ふいにスアヴィスの視線がわたくしから、背後のドアへと移ります。
廊下の向こうから何者かが走ってくる微かな足音。わたくしは何事かと、首を捻ってドアを見ます。

「ーーーワンッ!!」

ドアが開け放たれた時、わたくしの止まっていた時計が、息を吹き返しました。


「…やっと見つけたわ執事!!
レギナさんから離れなさいっ!」

「ワンワン!!」


ラクリマとニクスです。
一ヶ月間地の底を彷徨い歩いた二人は、体中傷だらけでした。
ラクリマの頬も、ニクスの体も少しだけ痩せている。それでも、二人の目には生気が確かに宿っていたのです。

「随分と遅いお着きですね。
我がご主人様はどうなりました?」

好機を邪魔されたと思っているのか、スアヴィスが機嫌悪そうに訊ねます。
ラクリマは胸を張り、高らかに言い返しました。

「当然!ありったけの聖水で滅ぼしたわ!!
あとは一ヶ月間、ニクスに案内してもらいながらひたすら出口を目指したわよ!」

「一ヶ月も飲まず食わずでよく死にませんでしたね。…吸血鬼でもあるまいし。」

スアヴィスの言葉の棘が鋭くなります。
しかしラクリマは、一ヶ月暗闇を彷徨ってさらに肝が据わったせいか、少しも動じません。

「幸い牛乳缶も一緒に落ちてたから、食料に困らなかったわ!」

わたくしは今も目の前の光景が信じられません。本当に二人は生きている。
生きて、元気な顔を見せてくれている。

「……ラ、ラクリマ…!…ニクス…!
…ごめんなさい、全部わたくしが悪いの。早く城から逃せば良かったのに、あなた達を危険な目に遭わせて…。」

ラクリマは、わたくしを責めませんでした。
それどころか、初めて会った時と同じ、無垢で優しい笑顔を見せたのです。

「もういいのよ。レギナさん。」

そして、彼女もまた、わたくしの全く予想だにしないことを言いました。

「…いいえ、“レギナ大伯母様”。

あなたを攫ったヴァンパイア・ロードは、わたしがこの手で退治したわ。
敵討ちは無事に終わったの。」

「!」

思わず息を呑みます。

「…わたくしのこと、気づいてたの…?」

「名前を聞いた時はまさかと思ったわ。
わたしのことを必死に助けようとしてくれたのも、同じ一族の娘だから、自分と同じ目に遭わせないためにしてくれたんでしょう?」

胸が強く締め付けられます。
わたくしがラクリマを助けたかった理由…それは彼女が、前世でプレイしたゲームの愛着あるヒロインだから。
でもそれだけでは、小心者のわたくしはあそこまで体を張れなかった。

わたくし自身が、ヴァンパイア・ロードの恐ろしさを身をもって経験していたから。
そして、レギナの一族であるラクリマ
に同じ運命を辿ってほしくなかったから。

今こそあの落とし物をこの子に返すべきだと思いました。

「…ラクリマ、これ…。」

わたくしは地下牢で拾った写真を、ラクリマへと差し出しました。
ラクリマは歩み寄り、わたくしの手から写真を受け取ります。

「…そこに写ってる女の子は、“人間だった頃のわたくし”です…。
あなたとよく似た面影がありますわね…。」

懐かしくて、悲しい…。
吸血鬼となったわたくしは今や、怪物。写真の中の、ラクリマに似た清純な少女とは似ても似つかない。
この写真こそ、ラクリマとわたくしが遠い血縁者であるという証明でした。

「大伯母様は、当然亡くなってしまったものだと思ってた。
…でも違ったわ。貴女は吸血鬼の姿で、わたしが来るのをずっと待っててくれたのね。」

ラクリマが、わたくしを拒絶することなく微笑んでいる。

なぜこんなにも、臆病なわたくしを信じてくれるの。
吸血鬼にも人間にもなれない。この城から逃げることも、我が父に立ち向かうこともできなかった、小心者な貧血鬼を。


「…うん、…待ってましたわ。
あなたをずっと、待って、ましたの…。」

わたくしの150年が、やっと報われた思いでした。


涙を溢れさせるわたくしの肩を、スアヴィスの冷たい手がそっと抱きます。

「ラクリマ。
貴女は一族の悲願のため、城主であるヴァンパイア・ロードを退治した。
ですが、ここにもまだ吸血鬼がおります。
一人は、ヴァンパイア・ロードの力を奪った執事長。
そしてもう一人は、貴女の大伯母様です。

我々もまた、退治なさいますか?」

「……。」

ラクリマは穏やかな声でこう言いました。

「わたしは大伯母様に…ううん、レギナさんに生きていてほしいわ。
例え吸血鬼になっても、レギナさんはレギナさんだもの。
わたし、貴女のこと好きよ。」

ラクリマの澄んだ声は、乾いた地に注ぐ雨のように、わたくしの心に染み渡ります。

「これからは自由に生きてほしいと思ってるわ。
それには執事長、貴方を倒さなきゃいけない?」

ラクリマは逞しく身構えます。
いつでも戦える。そう示すように。
スアヴィスもまた、燕尾服の裾をずるずると伸ばして彼女を襲おうとする。

そんな二人に挟まれた状態で、わたくしは、

「……スアヴィス…、」

また新たな涙を溢すのです。

わたくしの頭の中を、160年の出来事が駆け巡ります。
10歳までの幸せだった家族との日常。
吸血鬼となってからの恐ろしく悲しい日々。
いずれ来たるラクリマを待ち侘びた、永遠にも思える時間。

これまでの生涯はただひたすら、可愛いラクリマを危険から救うために生きてきました。
…しかし、今やその願いは達成された。
呪縛となっていた我が父も、もういない。

わたくしはこれからどうしたい?
何のために、生きたい?
誰のため?…自分の、ため?

「…わたくし、」

そして、わたくしは本音を溢しました。

「…生きて、いいのかしら…?
わたくし今は、あなた達と…ずっと一緒にいたいの…。」