吸血鬼令嬢は血が飲めない




……私スアヴィスは、お嬢様のためなら何でも致します。

お嬢様が健やかに育つためならば、10頭でも20頭でも獣の血を搾り尽くすことを厭いません。
お嬢様の平穏な暮らしを脅かす退治人や聖職者の類を、気配一つ漏らすことなく排除してまいりました。
これまで、幾度も、何年も、何十年も。
それなのに、お嬢様。

「あぁ…あぁあ……お嬢様…。」

私は我が耳を疑いました。
私のレギナお嬢様。
小さく、か弱く、臆病な、寂しがり屋な、私だけのお嬢様が、

「…なぜ…?」

なぜ、私ではなく、ただの血肉の生き物を選ぶのです…?

「お嬢様…それほどに、人間の娘が大切なのですか…?私よりも…?」

私はバートランド城の執事です。
ご主人様が地の底に沈んでから100余年。バートランド城の、レギナお嬢様の平穏を守り続けてきた、有能な執事です。
有能な執事ならば、主人の言葉無きご要望も推察すべきでしょう。

お嬢様の秘めたるお考えは、しっかりと理解致しました。

「…はい。承知致しました。
なんて、いじらしいお嬢様…。

“私と遊びたい”のですね?
幼い頃の、人間狩りの続きを今なさっている…そうなのですね?」

そうだ。お嬢様が私以外の存在を選ばれるはずがない。
だって、“お約束”しましたものね…。

「人間の娘さえいなければ、貴女を惑わすものはもう存在しなくなりますね…。
…畏まりました、お嬢様。」

そうしてようやく私は羽を広げ、地に付けていた足をふわりと浮かせるのです。

お嬢様の居場所は、匂いで分かります。
ですが、すぐに決着が付いては面白くありませんよね?じっくり、ゆっくり、遊んで差し上げますからね…。

私の…

「……レギナお嬢様。」
ぞわぞわっという得体の知れない悪寒に、わたくしは震えました。

どれほどの時間歩いたでしょう。
等間隔に青白い蝋燭の光が灯され、銀の甲冑が並べられた薄暗い廊下を、腕にラクリマを抱いて、傍らにニクスを控えさせ、わたくしはジグザグに進んでいました。
デタラメに進んでいるわけではありません。これもラクリマを守る手段なのです。

「…はぁ…。」

進みながら、わたくしは大きな溜め息を漏らし、手元に目を落とします。
安らかに寝息を立てる可愛らしいラクリマ。
何の罪も無いこの子を守る。それは記憶を取り戻してからずっと、わたくしの最重要事項でした。ですから、今この手に彼女を抱いていることに後悔はありません。

一つ懸念があるとするなら、

「……スアヴィス、やっぱり、すっごく怒ってましたわ…。」

執事スアヴィスのこと。
普段無表情で、何を考えているか分からない彼が、あんなに感情を剥き出しにするなんて珍しい。それほどまでに、わたくしが敵である人間を庇ったことが許せなかったのね。彼はわたくしよりずっと長生きな、誇り高き吸血鬼ですもの。規律を重んじる立場であるはずだわ。

我が父が眠りについて100余年、城と使用人達の管理と、わたくしのお世話をしてくれた。それについては恩を感じています。わたくしにとってスアヴィスは執事以上に、お兄様やお父様のような身近な存在…。
そんな彼を裏切ったことが、小さな引っ掛かりとなっていたのです。

「……いいえ。
日頃から侵入者は問答無用で排除されるのです。それに比べたら、女の子一人を生かすなんて大したことじゃありませんわ!」

侵入者が排除されるというのも、いつもスアヴィスの口からポロッと事後報告されるので、わたくしは食い止められません。
しかし今回の事案は前々から分かっていたこと。わたくしの100年以上の準備が無駄にならないよう、しっかり役目を果たさなければ。

その時でした。

「……ん、んん……?」

ラクリマが、わたくしの腕の中で小さく声を漏らしたのです。
わたくしは目を丸くして、彼女の顔を見つめます。

長い睫毛の生え揃った瞼がぱちぱちと瞬き、澄んだブルーの瞳が、わたくしの顔を映しました。

「…貴女、どなた?」

聖歌のように澄んだ声。
この声を悲鳴に変えるまいと必死になってゲームをプレイし続けた日々が蘇ります。
わたくしは唇をアワアワさせながらも、何とか正気を保ち、声を絞り出します。

