の流れで口を挟むと、春人くんに「黙ってろ」とでも言うように睨まれた。
 管理人さん的には「マンション経営者の甥」というのが一番精神にきたらしい。わかるよ、あたしも社畜だったもん。みるまに勢いがなくなった。
「す、すみません! あの、会社にはこのこと……」
 すると春人くんはにこりと作り笑いをした。「大丈夫です。俺は言いませんよ。ただ、後ろ見てください」
 管理人さんはそろりと後ろを振り返った。
 そこには、鬼の形相の川瀬さんと、彼女と腕を組んだお父様がいた。

「おいしー!」
 やっとあたしはドリアにありつけた。
 先程の管理人さんは川瀬さんとお父様と一緒にどこかに連れて行かれた。まあ、後はあたしの知ったことではない。
 食べ終わったらしい二人組のお客さんがあたしの横にやってきた。
「山崎さん、災難だったね」
 あたしは顔を上げてへへっと照れ笑いをした。もう一人のお客さんが言う。
「ほんと、しみったれた料理と言われた時には、俺も飛び出していこうかと思ったよ」
「それな。俺たちのお袋の味をなんだと思ってんだよ」
「お袋の味、ですか」
 あたしがきょとんとすると、お客さんはにっと笑った。
「これ、店長とか林さんには言うなよ。実は俺たちこのマンションの住人の間では、あの二人はお袋とオヤジなんだ。もちろん、店長がお袋だ」
 あたしはぶっと吹き出した。
「もちろん、なんですか」
「ああ。店長の味はお袋の味だからな」
 そう内緒話を聞かせてくれると、二人は「ごちそうさまー」と店を出て行った。
 そうか、お袋の味。だからあったかい気持ちになるのかな。
 あたしは再びお袋の味のドリアに取りかかった。
 だんだん気温が上がってきたので今日は麦茶の気分だった。気分良く食後のお茶を飲んでいると、手が空いたらしい春人くんがこちらにやってきた。
「あ、春人くん、さすがイタリアンシェフ。美味しかったよー」
 あたしが声を掛けると、春人くんは照れくさそうに「そりゃ、喜んでもらえて良かった」と答えた。
 その手にはあたしと同じくドリアが載ったお盆があった。春人くんの休憩時間のようだ。 春人くんがあたしの向かいに腰掛けるのを待って、あたしは頭を下げた。
「ごめんね。お店の前で騒いじゃって」
「紬ちゃんのせいじゃねえだろ」
 そう言ってくれる春人くんは優しい。あたしはありがたく「そっかー」と微笑んだ。
「でも、ふたつ約束して欲しい」
「ん?」
 あたしはコップを置いて首を傾げた。
「この食堂は住民に夕飯を提供するためにある。もし都合でキャンセルになるなら、連絡をして欲しい。予約があったのに来ないと心配するんだ。家族に連絡するのと同じだと思って欲しい」
「うん、わかった」
 先程管理人さんが「予約なんかばっくれちまえ」と言っていたのを聞いていたのだろうか。
「あとひとつ」
「うん」
 春人くんはあたしの手に小さなキーホルダーのようなものを握らせた。
「何かあったら、この防犯ブザーを使え。このマンションは防犯ブザーの音に反応して警備が来るシステムになってる」
 そういえば、管理人のおじさんの説明である一定以上の音に反応するとかなんとか言われた気がする。
「これ、もらっていいの?」
 あたしはキーホルダーを軽く振った。カモフラージュか、ひよこのイラストが描いてあってかわいい。
「ああ。俺が入社した時に叔母にもらった奴だ」
「じゃあ、春人くんの分は? あたし空手二段だから、今度買ってくるから大丈夫だよ」
 申し訳ない気がして遠慮する。春人くんは苦笑した。
「俺は格闘技は何もやってないから紬ちゃんより弱い可能性もあるけどな。でも俺はいざとなったら大声出すから紬ちゃんが持っとけ」
 防犯ブザーを持った手を軽くぽんと叩かれる。
「うん、ありがとう」
 あたしはなんとなく気恥ずかしくなって目を逸らした。でも、心はぽわりとあたたかくなった。
 春人くんのごはんと同じだ。
 春人くんは、あったかい。
 防犯ブザーを見つめていると、もう食べ終わったらしい春人くんが立ち上がった。
「デザートあるけど、食うか?」
「え、それもまさか五十円?」
「そのまさか、だ」
「やったー!」
 あたしも、春人くんみたいになれるといいな。春人くんのごはんみたいに、あったかい気持ちを分けてあげられる人に。
 春人くんの背中を見つめる。あたしは何故か心臓がドキドキとしてきた。

