「次のエッセイ、テーマは『出会い』だから。春っぽく明るい感じでよろしく」
帰り際、ついでのようにそう告げられて私は慌てて顔を上げる。
「っあの、具体的にはどのような方向性で──」
「あ〜、そういうのは蛍先生がテキトーに考えてくれればいいから。作家さんはそういうの慣れてるでしょ?」
ひらひら、と手を振りながらそう返され、私は言葉に詰まった。
「いや、作家って言っても、私はもう……」
「ん?……ああ、そういえばここ数年小説の仕事入ってないんだっけ?でもまあ、文章を書くって意味では同じだからさ。テキトーにいい感じに、ね?」
言うだけ言うと、彼は今度こそこの場を去ってしまう。無茶な注文を投げかけてくる熱意も何もあったものではない人間だが、それでも彼はこの雑誌『ミモザ』の編集者。きっと次の仕事が入っているのだろう。そう思うと、引き止める気にもなれなかった。彼にはちゃんとした本業があるのだ。エッセイだとか商品のレビューだとか、そういう仕事を回してもらってかろうじて"作家"という地位に縋りついている私とはわけが違う。
「……お疲れ様でした」
小声でそう呟いて、私は編集部を後にする。私の言葉に返事をする者は、ここには誰もいなかった。

月灯蛍(つきあかり ほたる)は、作家としてはもう死んでいる。少なくとも、私はそう思っている。デビューした時はよかった。そこそこ有名な賞を21歳という若さで受賞した私は注目の的で、作家としての仕事だってたくさん入ってきていた。大学生活と作家業を両立していたこともあり全ての仕事を受けることは不可能だったので、私は常に選ぶ側だったのである。それが今はどうだろう。選ぶ側どころか、すっかり選ばれる側だ。そして、時間をかけてゆっくりと希望も情熱もやる気も失っていった私が選ばれることは、きっと二度とない。
それでも作家という肩書きを捨て切ることはできず、今は過去にお世話になった編集者から細々と仕事を回してもらっている状況だ。主な収入源はとっくに作家としての仕事ではなく塾講師のアルバイトになっている。私の本業は、今やもう作家ではないのだ。
「はぁ……」
ひとつため息を吐くと、いちだんと肩が重くなったような気がした。高校生向けのテキストが入ったリュックはずしりと重く、歩いているだけで負荷がかかる。けれど、理由はそれだけでないことに、私はとっくに気付いていた。
「……そろそろやめどきなのかなぁ」
ぼそりと呟いた声に答える者はいない。
アルバイト一本に絞って、就職活動をして、内定をもらったら正社員として働いて──。そうすれば、少なくとも今よりは安定した生活を送ることができる。月に一度執筆依頼がきていたミモザのエッセイからは降りることになってしまうが、それで誰かに迷惑がかかるということもないだろう。私が書かなければ、その役目は他の誰かに回るだけだ。売れない雑誌の小さなコーナーだとしても、引き受けたいと思う人はきっと山ほどいる。
作家をやめるか、やめないか。既に幾度となく悩んだことをぐるぐると考えていると、視界の端をスッと何かが横切った。
それがサッカーボールだ、と気付いたのは、ジャージを着た男の子が私の真横を駆けていってからだった。
夕闇に溶けてしまいそうな綺麗な黒髪を靡かせながら、少年は一つ舌打ちをする。
歩道に向かってボールを蹴ることはないだろうから、おそらくシュートを外してしまったのだろう。すぐ近くには公園があるので、そこで練習をしていたのだ、と想像がついた。
少年は足を伸ばしてボールを引き寄せる。そしてそのままリフティングの構えに入るが、結局それは成功することなくボールは少年のもとを離れた。
宙に浮いたボールはやがて地面に落ち、ころころと転がって私の足もとへとたどり着く。無視するわけにもいかず拾い上げると、少年は鋭い目つきでこちらを睨めつけた。
「……どうも」
一応お礼の言葉はかけられたものの、それが本心でないであろうことは明白だった。
「え、と……さっきの、惜しかったね」
思わずそう声をかけると、少年は嫌そうに顔を歪める。
「別に。惜しくも何ともない」
「そ、そうなの……?」
「お姉さんも見てたなら分かるでしょ。同情ならいらないから」
ツン、と顎をそらしながらそう言われ、思わずムッとしてしまう。
「分かるでしょって言われても、サッカーとか詳しくないし」
「あっそ」
少年の返事は心底どうでもいいと言わんばかりのもので、大人気ないと分かっていても私は口を開くことを止められなかった。
「君さ、サッカーが上手いとか上手くないとか以前に態度が悪すぎない?そんなんじゃチームでも浮いちゃうよ」
「問題ない。俺が上手くなればどうせ皆んな掌返してくるに決まってるから」
「ってことはやっぱ今は浮いてるんでしょ!周りに馴染む努力も大事なんじゃないの?」
そう告げると、少年は嫌そうに顔を顰める。
「俺は俺のことをバカにしてくる奴とは馴れ合いたくない」
「……チームメイトと上手くいってないの?」
「そりゃそうでしょ。明らかに俺がチームの足引っ張ってんのに仲良くしてもらえるわけないよね」
まあ仲良くしたいわけでもないけど、と吐き捨てて、彼は真っ直ぐにこちらを見た。