「…わ、わ、わたくし、…レ、レ、レギナ!ですわ!」

「!!」

わたくしの青白い顔があんまり必死だったせいか、ラクリマはひどく驚いてしまいました。

「…レギナ、さん?」

「…あ、安心なさってラクリマ!
あなたのことは、わたくしが守りますわ!
安全に!城の外まで!送り届けますからね!」

「…え?…城?ここは、ひょっとして…。」

ラクリマは辺りを見回します。
薄暗くて不気味な雰囲気。肌を刺す妖気。わたくしですら悪寒を覚えるこんな環境、人間の女の子にはさぞ苦痛でしょう。

「…ここは、吸血鬼の棲むバートランド城ですわ。
あなたは、えと…この城の吸血鬼に攫われたのです。」

正確にはうちの使用人達に…ですけれど。
しかし正直に話せば絶対警戒されてしまう。それでは本末転倒です。

「…まあ!
じゃあ貴女が、その吸血鬼から助けてくれたの!?」

「え!?」

ラクリマの無垢な笑顔が、わたくしのハートを射抜きます。
不意打ちの可愛らしさにときめいた…だけではありません。彼女に対してわたくしは隠し事をしている。その後ろめたさが、心臓を深く抉るのです。

「…まあ、そうなりますわ。ウン。」

「ありがとう、レギナさん!
女の子なのに、なんて勇敢なの!」

ーーーち、違うんですわ…!

ーーーあなたを攫ったのはわたくしの使用人だし、わたくしこう見えてあなたの10倍年上なんですの…!

そんなこと言えるはずもなく、引き攣った笑みを返すしかありませんでした。

「…えへへ、小さい頃から鍛えてますので…。」

吸血鬼特有の魔術も、腕っ節も自信がありますから、嘘はついてませんわ。

「鍛える?
…あぁ!ひょっとしてレギナさんも、吸血鬼を退治するために?」

「…え、ええ、まあ。へへ…。」

ラクリマは基本、疑うということを知らないのでしょう。何ともわたくしにとってありがたい都合の良さで解釈してくれました。
しかし、

「ん?…レギナさん“も”って?」

「わたし実は聖職者の血筋なの!
森の中へ入ったは良いんだけど…城に乗り込む前に気絶させられてしまうなんて、敵討ちに来たのに情け無いわね…。」

ここへ来て、聞き馴染みのない爆弾発言が飛び出しました。

「…か、敵討ち?」

「そうなの!
昔、わたしの一族の人間がこの城のヴァンパイア・ロードに攫われて命を落としてしまって…。
その敵討ちのために一族代々、ヴァンパイア・ロードを退治することを家訓としてきたのよ。」

「…え?ということは、あなたは運悪く連れて来られたわけじゃなく…?」

何だか雲行きが怪しい。
わたくしの嫌な予感の回答として、ラクリマは何とも純粋な目で真実を明かしたのです。

「もちろん!
レギナさんと同じく、ヴァンパイア・ロードを退治するためにここへ来たわ。」

ーーーえぇぇぇ〜〜〜??

その時のわたくしの顔面は、人様にお見せできないほど蒼白になっていたことでしょう。

「…へぇぇ……か、家族思いですのねぇ…ひぇぇ……。」

驚愕の悲鳴が口の端から漏れ出づります。
確かにゲーム本編では“ラクリマがなぜ城に連れて来られたか”の理由までは描かれていませんでした。
てっきり近隣の村から無作為に攫われたものと解釈していましたが、確かにそれだけではこの死霊城を単身冒険できる肝っ玉が説明つきません。

「…で、でも吸血鬼退治なんておすすめしませんわ!危険だし!
ほら、ちょうどわたくし、怖くなってこの城から逃げるところでしたの!
良かったら一緒に……、」

「あら全然へっちゃらよ!わたし慣れてるし!
何ならレギナさんのことも守ってあげる!」

「…そ、そういうことじゃ…。
あぁ…違うんですわぁ…。」

上手い説得を思いつけずにいると、フッと全身の力が抜ける感覚に襲われました。
こんな時に!根が虚弱なわたくしは、大事な場面で貧血を起こしてしまったのです。

腕に力が入らず、抱いていたラクリマを落としてしまいますが、彼女は何とも軽やかに床に着地しました。それどころか、逆にわたくしの体を支えてくれるという逞しさです。
猟犬ニクスも、不安そうにわたくしの顔を見上げています。

「だ、大丈夫?レギナさん。
すごく顔色が悪いけど…。」

「……あ、ありがとう…。
少し気を張り過ぎただけですわ…。」

「この状態で退治は無理ね。
ひとまずどこかで休みましょ。歩ける?」

「…え、えぇ…。」

なんという失態…。これじゃラクリマを助けるどころか足手纏いですわ…。

…いいえ。
そもそも彼女は最初からヴァンパイア・ロード退治のためにバートランド城へやって来たと言いました。
じゃあわたくしがラクリマを助けるって、イコールこの城の吸血鬼全員を敵に回すことになるのでは?

