放課後。学校を出て角を曲がると塀の上に座っている猫とにらめっこをしている堀田くんを見つけた。

「ごめん、お待たせ」
「全然」

 そうだ、と堀田くんは私の顔を見てなにかを思い出したらしく、スマートフォンにイヤホンのコードを突き刺す。

「高瀬、これ知ってる?」

 そう言って堀田くんはイヤホンの片側を耳につけ、もう片方を私へ差し出してくる。堀田くんの男らしい手につままれた真っ白いイヤホンを見て私ははっ、と気づく。
 え、イヤホンの片方ずつで同じ曲を聴くって、これ恋愛漫画でよくあるやつじゃん!?
 堀田くんにそんなつもりはない、と思うけど……。私はドキドキしながら堀田くんからイヤホンを受け取り、耳につける。
 瞬間、聞き覚えのあるハードな重低音が鼓膜を揺さぶる。

 地獄に落とす お前はカオス
 さっさとくたばれ まるでツタンカーメン!

「……うん、聴いたことあるよ」
「さすが! このラップすげえいいよな!」

 子どものようにはしゃいでいる堀田くんを見て私は仏のような顔になる。

「なに、どうした?」
「別に。ですよねーと思って」
「なんだそれ」

 堀田くんは首を傾げながらそばに置いた自転車のスタンドを蹴り上げ、自転車を押しながら私と並んで歩く。堀田くんとは一年ちょっと同じ高校に通っていたのに家の方向が同じだと最近になって知った。
(サイファーの帰りに私の後ろをついてきた堀田くんに「送ってくれなくてもいいよ」と遠慮したら、堀田くんは私を送る気はさらさらなく、ただ家の方向が同じだった、という恥ずかしい経験をしたけど……)
 それ以来私たちは放課後、一緒に帰るようになった。

「高瀬、今日の夜は?」
「行くけど、塾が終わってからだからちょっと遅くなる」
「そっか、お前も大変だな」
「ううん。なんか最近、塾の先生が絡んでこなくなったから前よりも早く帰れるんだ」
「ふーん」

 堀田くんが押す自転車のペダルが回り、カタカタカタ……と音がなる。私は立ち止まり、私の歩幅に合わせてゆっくりと進む堀田くんの背中を見つめる。
 堀田くんとはラップバトルをした日からサイファーや今のような下校の時は話すようになったけど、学校では今までのように話していない。サイファーであった次の日の朝、声をかけようとしたけど堀田くんは私を避けるように席を立った。きっと自分と一緒にいることで私にも変な噂が立たないように気を使っているのだろう。
 堀田くんは不良なんかじゃない。とても優しい人なのに、みんなに勘違いされたままなんて悲しすぎる。すると、いつのまにか隣にいたリカが私の肩をたたく。(すり抜けて当たってないけど)

「紬、ねぇ紬!」
「なに? 誰かといるときは話しかけないでって言ってるじゃん」

 私は堀田くんに気づかれないよう、なるべく口を動かさずに小声で話す。

「紬さ、あいつのこと好きでしょ?」
「は、はぁ?! なに言ってんの?!」
「え?」

 先を歩いていた堀田くんが立ち止まり、こちらへ振り向く。

「な、なんでもない!」
「……高瀬ってたまに独り言でかいよな」
「あ、あはは……」

 私はキッとリカをにらみ、堀田くんの隣へと並ぶ。

「あとさ、高瀬って最近よく笑うようになったな」
「え、前から笑ってるでしょ」
「笑ってはいたけどなんか嘘っぽかった」
「えっ」
「正直見ててイラついてたし」
「うっ……」

 図星を突かれ、私は胸を抑える。でも、堀田くんの言うとおりだ。空気を読んで、楽しくも可笑しくもないのに無理して笑っていた。まさか、バレていたなんて。

「でも今はなんつーか、素直に笑ってる感じがする」

 別れ道となる交差点につき「じゃあまた夜にな」と堀田くんは自転車にまたがり走っていった。小さくなっていく堀田くんの背中を見つめながら、私は堀田くんに言われた言葉をもう一度思い出す。

「素直に、か」

 振り返り、空中であぐらをかいて浮いているリカを見上げる。

「うん? どした?」
「別に」

 リカと出会って二週間とちょっと。リカといると身体を乗っ取られたり、急にお風呂に入ってこられたり、勉強中にちょっかいをかけられたり、変なギャグを言ってきたり、……たまにうざいけど、リカのおかげでラップを通して自分の本音を知ったり、堀田くんやサイファーのみんなと仲良くなれたり、毎日がすごく楽しい。
 リカと出会ったおかげで私は変われたんだ。するとリカはハッと気づいた様子で急に立ち上がり自分の胸を両手で隠す。

「ちょっとどこ見てんのよ!?」

 うん。やっぱりうざいな。


 その日の夜。サイファーで堀田くんたちとラップをしていると桐崎さんがやってきた。

「はいこれ」

 桐崎さんはみんなにチラシを配って歩く。チラシには大会名の『キング・オブ・ラッパー』の文字がグラフィティ風に描かれ、
その背景には光り輝く王冠に無数の手が伸びているイラストが描かれている。

