冬至さんは詳しい理由を訊ねなかった。
代わりに、私を大江山の中へと導いて、
「奥の座敷空けるから、月見さん使いな。」
「えっ!?」
カウンターに米袋を置くなり、店奥に見えていた四畳半の座敷に、お布団を敷き始めたのである。
まさかそんな展開になるとは思ってなくて、私は恥ずかしさと申し訳なさで、一人慌てふためく。
「いや!あの!…大丈夫です!
すみません、すぐに帰るので…!」
「おいで、月見さん。」
でも、冬至さんはいつもの落ち着いた様子だ。酔っ払いを介助する時のような手際の良さで、ふかふかのお布団に私を沈めていく。
「こんなフラフラな女の子を一人帰すほうが心配。食い物の匂いがして落ち着かないかもだけど、我慢してな。」
「…あのっ、冬至さん、そんな…!
そこまでご迷惑かけるわけには…!」
「これ、来客用の浴衣ね。使って。
化粧落としある?」
「…あ、う、…通勤バッグの中に…。」
「はいよ。」
大好きな冬至さんにお布団に寝かせてもらってる…。私まさか夢でも見てるのかしら…。
「…と、冬至さん、なんでここまで…良くしてくれるんですか…?
私、ただのお客なのに。…今はお客ですらないのに…。」
冬至さんにとっては、人間のお客さんは珍しいかもしれない。でもそれ以上の何かが、私達の間にあったわけじゃない。
私にとっては、冬至さんは特別な存在で…大好きだけど。
冬至さんにとっては私なんて、大勢の常連客のうちの一人に過ぎないんじゃないか。
「月見さんの気持ちの良い食いっぷりと飲みっぷりに、すっかり惚れ込んじまったのかもな。」
「…ウェッ!?」
またも予想外の台詞が飛び出した。
このひとは何度私の心臓を跳ねさせれば気が済むのだろう。
「それに、いつも0時に来てくれる君のことが、ただ心配なんだよ。
昼を生きるはずの人間が、すっかり夜の住人になってる。まるで本当のあやしいひと達みたいにな。
…それが心配なんだ。」
優しくて穏やかで、でも悲しそうな瞳。
その瞳に、見覚えがあった。
ーーーあの時、凛花も私にそんな目を向けてた…。
「…私のこと、心配なんですか…?」
「うん、心配。目が離せない。」
冬至さんの大きな手が、私の頭を撫でる。
私は枕に頭を預けて、掛け布団を口元まで引き上げて、ただじっと彼の顔を見つめていた。
心配させて申し訳ない?
心配してもらって嬉しい?
そんな感情よりも遥かに先に、私は、“誰かが自分に関心を寄せている”という事実に、ただただ驚いていた。
だって就職以来、私はむしろ、誰かに尽くす立場でなければならないと思っていたから。
それが社会人だから。それが、私が選んだ仕事だから。役目だから。
ーーー進藤先輩がそう教えてくれたから。
「…冬至さん。
私、冬至さんに会えるなら、夜の住人になるのも悪くないなーって思ってました…。」
「そう。」
「…でも、冬至さんにそんな顔させるのは、なんだか嫌です…。」
この時、私は初めて、自分がこれまで信じ続けてきたことが正しいことだったのか、分からなくなったのだ。
「………今日はもう休みな。
嫌なことを忘れる手段は酒だけじゃない。
よく寝て、よく食うのも大事なんだよ。」
冬至さんの大きな手が、再び私の頭を撫でる。
まるで不思議な力が宿っているよう。仕事疲れで泥のように意識を失う夜とは違って、誰かに見守られながら眠りにつく。そんな絶対の安心感が、その手にはあるのだ。
ーーーこれが全部夢だったら、嫌だな…。
ずっとこの時間が続いてほしいのに、疲れ切った私の体は休息を欲している。
冬至さんの温もりを感じながら、私は深い深い眠りに落ちていった。