ーーーそんなことになったらいよいよ、あの冷血執事が黙ってませんわ…!令嬢相手だろうが、どんな折檻をされるか分かったものじゃない…!

そもそも、わたくし自身が退治対象である吸血鬼の眷属だとバレたら、スアヴィスの前にこの子に消されるのではなくて?
推しキャラに退治される…それはそれで、人によっては魅力的かもしれませんが、小心者のわたくしはそこまでのご褒美は求めていません。推しも大事ですが、命はもっと大事ですわ。

「……う、うぅ…。」

わたくしは血の気の失せた頭を必死に働かせます。
ここは穏便に、ラクリマには聖なる力を使わせずにお帰りいただくのが一番だわ。
あくまで、わたくし自身もここへは初めて来た(てい)で。

「…ひ、ひとまず裏口を目指しましょうか。
この道を進んだ先にある……気がしますわ。」

「そうね。じゃあレギナさん、行きましょう!」

明るく言うと、ラクリマはわたくしの手をギュッと握りました。

わたくしはハッとします。
それは、普段なら絶対に経験することのない温もり。人の手の感触。
何とも言えず心地よく、感動的とさえ呼べる感覚でした。
呆気に取られるわたくしに、ラクリマはちょっと恥ずかしそうに言うのです。

「…えへ。たった一人で退治に挑むの、ちょっと心細かったの。
レギナさんがいてくれて嬉しい。」

「……。」

わたくしは握られた手をじっと見つめます。

「…わ、わたくしも、ホッとしてますわ…。一人でいるのは、とっても怖いんですの…。」

聖職者であろうと何であろうと関係ない。わたくしはこの子を何としても守る。きっとそのためにこの世界に転生したのですから。
ラクリマの手をギュッと握り返し、わたくしはふらつく足を前に進めるのでした。


「……あ。
そ、そこの黒いタイルは踏んではダメですわ…。
白いタイルを選んで、ジグザグに進んでくださる?」

「え?どうして?」

「無数の罠が仕掛けてあるのです。
もれなく毒矢が飛んできますわ。」

「………。」

バートランド城内は侵入者を徹底的に排除するため、至る所に罠が張り巡らされています。
もっとも、100年以上もこの城を家として生きるわたくしは、どこに何の罠があるかを熟知しています。防犯システムが過激になった程度ですわ。

「…あ、だめですわ。ここの廊下は全速力で駆け抜けないと、鉄槍が飛び出す………気がします…。迂回しましょ…。」

「よく分かるのねぇレギナさん。」

フラフラのわたくしを導きながら、ラクリマは恐れを知らぬ足取りで城内を進んでいきます。
わたくし達の数歩先を先導するニクスは、しきりに周囲の匂いを嗅ぎ、少しでも嫌な気配のする位置ではピタリと止まります。

「…ほら、ニクスも嫌な気配を察してますわ。お利口ですのね。」

驚くべきことに、その場所はまさに、罠発動の一歩手前の安全地帯だったのです。

ニクスは、並みの吸血鬼相手にも怯まない勇敢な猟犬。下手に敵認定されたら虚弱なわたくしでは、かないっこありませんから、こうして味方と思ってもらえるのはありがたい。

「ウッ…ウゥゥ……。」

「え、レギナさん!?大丈夫?
ニクスの唸り声かと思った。」

安堵したのも束の間。わたくしの全身からみるみる血の気が引いていきます。貧血が無視できないレベルまで迫ってきたみたい。

もしここでわたくしが倒れたら完全にお荷物…。さらにスアヴィスに見つかりでもしたら、生きて明日を迎えられる保証は無い…。

「……ラ、ラクリマ…。わたくしちょっとお腹が空いて……。厨房に寄っても、構いませんかしら…?」

恥を忍んで、令嬢にあるまじき食い意地の張ったお願いをしてみます。
厨房なら牛乳がある。それを飲めば少しは栄養補給ができるはず。

「ええ、もちろんよ!
お腹が空いては力が出ないものね。
すぐに行きましょう!」

「…ラクリマ…!」

ラクリマは少しも訝る様子なく、わたくしのお願いを素直に聞き入れてくれました。
なんて優しいの…。聖職者と聞いた時は心底驚きましたが、やっぱりこの子は正ヒロインですわ。

