見えていなかったのだ、何も。本当に辛いのは、子供の記憶を失っていく母親に違いないのだ。結局、俺はただの馬鹿な親不孝者で、自分の不幸など、つまらない思い込みに過ぎなかったのだ。

 「とりあえずここはわしを信じたらええんや」

 おっさんは言った。

 「にいちゃんな、認知症のおかん持って、家帰ったら疲れ切った姉ちゃんおって、自分の人生は何やねんやろ、ええことなんか何もあらへんて思てるかもしれへんけどな、自分のことしか考えんようやったら、一生このままやで。姉ちゃんやおかんの幸せは何か、考えたことあるか?長嶋くんの人生はにいちゃんの生活には何も関係ない。せやけど、他人の幸せを願って、他人を幸せにしたい言うもんを信じてみ。自分の損得はなしにや。そっからやで」

 きっとこのおっさんの言っていることは正しい。親の幸せさえ願えず、願うことさえ忘れ、それどころか自分の不幸のように思ってきた俺が、今さら他人の幸せを願ってもいいのか分からなかったが、おっさんの言うとおり、まずはここからなのだ。

 「長嶋さん、幸せになれますか」
 「だから、幸せにするて言うてるやないか」
 おっさんは笑った。

 「俺、母親を幸せにできますかね。今からでも、遅くないですかね」
 「遅いことなんかあるかい。息子が自分の幸せを願ってくれる。それだけでも親は幸せなんや。あとは、精一杯やりや。一歩踏み出せたら、あとはホイホイ進めるわ。そういうもんや」

 おっさんは、ガハハと豪快に笑い、俺の肩を叩いた。

 「ほな、送ってくれてありがとうな。なんぼや?」
 「いえ、あの・・・。六五七○円です」

 すると、おっさんは三万円を俺に渡して言った。

 「釣りはええ。その金でおふくろさんに何か買うて帰ったってや」

 何と言えばいいのか分からず、俺はただ頭を下げた。それしかできない自分が、もどかしかった。

 「ほなな。寄り道はええけど、家帰りや」
 「ええ、そうします」

 おっさんはタクシーのドアを開けて外に出た。
 アパートに向かって歩き出すおっさんを、なんともなしに見ていると、アパートからコバルトブルーのコートを着た、派手なおばさんが出てきた。おっさんは片手を上げてそのおばさんに挨拶すると、俺のタクシーを指差した。車内の俺にまで聞こえる大きな声で「おおきに!」と言ったかと思うと、そのおばさんはそのままタクシーに乗り込んできた。

 「あのおっちゃんとバトンタッチな。大丈夫、話はついてるし」

 ひょっとして、座敷わらしのおっさんの友達だろうか。

 「え?ああ、はい。どちらまで行きましょう」
 「近くに、まだ開いてるデパートかなんかある?」
 「ありますよ」
 「じゃあそこ寄ってくれる?」
 「かしこまりました。その後は?」
 「にいちゃんのタクシー会社まで、かな。退勤の時間やろ?今日は絶対家帰らないかんねやろしな」

 俺は驚いておばさんの顔を見た。いかにも関西風な風貌で、固定資産税を取られそうなほど顔がでかいこのおばさんは、俺の肩をバシバシと叩きながら、大きな声で言った。

 「私も座敷わらしやねん。そんな感じするやろ?」

 まったくそんな感じはしないが、なんとなく事情は飲み込めた。「母さん、か」と、おばさんには聞こえないように、口の中で呟いてみた。なんだか、初めて早く家に帰りたいと思った。

                                  
 終わり