「え? 管理人やめる?」
 春人くんは驚いた顔をした。
 管理人さんナンパ事件から一ヶ月ほど経ったある日。
 昼下がりのマンションのロビーで、あたしは春人くんとソファに並んで座っていた。
 あたしは頷いた。
「うん。なんか、女性管理人さんも警備会社の空手三段の職員を派遣することになったんだって」
 どうやら、あの騒ぎのあと、マンション住民から治安が不安だとの声が出て行われた対策のひとつらしい。
 春人くんは目に見えて動揺していた。
「そんな、いきなり決まっても。だいいち、紬ちゃん、仕事と住むとこどうすんだよ」
 あたしは春人くんを安心させようとにっこり笑った。
「それは大丈夫だよ。あの部屋にはしばらくいていいって。仕事は、まあ始めるまでは節約して暮らすから大丈夫!」
「いや、しばらくって、てか、節約ったって」
 春人くんは口をぱくぱくさせた後、押し黙った。そして、思い切ったように顔を上げた。「紬ちゃん!」
「は、はいっ」
 あたしはびっくりして咄嗟に背筋を伸ばした。春人くんは少し言い淀んでから、顔を上げて口を開いた。
「もし、紬ちゃんが嫌じゃなかったら、だけどな。俺の店を一緒に……」
「山崎さーん!」
 甲高い声が聞こえて振り向くと、川瀬さんが大きく手を振っていた。それを見た春人くんは、がっくりと項垂れた。
 こちらに辿り着くと川瀬さんは満面の笑みであたしの両手を握った。
「お母さんから、飲食店許可出ました!」
「ほんと!?」
 あたしは思わず立ち上がった。
「やったね。じゃあ早速開店準備を……」
「ちょ、待て」
 春人くんも立ち上がって待ったをかけた。
「ちょっと、話が見えねんだけど」
 あたしは胸をはった。
「実は! なんと! あたしたち、このマンションにご飯屋さんを作ることになったのです!」
「待て、待て、あたしたちってなんだ、ていうか、ご飯屋はうちがあるだろが」
 春人くんは混乱していた。あたしは説明した。
「あのね、朝食需要に目をつけたの」
 そう。春人くんのお店は一日の終わりの疲れを癒やすご飯屋さん。あたしのお店は一日の始まりの活力をチャージするご飯屋さん。
「管理人さんやってて気づいたんだけど、このマンションの人たちって夜も疲れ切ってるけど、朝忙しくって抜いてる人も多いんだよね。あたし、自分が朝飯抜きの人だったからわかるんだけど、力出ないよ。だから、そういう人たちが、出勤前に気軽に立ち寄れるご飯屋さんを作ろうと思ったの」
 春人くんは口をぱくぱくさせている。川瀬さんが横からあたしの腕を引っ張って絡めた。
「山崎さんの案、あたしもすっごくいいなって思ったからお母さんに言ったの。このマンション建てた理由が『忙しい現代人にきちっとした食生活を』だったから、お母さんも大賛成」
 川瀬さんと目が合うと、春人くんは「お前、その腕わざとだな」と睨んでいた。それにかまわずあたしは続けた。
「おにぎり、お茶漬け、お味噌汁。トースト、スクランブルエッグなどなど。和も洋も扱うよ」
 あたしはうきうき気分で春人くんに説明する。
「扱うよ、って、たとえ軽食ったって、そんなに簡単に飲食店経営はできな……」
 あたしはその言葉を途中で遮った。
「何事もチャレンジ! あと、あたし調理師と栄養士の資格持ってる」
 あたしの学生時代は、興味を持ったことには何事にもチャレンジ、だったのだ。長い社畜生活で忘れていた。
「色々持ってんな……」
 春人くんは降参したようだった。ソファにどかりと腰を下ろした。
「負けないからね!」
 あたしが拳を握ってそう宣言すると、春人くんは目を丸くしたあと、苦笑した。拳を軽く振って「望むところだ」と応戦してくれた。
「じゃ、山崎さん、あたしお母さんと相談してくるんで、また明日!」
「うん、ありがとう。お母様によろしくね」
 そう手を振ると、あたしは春人くんの横に再び腰を下ろした。春人くんは複雑そうな表情だ。
「よく、飲食店やろうなんて思いついたよな」
 あたしは春人くんのほうに体を向けた。
「うん。春人くんのおかげだよ」
「俺の?」
 あたしはにこにこ微笑んだ。
「春人くんのご飯は心がぽわんてあったかくなるの。あたしも春人くんみたいになりたいなって思って、それでチャレンジしてみたくなったんだよ」
 春人くんがいたから。春人くんはあたしの目標だ。
 あたしはちょこんと頭を下げた。
「春人くん、ありがとう」
 頭を上げようとすると、大きな手が頭を押さえつけた。顔が上げられなくて「むう!」と上目遣いで睨むと、春人くんは顔を真っ赤にしていた。
「こっち、見んな」
「なんで?」
 頭を押さえつけられたままちょこんと首を傾げた。春人くんはそっぽを向いたままぼそりと呟いた。
「紬がかわいくてヤバいからだよ」

 おわり


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