重たい扉を押し開けると、大音量のビートが空間を伝い身体の芯を揺らす。客席は薄暗く、代わりにスポットライトがステージ上で向かい合う男たちを煌々と照らしている。
 音に乗り、自分を主張し、相手をディスり、観客が湧き、その興奮に酔いしれる。
 画面越しとは違う、生の興奮がそこにはあった。
 今日は桐崎さんが主催を務めるラップバトルの大会『キングオブラッパー』の開催日だ。バトルはトーナメント戦で、 勝敗は審査員三人による投票制。票が多い方が次の戦いへと駒を進める。
 一回戦から波乱の幕開けだった。他の大会で優勝経験のあるラッパーをラップバトル初参加の堀田くんが倒してしまった。観客たちはダークホースが現れたと驚いていたが、サイファーで堀田くんと一緒にラップをしていた人たちはあまり驚いていなかった。堀田くんが強いことは周知の事実だった。
 そのほかにも個性豊かなラッパーたちが思い思いにマイクを通し魂をぶつけた。戦い方も多種多様。ライムをたくさん刻みスキルを見せつける人。独特なフロウで相手のペースを乱す人。観客を味方につける人。それぞれに強みがあり、味があり、そして楽しそうだった。

 そんな中、私は初戦、二回戦と連続で勝ち進んだ。
 準決勝までの待機時間、サイファー仲間が数人駆け寄ってくれた。

「紬すげえじゃん!」
「アマチュアで準決までの残ってるのお前だけだよ!」
「うん、ありがと」

 私のふりをして、リカが答える。勝ち進んでいるのも私の実力じゃない。私の身体を乗っ取ったリカがラップをしている。
 大会が始まる前、リカに「私がやる」と言われ、私はなにもいえなかった。
 すると、堀田くんが近づいてくる。

「堀田くん、さっきのバトル惜しかったね」

 堀田くんは二回戦で惜しくも敗退した。しかし堀田くんは落ち込んだ様子もなく、ただ黙って私を見ている。

「どうしたの?」
「お前、誰だ?」
「え?」
「さっきのバトル、あれは紬のラップじゃない。お前、誰だ?」
「夏樹? なに言ってんの?」

 サイファー仲間は笑っているが堀田くんは私から目を離さない。それは私ではなく、私の中のリカを見ているような眼差しだった。
 私はラップの基礎をリカに教わっている。だから私たちのラップは少なからず似ているのだが、堀田くんは私たちの細かなニュアンスの違いを感じとったのだろう。
 リカは嬉しそうに笑い、観念した様子で堀田くんの肩をポンと叩く。

「あんたのラップ、好きだったよ」
「え?」

 じゃあね、と堀田くんに囁き「外の空気吸ってくる」と裏口からライブハウスを出る。
 雨がパラパラと降っている。雨に濡れないよう軒下に入ると私の身体からリカが飛び出し、膝に手をつく。

「はぁ……、はぁ……」

 朝から私の身体を乗っ取り続けたリカの体力は限界だ。息を乱し、苦しそうに汗をかいているリカの姿は見ていられなかった。

「なんでそこまでして、ラップをやりたいの」

 私がぼそりと呟くと、リカは笑って答えた。

「私、今すごく楽しいんだ」

 リカは身体を起こして歩き出す。軒下から出てもリカの身体は濡れない。雨は全てリカの身体を貫通していた。

「私が死んだ日。本当は会場に向かってなかったの」

 生前、ラップバトルの大会に参加する予定だったが会場へ向かう途中に事故にあい亡くなったとリカは言っていた。

「どうして?」
「ビビってたから」

 リカは呆れたように笑う。

「うまくラップできなかったらどうしよう、みんなに下手だと思われたらどうしよう、負けたらどうしようって。だんだん怖くなって、その辺りをフラフラしているうちに事故にあって死んじゃった。それが悔しくて」
「確かに、それで死んじゃうのは、なんていうか……」
「死んだことはいいの。寿命っていうか、きっとあの日に死ななくても、遅かれ早かれ事故とか病気とかで早めに死んでたんじゃないかな。でもさ、意識が薄れていく中で思ったの」

 リカは過去を思い出すように、空を見上げる。

「あー、ラップしたかったなぁって」

 リカがラップをやりたい理由。ナンバーワンになりたい理由。
 それは後悔。それは私にはないものだった。
 私はいつから後悔することをやめた。後悔はとても苦しいから。悔しい思いも、自分を省みることも心がとても疲れてしまう。
 だから私はどんなに嫌なことがあっても環境を変えようとせず、自分を変えようとせず、全てしょうがないと諦めて、妥協してきた。
 それが最善だと思っていた。

「将来のこと考えて動かないなんてもったいから。紬も、今の気持ちは大切にして」
「今の、気持ち……」
「幽霊の私が言うんだから、説得力あるでしょ?」

 そう言って笑うリカの頬は少しだけ濡れていた。
 私は軒先から出て、リカの頬に手を伸ばす。雨雲の隙間から夏の気配を帯びた陽光が差し込み、濡れたアスファルトが金色に輝く。
 雨はもう直ぐ止みそうだ。


「準決勝唯一のアマチュアにして唯一の現役女子高生! MCツムギ!」

 司会者に呼ばれ、リカが乗っ取る私の身体はステージに立つ。

「対するはプロ引退後もラップバトルはやめられない! 孤高のMCテツヤ!」

 反対側からサングラスをかけたおじさんがゆっくりと現れると観客は雄叫びをあげる。
 上下ともにバラが巻きついたドクロのマークが腕と背中に描かれた灰色のスウェットをきた無精髭のおじさん、MCテツヤはその昔プロのラッパーとしてアンダーグラウンドで人気を博し、人気絶頂の最中突然引退したという。その後一度は姿をくらませたがまた数年前からラップバトルの世界に戻ってきたというレジェンドラッパーだとサイファー仲間から教わった。

「先攻MCテツヤ! 後攻MCリカ! レディ……ファイッ!!」

 司会者が手を振り下ろすと空気を揺らすほどの大きなビートが会場に轟く。
 MCテツヤはマイクを構え、サングラス越しに鋭い眼光で睨みを利かす。


 Ei!
 ぽっと出素人はさっさと退場! 忠告するのは俺の愛情!
 ここは女が来るところじゃねえ! キンキン高い声出してんじゃねえ!
 ここは男の戦場だ! 男だけが持つこのマイク!
 魂ぶつけるこのラップ! お前に勝って俺が連勝だ!