その時ラクリマとわたくしの間を、黒く冷たいものが駆け抜けました。

「!?」

その怪物は赤い閃光の双眸をギラギラさせて、黒く大きな右手でラクリマを、左手でわたくしの体を掴み上げます。

「うぐっ!」

力は込められていない。けれど極限貧血の今は少しの衝撃でもつらい。
揺れる目を何とか怪物の方に向け、その正体を確かめます。

…いいえ、確かめる必要がありません。
分かりきっていますもの。

「ス、スアヴィス…。」

スアヴィス以外にありませんでした。
燕尾服の裾が生き物の腕のように伸び、ラクリマとわたくしの体を捕らえています。
スアヴィス本体は背筋を伸ばし、両腕を組んだ状態で、ひんやりとした無表情でわたくし達の顔を見ています。

「うっ、は、離して…!」

天真爛漫なラクリマでさえ、恐怖で顔を青くしています。必死にもがきますが、スアヴィスの拘束は少しも緩みません。

「…キュウン…。」

勇敢なニクスも、人ならざる姿を見せるスアヴィスを前にしては、すっかり怯えてしまいました。

「………ス、スアヴィス…!
お願いよ…離して…!」

わたくしは弱々しく懇願します。
無駄だと分かっているのに。主人を鷲掴みで拘束するような使用人が、素直に言うことを聞くはずがない。
スアヴィスは、わたくしを見つめて低く訊ねます。

「…追いかけっこはおしまいですか?
このままでは、ゲームは私の勝ちになってしまいますよ?」

「…ウゥ…!」

わたくしは悔しさと罪悪感のあまり、唇を噛み締めます。
ごめんなさいラクリマ。ごめんなさいニクス。助けられなくて。こんな頼りにならない貧血鬼(ひんけつき)で、本当にごめんなさい…。

霞む視界の端。
ラクリマが、自分を捕える怪物の手の隙間から、きらりと光る物を取り出すのが見えました。

「…レギナさんを離して!!」

それはガラスの小瓶でした。
中に蓄えられていた水らしき液体を、ラクリマは渾身の力で、怪物の手へと振りかけます。
その水が触れた瞬間、

「!!!」

スアヴィスの体が、ジュウゥという音と共に溶け出したのです。
彼の顔が、予期せぬ痛みに歪みます。

「!?」

これにはわたくしも目を見張ります。

あのスアヴィスが傷つけられた。あの水が、ただの水ではないことは明らか。
ラクリマは聖職者の血筋です。その彼女が、魔物を滅するための“聖水”を常時携帯していても、何の不思議もありません。

拘束が緩み、わたくし達の体は自由になります。反射的に、わたくしも残った力を振り絞って、ラクリマの体を抱き上げました。

「わわっ、レギナさん!?」

「…し、しっかり掴まってて!
ニクス…!!」

ニクスを先導させ、わたくしは廊下を、スアヴィスとは真逆の方向へ駆け抜けます。
罠廊下は一定の速度を保って走らなければ、壁と床から鉄槍が飛び出して串刺しになる。わたくしはそのぎりぎりの速度で、前へ前へと足を進めました。

「…やってしまった!
とうとうやってしまった!
スアヴィスを傷付けてしまったわ…!」

わたくしが踏んだ床から、鉄槍が飛び出す感覚があります。しかし足元も後ろも確認する余裕はありません。
ただ目の前のニクスの尾だけを見つめて、わたくしはひたすら走ります。
あぁ…未だかつて、こんなに泥臭く走り回る令嬢がいたでしょうか…。

鉄槍の罠が幾重にも重なり、スアヴィスの追跡を阻んだことは幸いでした。
この隙に少しでも先へ。厨房で牛乳を補給して力を取り戻したら、もう後へは引けなくなります。

「…さあ!ラクリマ!」

「は、はい!?」

「わたくしと一緒に!
“ヴァンパイア・ロードを退治”しに行きますわよ!!」

ラクリマと一緒にゲームクリアを目指すしか、わたくしに残された道は無いのです。

…それでも、さっきのスアヴィスの痛みに歪んだ悲しい顔が、わたくしの脳裏に焼きついて離れませんでした。



蝙蝠の羽が、体の一部が、焼け落ちている。
再生しようにも上手く機能しない。
この感じは覚えがあります。遥か昔、太陽の光にこの身を焼かれた時と同じ。聖なる力によって、吸血鬼の体が蝕まれる時と同じ屈辱…。