「お姉さんも説教とか同情がしたいだけならどっか行ってくれない?俺、無駄にしてる時間は一秒たりともないんだよね」
その視線を真っ向から受けて、私は思わずたじろいだ。彼の瞳には、少しも諦念の色が浮かんでいなかったからだ。
「……大口叩くのやめて、大人しくしてれば平穏に過ごせるかもしれないのに」
抗うようにぼそりとそう呟くと、少年はひとつため息を吐く。
「お姉さんってつまんない大人だね。バカにされて悔しいって気持ちもないわけ?」
その言葉を耳にした途端、頭の中にミモザの編集者の顔が浮かんだ。あの人はきっと私のことをバカにしているだろうな、と思ったのだ。そうでなければ「テキトーに考えて」だとか「文章を書くって意味では同じ」だとかいう言葉は出てこないだろう。
「君は子どもだから分からないかもしれないけど、大人はそんな熱意だけじゃ生きていけないんだよ」
書く仕事だけでは生活がままならない。いつまでバイト生活を続けるつもりなのか、と親から圧をかけられることもある。年を重ねる度に周りの目が厳しくなって、それに伴い燃えていたはずの情熱の火は弱まって。大人になるってそういうことだ。この子はまだ、それを知らないだけ。
それなのに、彼の言葉を聞いているとどうしようもなく泣きたくなるのはなぜだろう。
「バカにされたら悔しいって気持ちに、好きなことを極めたいって気持ちに大人も子どもも関係ある?」
「今はそうやって粋がってても、君だっていつか気付くよ。自分の力には限界があるんだって」
最初は皆そうなのだ。自分はどこまでも羽ばたいていけると信じている。自分には立派な翼が生えているのだと、そう信じて疑わない。
「……それがお姉さんの言い訳?」
けれど、少年は私の言葉を全て跳ね除けるような強さでそう言った。
「そうやって言い訳して諦められる程度のことなら諦めたらいいんじゃない。俺には関係ないし」
まったくもってその通りだ、と思う。作家の道を諦めようとしていることなんて、彼には何も関係ない。じゃあ、私はどうしてこんな説教くさい話をしているのだろう。彼を引き止めてまで、一体何がしたいのだろう。
「俺はいつかアイツらを見返して、もっともっと上手くなって、最終的にはプロになるから。お姉さんは家のテレビで惨めったらしく俺の活躍でも見てれば?」
「……ほんっと生意気。リフティングもまともにできないくせに」
本当は、答えなんてとっくに分かっていた。結局のところ私はまだ作家という地位に縋りついていたくて、諦めたくなんかなくて、彼に弱音を吐き出すことで諦めなくていい理由を探そうとしていたのだ。
「君がプロになるより私が作家として大成する方が先かもよ?テレビにだって、私の方が先に出ちゃうかもね」
ふ、と笑いながらそう溢すと、少年は嫌そうな顔で「うっざ」と呟く。
「お姉さんの面倒くさい感傷に付き合わされたせいで俺の練習時間減ったんだけど」
「もとはと言えば君が変なところにボール飛ばしたからでしょうが」
「は?余計な話し始めたのはお姉さんじゃん」
ぶつぶつと文句を言いながらも、彼はそっと優しくボールを撫でる。愛おしくてたまらないとでもいうようなその仕草は、彼の想いの強さを感じさせた。
「……あ」
その瞬間、頭の中にパッと一つの映像が浮かぶ。
熱狂する観客、熱気漂うスタジアム。そして、フィールドに立つ成長した少年の姿。
「未来の選手との出会い……」
「は?」
怪訝そうな表情を浮かべる少年に向かって、私は思いのままに口を開く。
「私が執筆を頼まれてるエッセイ、次のテーマが『出会い』なの。春っぽく明るい感じでって言われてるけど、君のことを書けばぴったりだよね」
生意気な態度で、そのくせリフティングの一つも上手くできなくて、それでも諦める気なんて全くなくて。そんな彼が将来プロの選手になるというのなら、今日の邂逅は『未来のサッカー選手との出会い』であると捉えられるだろう。
「個人情報は載せないからさ、君のことを書かせてよ。テレビよりも先に、私が世界に君の魅力を伝えてみせるから」
「やる気になった途端図々しいんだけど」
そう言って少年は一つため息を溢す。けれど、嫌だとは一言も言わなかった。
「……だめ、かな」
「散々俺のこと否定したくせに」
「うん、それはごめん。でも、ほんとは君を否定したかったわけじゃなくて……弱い私のことを、君に否定してほしかったんだと思う」
まだやれるって、諦めなくてもいいんだって、そう思いたかったのだ。だからといって、大人ぶって彼に余計なお説教をした事実が消えるわけではないけれど。
「……まあ、そこまで言うなら書かせてやってもいいよ」
そう言って、彼はふっと不敵な笑みを浮かべる。そして、真っ直ぐな口調でこう続けた。
「そのかわり、ワールドカップを優勝に導くのはこの男って書いといてよね」
「……やっぱり生意気」
そんな夢、チーム内でも落ちこぼれている少年が口にしたところで鼻で笑われるだろうな、と思う。それでも、私はそんな彼がいつか夢を叶えることを願わずにはいられない。
「せっかくだから、ちょっとだけ取材させてよ」
言いながら、リュックの中からペンとメモ帳を取り出す。高校生向けのテキストがぎっしり詰まったリュックは重いはずなのに、不思議と今の私には羽が生えているかのように軽く感じた。