 MCテツヤは言葉を吐き捨て、観客は手を上げて盛り上がる。

「好き勝手言いやがって……」

 リカはアンサーを返そうとマイクを構えるが疲労から腕が震えている。

「くそっ……」

 マイクを握り直そうと力を緩めた瞬間、マイクが手から滑り落ちる。

「やばっ……!」

 マイクはゆっくりと地面に吸い込まれていく。しかし、リカが落としたマイクを私は右手で掴み、MCテツヤを睨みつける。


 Hey Yo!
 お前が連勝? それは無理っしょ? だってお前はダサい衣装!
 男とか女とかまだ言ってんの? 大事なのは魂なんだろ?
 はい二秒で論破 どんなもんじゃ? 届いてるか私の超音波!
 お前は混乱 まさに呼吸困難 かかってこいよここからが本番!


 観客は先ほどよりもさらに盛り上がり、MCテツヤは鬼のような形相を浮かべている。

『紬……』

 心の中でリカが私の名前を呼ぶ。リカに初めて乗っ取られたとき、私はなにもできなかった。それいつからか心の中で話せるようになって、身体を動かせるようになって、そうして今、乗っ取られながらラップができるまでになった。それくらい私たちは一緒にいたんだ。
 だけどこの大会で優勝すれば、リカがいなくなってしまうかもしれない。リカがいなくなった私はまた一人ぼっちになってしまうかもしれない。
 そんなの嫌だ。でも……。

『乗っ取った時、あんたの心の中見たけどさ、本音溜め込みすぎだよ?』

 リカは私の身体を乗っ取るとき、私の心の中が見えるらしい。
 だからリカは自分が死んだ日のことを、自分自身の後悔を私に打ち明け、今の気持ちを大切にしろと言ってくれたんだ。
 きっと私の中のリカと離れたくない気持ちと同じくらい、大切なもう一つの気持ちを知って……。
 リカが教えてくれたラップを通して、私は自分の本音を知ることができた。
 だから私は心の中でリカに向かって嘘偽りのない本音を叫ぶ。

『私、リカと一緒にラップやりたい! 今、やりたいんだ!』

 リカはあっけにとられた表情の後、嬉しそうに笑った。

『うん! 一緒にやろう!』

 MCテツヤの攻撃が終わり、もう一度私たちのターンが回ってきた。
 私たちは心の中で一緒にマイクを構え、短く息を吸う。


 Hey Yo!
 唯一無二の私のライム 私に敵う奴なんて皆無
 握りしめたこのマイク 聞かせてやるぜ魂のライブ!

 リカが私をちらりと見て笑う。このリリックは初めてリカと出会った時のものだ。私はリカの気持ちを受け取り、言葉を紡ぐ。

 私の名前はMCツムギ! 諦め、妥協を捨てる勇気!
 湧き出すフロア ウィーアー優勝者

 私たちは声を揃え、魂をぶつける。

 勝利を掴むぜナンバーワン!


 音楽が止まり、観客は拳を突き上げ、声をあげた。
 私は左手で、リカは右手でフレミングの法則を作り、MCテツヤに突きつける。今の私たち、最高にイケてるでしょって感じで。
 どっちが勝ったのか、観客のざわめきは止まない。ステージ後方で三人の審査員はあごを触ったり、天を仰いだりと悩んでいる。
 正直手応えはない。だけど一切の後悔もなかった。

「そろそろ審査員の方々、いいですか?」

 審査員が右手か左手か、良かったと思うラッパーが立つ方の手をあげる。私なら右手。MCテツヤなら左手だ。

「ジャッジ!」

 司会が叫び、審査員が一斉に手をあげる。

 右手。左手。右手。

 会場が一瞬静まりかえり、司会者が声を震わせ叫ぶ。

「勝者、……MCツムギ!」

 嘘……。

『やったーーー!!!』

 さっきまでヘトヘトだったのにリカは観客たちの上を飛び回っている。
 私たち、勝ったんだ……。実感が湧かずに呆然としているとMCテツヤが近づいてきた。MCテツヤはサングラスを外すと、憑き物が取れたような優しい眼差しで私に手を差し出す。

「嬢ちゃん、やるね」
「あ、ありがとうございます」

 私は慌ててMCテツヤの手を握ると指の付け根のあたりだけ皮膚が硬いことに気がついた。きっと豆が潰れてもマイクを握り続けたプロの証だ。

「俺がまだプロになる前、ちょうど嬢ちゃんくらいの女のラッパーと戦うつもりだったのに、勝負の日に逃げられたんだ。それがずっと心残りでさ、プロになっても、プロを辞めても、ずっとあの日の勝負の行方が気になっていたんだ。でも今日、嬢ちゃんに負けてスッキリしたよ。ありがとな」

 そう言ってMCテツヤはステージから去っていった。
 MCテツヤと勝負する予定だった私と同じくらいの女のラッパー……。

「それって……」

 私は嬉しそうに飛び跳ねるリカを見上げ、微笑む。