ご主人様に匹敵する力を誇る私スアヴィスが、これほどの手傷を負った。
それは大いなる危機であり、同時に大きな転機でもありました。

「……お嬢様。」

不思議と、私の頭は冷静でした。
大切なお嬢様は、私の安否には目もくれず、あの人間と共に逃げ去ったというのに。

私は有能な執事でございますから。
素直ではない、儚く弱いお嬢様の内なる思惑を、そっと推し量るのです。

お嬢様はこれからどこへ向かわれるのか。
私は先回りして、どこへ行くのが最適なのか。
そしてどう行動すれば、“私達”にとって一番良い結末となるのか。

「……ふ……。」

笑い声が漏れたのは、生まれて初めてです。
あぁ、もうすぐですよ。お嬢様。
もうすぐゲームは決着致します。

「…楽しみです。お嬢様…。」

「ーーーレギナさん、ここ本当に厨房?
なんだか変なにおいが充満してるけど…。」

「…しー!ラクリマ、静かに…!
物音立てないように…進んでくださいまし…!」

わたくしはラクリマの手を借り、何とかバートランド城の厨房に辿り着きました。
しかしここは「厨房」とは名ばかりの獣の穴ぐらのような場所です。
明らかに人間サイズではない、巨大な洗い場やオーブン、そして山のような肉挽き機。
獲物を血飛沫立てて豪快に調理する反面、掃除を怠るものだからあちこちから異臭が漂い、割れた皿の破片やゴミもそのまま。作業台の上に置かれた大きなカボチャやチーズは何年物なのか、黒いカビを纏っています。決して衛生的とは言えない環境です。

「こんなに広いのに、誰もいないのかしら?」

ラクリマが疑問に思うのも当然。
この厨房には足りないものがあります。それは他ならぬ、料理長です。

我が父が眠りについたとたん、料理長は腕を振るう気を無くしてしまいました。
わたくしは昔から血が飲めないので、基本的に料理長お得意の“レア料理”を口にしません。実に100余年、料理長は仕事をサボっているのです。使用人としては長すぎる休暇だわ。

「………。」

その間わたくしに、血肉の代わりとなる栄養満点の料理を作ってくれたのは、他でもないスアヴィスでした。
彼がいなかったら、健やかな今のわたくしはいない。

「…スアヴィス…。」

急に気持ちが寂しくなって、わたくしはしょぼくれます。
聖水に焼かれた彼の羽…。とっても、痛かったでしょうね…。

「……。」

けれどそれは、目の前のラクリマが、わたくしを助けたい一心でしたこと。その気持ちは純粋に感謝です。

「…ラクリマ、さっきはありがとうございましたわ。おかげで助かりました…。」

「え?えへへ、いいのよ。
レギナさんが無事で良かった!」

屈託なく笑いかけるラクリマに、わたくしもぎこちない笑みを返します。

わたくしは牛乳が保管されている戸棚の扉を開きます。
厨房全体は荒れ放題ですが、ここはわたくしの常飲する牛乳の保管場所ですから、比較的汚れは少ないものでした。

「さあ、これはごく普通の牛乳………のはずですわ。あなた達もどうぞ。」

「じゃあ、お言葉に甘えて!」

ブリキの缶を抱えられるだけ多く取り出し、ラクリマとニクスにも一本ずつ渡します。
恥ずかしいのでラクリマに見られないよう顔を逸らして、わたくしは牛乳をお腹に流し込みます。
まろやかな美味しさが口いっぱいに広がり、空腹と、貧血が少しだけ和らぎました。

ラクリマが牛乳を飲む控えめな音と、ニクスが舐めるぴちゃぴちゃという音。誰かと一緒に食事をするなんて、本当に久しぶりです。
異臭漂うこんな環境でなければ、安らぎのひと時となったかもしれないのに。

「……はあっ、お待たせしましたわ。
どうもありがとう!」

口元を拭いながらラクリマを見ます。
しかし、彼女はわたくしの方を見ていませんでした。怯えた目はある一点を凝視したまま動かない。それはニクスも同様で、やや遠くを見上げて小さく小さく唸っています。
わたくしは何度目かも分からない嫌な予感を覚え、ラクリマ達と同じ方向を見遣りました。

同時に遥か高い位置から、教会の鐘ほどの大きさの、金属製の肉叩きが降ってきました。

「危ないっ!!」

わたくしは二人に体当たりして、間一髪肉叩きの攻撃を避けました。
たった今わたくしが座り込んでいたタイルの床は、肉叩きの一撃を受けて無惨にも破壊されます。床の抜けた大穴の中へ、牛乳缶が何本も落ちていきました。

