「あ。いらっしゃい、月見さん。」
完全に予想外の展開に、私の涙も引っ込んでしまう。
うろ覚えの記憶を頼りに、テッペン横丁があったであろう辺りをウロウロしていた時、見覚えの無い看板を見つけたのだ。
電柱の陰にぽつんと立つ、黒い看板。
12時からランチ営業をしてるみたいで、メニューは手書きの「おまかせ定食」のみ。750円とはなんともリーズナブルだ。
看板の案内に従い、道を進み、どこか懐かしさのある渋い定食屋さんに入った私を待っていたひとこそ、
「……と、冬至さんなんでいるの…!?
あ、あ、あやしいひと達って、夜の住人じゃなかったんですか…!?」
そう。冬至さんだった。
濃紺の前掛けも、頭に巻いた手拭いも、吊り目をちょっと緩めている顔も、見慣れた彼の姿そのもの。
夜の電球色の灯りに佇む姿も素敵だけど、窓から差し込む昼の柔らかな光に照らされる冬至さんも溜め息が出るくらい素敵…。
「月見さんが夢から覚めるなら、俺もそうしようと思ってさ。
昼12時も言わばテッペンだからな。」
「そ、そういうのもアリなんですか…?」
あやしいひとの事情はよく分からないけど、冬至さんが今ここにこうしてお店を出してくれていることが全てなのだろう。
「それで、どう?
居場所は見つかりそうか?」
促されるままいつものカウンター席に座ると、優しい声に訊ねられた。
「…それが、会社を辞める決意はしたんですけど、次に何をしたいかはまだ見つかってなくて…。」
新卒の頃からの怒涛の忙しさから解放された私は、突然緩やかになった時間の流れに戸惑っていた。
いくらでも休める。何でもできる。あまりに自由な選択肢の海で、私は早くも遭難気味だ。
「人と接するのは楽しい。だから、営業職はやっぱり向いていたんです。
…ただそれを活かす仕事って、すぐには思いつかなくて。でも、」
具体的な目標はまだ無い。
でも、確かな理想像はある。
「私も冬至さんみたいに、迷ってる人に寄り添える人になりたい。
それが今の夢です。」
彼がいなかったら、今の私はいないから。
「冬至さん。
私を見つけてくれて、ありがとうございます。」
「俺は何もしてないよ。全部月見さんの力だ。
俺は君の胃袋を支えただけ。」
冬至さんはおもむろに、大きなお盆を取り出した。
美味しそうな香りにつられて中身を覗いて、私は小さく声を上げる。
そこに乗っていたのは、白ご飯ときのこ汁、メインはモツ煮、それにふろふき大根とゴマサバの小鉢だ。
「わぁ…っ!これ!」
「覚えてる?
月見さんがウチで初めて食べた料理。」
「忘れるわけないです!!
すっごく美味しかったんですから!」
表の看板の「おまかせ定食」は、冬至さん力作の絶品居酒屋メニューのセットだったのだ。
「いただきます!」
「はいよ、召し上がれ。」
ほかほかの白米と、きのこの旨味が溶けたお味噌汁がお腹を優しく包み込む。
モツ煮も、大根も、そしてゴマサバも、あの夜私が感動した味そのものだった。