「な、なに!?」

次の二撃目が降りかかってくるのを、今度は三人とも別方向に飛んで避けました。

「……や、やめ!やめなさいクラテル!」

わたくしは金切り声を上げました。
大声を出さないと、今まさに我々を退治しようとしている、大男クラテルには聞こえないと思ったからです。

肉叩き攻撃がピタリと止んだおかげで、わたくしはクラテルの姿を見上げることができました。

「…ひいぃ!!」

いつ見ても、なんというインパクト。
体長5メートルはある巨大な吸血鬼コックです。エプロンのあちこちに赤茶色の汚れを染み込ませ、土気色のパンパンに膨れた顔の中にある、小さな小さな赤い目が、わたくしのことをじろりと睨んでいます。
『コープス・フォート』で幾度となくヒロインを苦しめた、トラウマ級の中ボスです。

「……誰だぁ…おれの神聖な厨房に忍び込んだのは…?お嬢様みたいな格好しやがって…。」

「!?」

クラテルの言葉を聞き、わたくしではなくラクリマがギョッとします。

「……お、“お嬢様”…?」

わたくしの背筋がひんやりとします。
クラテルは今、間違いなくわたくしに対してお嬢様と言った。

クラテルは小さな目を一層細めて、わたくしとラクリマと、猟犬ニクスのことを品定めします。

「…ちょうど良い。メインディッシュに困ってたんだぁ。
いつご主人様が目覚められてもいいように…ご馳走を準備しておかねぇと…。」

「わ、わたくし達を食べる気!?
ゆ、ゆ、許しませんわよ!」

クラテルはわたくしの言葉に耳を貸しません。聞こえていないのか、敢えて無視しているのかは分かりません。
丸々とした大きな手は、わたくしには目もくれず、ラクリマとニクスを容易く捕らえます。

「きゃっ!?」

「人間の娘は甘くて美味いんだよなぁ。
ご主人様も、人間の子どもの血が大好物だった…。
メインはこれのレアステーキにしよう。」

「!!」

ラクリマが、クラテルの手の中で身を捩ります。
しかし強い力が込められているのか、拘束を解くことも、聖水を取り出すこともできずにいます。

「…ガァウ!」

ニクスが牙を剥いて、クラテルの手に噛みつきます。
…しかしそれも、巨人クラテルにとっては痛みにさえ感じませんでした。

「……た、大変……!」

わたくしはこの光景に見覚えがあります。
汚らしい厨房を彷徨い歩くヒロイン。しかし運悪く巨人の料理長に見つかると、その太い指に捕まってしまい、ヴァンパイア・ロードのメインディッシュにされる…。

ーーー間違いない…これ、バッドエンドルートですわ!!

「活きが良い獲物は…新鮮なうちに…料理しねぇと…。」

「…や、やめてクラテル!!」

わたくしは蝙蝠の羽を広げて飛び上がります。
一瞬の躊躇はありました。なぜならラクリマに、わたくしの正体を知らしめるようなものですから。

しかしバレることを恐れて何もせずにいたら全滅してしまう。
わたくしは調理台の上にあった巨大なカビカボチャを持ち上げ、クラテルの頭目掛けて投げつけます。

ぐちゃ、という鳥肌モノの音がして、カボチャは無惨に潰れました。
その下のクラテルは、なんということでしょう…悲しいくらいに無傷でした。

「…うっ、うーん!」

ラクリマは苦しげに顔を歪めています。
どうしよう、どうしよう、わたくしに何が出来るの…?
アワアワとパニックに陥るわたくしは、ほぼ無意識に、最後に残った頼みの綱の名を叫びました。


「…ス、“スアヴィス”!!助けてっ!!」


わたくしの叫びとほぼ同時でした。
ラクリマ達を捉えるクラテルの太い腕が、浅黒い綱のようなもので突如締め上げられたのです。あれは本来ブロック肉に巻きつける凧糸ですが、それが今は、ハムに似たクラテルの腕に巻きついています。

クラテルの腕を縛り上げた張本人が、ふわりと頭上から舞い降ります。
クラテルが至極怯えきった顔で、その吸血鬼を呼びました。

「……し、執事長……。」

スアヴィスでした。
大きな蝙蝠の羽には痛々しい火傷痕が残っているものの、飛行には支障ないようです。真っ白な手袋を付けた手で綱を握り、クラテルの腕を的確に押さえつけています。

助けを呼んだ手前、わたくしは新たな問題を抱えることに。
今更どの口が、スアヴィスに助けを求められるのでしょうか?だって彼に対して、裏切りとも呼べる行動を取ったのに。

「……あ、…あの、スアヴィス…。」

「……。」

スアヴィスはわたくしに構うことなく、クラテルのことを冷めた目で見下ろし、淡々と言うのです。

「…クラテル。その娘はご主人様にお出しするには問題ですね。
…分かりませんか?それには“毒”があるでしょう。」

スアヴィスは何を言っているのでしょう?
人間であるラクリマに毒なんてあるはずが…。

固縛によってクラテルの手の力が緩みます。
その隙間から、ラクリマは小瓶に残った聖水を、すべてクラテルの手に振りかけました。

「…えい!!」

「あぎっ!?」

クラテルは短い悲鳴を漏らし、反射的に閉じていた手をパッと開きます。
宙に放り出されたラクリマとニクスを、わたくしが慌てて飛んでキャッチしました。

「……レ、レギナさん…。」

ですが、やはりというべきでしょう。
ラクリマは何とも悲しそうな目で、わたくしのことを見ています。正確には、背から広がる一対の羽を。
わたくしはその視線から逃れたくて、クラテルの方を見ます。
手の平の大部分に大火傷を負ったクラテルは、痛みと怒りとでブルブル震えていました。

「…ど、毒だ!毒持ちめ!
危うくご主人様の晩餐に出すところだったじゃねぇか!許さねぇ!」

とんだ八つ当たりです。
怒りに任せて腕を振り回すクラテル。巨体に見合わずその動きは俊敏で、わたくしはラクリマとニクスを抱えた状態で右へ左へ逃げ惑う。

そんな暴れ牛と化したクラテルを律することが出来るのも、執事長であるスアヴィスだけなのです。

「クラテル。貴方には100余年仕事を放棄していた分、相応のお仕置きを与えます。」

スアヴィスが涼しい顔で、手にした綱を強く引きます。
するとクラテルはまるで操り人形のように、その巨大な拳を床に叩きつけました。
地鳴りに似た音が上がり、老朽化の激しかった床はいとも簡単に崩れ落ちる。厨房の床下には何もない、奈落の空間が広がっていたのです。

「貴方の大好きなご主人様の元へ行きなさい。」

足場を失った巨大なクラテルはどうなるでしょう?当然重みのままに、その奈落へ真っ逆さまに落ちていくだけ。
悲鳴と、絶望に染まった顔が暗闇へ沈んでいくのを見て、わたくしもラクリマもゾッとしました。

しかしさらに震撼したのは、たった今クラテルを葬ったスアヴィスが、わたくし達のすぐ真後ろに迫っていたことだったのです。

「!!」

わたくしが振り返るより早く、スアヴィスはその広い手の平で、わたくしの背をトンと押しました。

「あっ!」

押された衝撃で、なんとか守ったと思っていたニクスと…ラクリマを、

「ーーーラ…っ!」

うっかり、手から落としてしまったのです。

クラテルが消えた奈落へと、ふたりが落ちていく様子がひどくゆっくりに見えました。
急降下して追いかけることもできたでしょう。

「…あ、あぁ……!」

しかし、わたくしはひどい小心者であることを忘れていました。
怪物すら飲み込むどこまでも続く暗闇が、とても恐ろしかったのです。
この奈落の底で眠る我が父の存在が、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったのです。

わたくしは顔を真っ青にして、声を上げることも忘れて、落ちていくラクリマとニクスをただ茫然と見つめていました。

そんなわたくしの両肩に、冷たい両手がそっと触れます。

「捕まえましたよ、お嬢様。」

わたくしは何も言えません。
これから何が起きようと、何をされようと、わたくしには何もできない。今更、

「…もう、私からお逃げにならないのですね?」

まるで全身の血を搾り尽くされてしまったように、まったく気力が湧かないのです。

ーーー

ーー

スアヴィスはその後、わたくしに対してお仕置きも、危害を加えることもしませんでした。
ただ元のように、椅子に体を預けてぼうっとするわたくしに甲斐甲斐しく世話を焼くだけ。
わたくしの長い髪をブラシで梳く彼は、相変わらずの無表情でした。何を考えているのかも分かりません。

「……スアヴィス…。」

数週間ぶりに口をきいたせいで、掠れた声が出てしまいました。

「…わたくしのこと、本当は憎らしく思ってるでしょう…?
吸血鬼の敵…聖職者の娘を助けようとして…散々あなたに逆らったわ…。」

「……。」

「…わたくし、もう何もしないわ。何も無いの。
最初から、あの頃から本当は分かってたのに、わたくしは愚かにも…自分ならできると思ってしまったの…。」

長いこと栄養を口にしていないせいで、肌も唇もカラカラに乾いています。それなのに、悔しさから涙は滲むのです。
スアヴィスはブラシの手を止めません。

「…スアヴィス。わたくし、ラクリマと一緒に、我が父のことを退治しようと考えたのよ…。
こんな裏切り者、生かしておいてはだめでしょう…?」

スアヴィスの手は止まりません。

「…裏切り者のわたくしのことなんて、あなたの好きにしていいのよ。
だからお願い、わたくしを……、」

急に、スアヴィスの手がピタリと止まりました。
次いで、ブラシが鏡台の上に強めに置かれ、彼は青白い顔をわたくしの顔にグッと近づけてきました。

「!?」

予想外の行動にわたくしはギョッとします。
彼は無表情…のようですが、至近距離でよく見ると、瞳が爛々としています。何かを期待するような輝きです。

「本当に、よろしいのですか?」

「…えっ?」

まさかそんなに迫られるとは思わず、わたくしはビクビクしながら首を縦に振ります。
彼は獣の生き血を抜くことを躊躇わない男です。とても痛い方法で、わたくしの命を奪うに違いありません。

…それでもいい。

ラクリマが死んでしまったのに、役に立てなかったわたくしが生き続ける理由はない。
…それに、わたくしに対して一度も牙を剥かなかったスアヴィスになら、何をされてもいいと思えました。


「ーーーでは、お嬢様。
私の血をお飲みくださいませ。」


「……んえ?」

スアヴィスの提示した要求は、全く予想しなかったものです。
獣でも、人間でもない。彼自身の血を飲めという。

「…な、なにそれ…。
でも、わたくし血が…、」

苦手、と言おうとしたのをスアヴィスが遮り、とても落ち着いた様子で言います。

「お嬢様の幼少期の心の傷は、重々承知しております。
…ですが吸血鬼の体は、血を飲まねば緩やかに朽ちていく。150年保ったとしても、これから10年、20年後に、突然肉体を失ってしまうかもしれません。

私の好きにせよと仰るのでしたら、
“お嬢様を生き長らえさせたい”。
それが私の望みです。」

「…そんな…。」

スアヴィスの目は真剣でした。
一体どんな気持ちで、わたくしを生かそうと考えるのか。彼の心が、分からない。

「幼い頃のお嬢様とのお約束。
私ならばそれが果たせることを、証明したいのです。」

「え…。」

幼い頃の、約束。
スアヴィスとした約束なんて、幼い頃のあの一度きりのはず…。

それは、わたくしがまだ“人間”だった頃。ヴァンパイア・ロードによってこの城に連れ去られた日のことです。


わたくしは我が父の実娘ではありません。
ごく普通の、僅か10歳の人間の女の子でした。

『……ううっ、う、っ…。
おとうさま…おかあさま…。』

ヴァンパイア・ロードの花嫁となるために攫われ、失血寸前まで血を啜られ…眷属として吸血鬼へ変貌させられた憐れな怪物。
それがわたくし、レギナでした。

『初めまして、レギナお嬢様。
私は執事のスアヴィスと申します。
何なりと、お申し付けくださいませ。』

そんな幼いわたくしが一人前の吸血鬼となるため、世話係に任命されたのが、他でもない執事スアヴィスであり、

『……おねがい…わたしと、ずっといっしょにいて…。
わたしを、たすけて…。』

人間から切り離された幼いレギナが、唯一依存できる存在もまた、執事スアヴィスただ一人でした。


『…はい。ご命令とあらば。
スアヴィスがずっとおそばにおります。
私が貴女を何者からも守ります。
お約束です、お嬢様。』

血を吸われるのは、とても痛くて恐ろしかった。そのことがトラウマとなり、未だに血に対する恐怖心を植えつけたのです。

「……わ、わたくしなんて、このままカラカラに干からびて、朽ち果ててしまうのがいいのよ…。

…わ、わたくしが、いないほうが…あなただって、自由に……。」

何一つ思い通りにならないことが歯痒い。スアヴィスの広い胸を弱々しく叩きながら、わたくしはポロポロと涙を零しました。

「…あ、あなたが、分からないわ…。
…わたくしのことを憐れんでくれるなら、こんな恐ろしい世界から、助け出して…。
…ラクリマのいない世界で、…我が父に怯えて、それでも生きるなんて…わたくしには耐えられない…。」

『ずっと一緒にいて。』
あの言葉は、呪縛を望んで言ったわけじゃないのに。