「今度、俺が主催でラップバトルの大会やるんだけど出たいやついるか?」

 堀田くんはチラシから顔をあげる。

「出たいです! けど、俺みたいな素人がいいんですか?」
「もちろん。プロもアマも誰でも参加自由。規模は大きめになるからこれで優勝すれば、まぁここら辺じゃ最強のラッパーってことになるな」

 最強のラッパー。桐崎さんの言葉にサイファーのみんながどよめく。
 堀田くんは緊張か、それともやる気がみなぎっているのかマイクを持つ拳が震えている。他のみんなも緊張、不安、憧れなど様々な表情を浮かべているが、中でもひときわ興奮している幽霊が一人。

「最強のラッパー。それってつまり、ナンバーワンってことじゃない?!」

 リカは嬉しそうに飛び跳ね、そのまま空中を飛び回っている。

「絶対に優勝して、ナンバーワンになるぞ!」

 リカは夜空に向かって高らかに宣言している。
 そうだ。リカが私にラップを教えているのは、私がリカの代わりにラップでナンバーワンになるためだ。
 ラップでナンバーワンになること。それがリカのこの世の未練。
 つまり、この大会で優勝すればリカは成仏する。
 そっか。リカ、いなくなるのか……。

「紬はどうする?」

 桐崎さんに問われ、私はとっさに口から出そうになった言葉を飲み込み、静かに答える。

「はい。出ます」
「頑張ろうね! 紬!」

 リカはハイタッチをしようと腕をあげるが、私は気づかないふりをしてリカから顔をそらした。

「……うん、頑張ろう」

 私は胸のあたりに感じた違和感を無視してマイクを握る。まぁ、しょうがないよね。


 それから数日が経ったある日。
 一日の終わりを告げるチャイムがなり、みんなが一斉に席を立つ。荷物をまとめていると「紬」と名前を呼ばれた。顔をあげると美穂たち、数人の女子が私の席を囲むように並んで立つ。

「ど、どうしたの?」
「もしかしてさ、最近堀田と仲良い感じ?」
「えっ」

 どうして、私と堀田くんのことを知っているのだろう……。突然の質問に動揺し、私は少しの間だけ呼吸を忘れていた。

「別に、そんなことないけど……」

 やっとの思いでそれだけ呟くと、周りの女子たちは「やっぱり」と口を揃えた。

「やっぱり美穂の見間違いだよ」
「えー、絶対紬だと思ったんだけどなぁ」

 そう言って美穂は首を傾げている。おそらく下校中か、サイファーにいる時かに私と堀田くんが一緒にいるところを美穂が見かけたがその際、私の姿が良く見えなかったのか、半信半疑だったらしい。でも美穂の態度からこれ以上の追求はされないだろうと察し、私は胸をなでおろす。
 いや、待って。どうして私が堀田くんと仲がいいことを隠すの?
 私はクラスの中で堀田くんがみんなに勘違いされて悲しい思いをしていることを知っている唯一の人間だ。だったら、みんなの勘違いを解くのは私じゃないの? 私はみんなに見えないように机の下で拳をぎゅっと握る。
 言わなきゃ……。みんな勘違いしてるって。堀田くんは優しい人だって。
 なのに、私の口からは微かな吐息しか出てこない。すると美穂がちらりと窓際に座る堀田くんを見る。

「堀田みたいな不良と紬ってなんか合わなくない?」

 美穂が言い出すと、女子たちも口々に話し出す。

「そうそう。紬はもっと真面目そうで地味な人の方がお似合いだよ」
「あ! 逆に優等生が不良に惹かれちゃうパターン?」
「それ逆っていうか王道じゃね?」

 美穂たちはゲラゲラと笑い、椅子に座った私を見下ろす。

「ね? 紬もそう思うでしょ?」

 みんなの視線が一気に私に向けられる。言わなきゃ……。そんなことないって。私と堀田くんは友達だし、堀田くんは不良じゃないって。私は……。

「そ、そうだね。あはは……」

 私は、今までのようにじくっとした胸の痛みを無視してみんなと同じように笑う。
 その瞬間、ガンッと机を蹴る鈍い音が教室中に響く。放課後のざわついた空気が一瞬で凍り、みんなは一斉に机を蹴った堀田くんへ視線を向ける。みんなが向ける視線には恐怖、戸惑い、そして問題児に対する冷めた感情が込められていた。

「こっわ」
「紬、あんな奴と絡んで成績落とさないようにね!」
「だから紬は無関係だって」

 ぎゃははは! と大声で笑いながら美穂たちは教室を去っていった。
 それから他のクラスメイトがいなくなるまで私は椅子から立ち上がることができなかった。いつもは誰よりも早く教室から出ていく堀田くんがまだ自分の席に座っていたから。教室に二人きりになると堀田くんは立ち上がり、私の席へと近づいてくる。

「高瀬」

 私は堀田くんの顔を見ることができなかった。

「ごめんね。堀田くんのこと不良って言われたのに、言い返せなくて……」
「俺のことじゃねえよ」
「え?」
「お前頭がいいって言われるの嫌なんだろ? じゃあなんで笑ってんだよ!」

 全く想像していなかったことを言われ、私は言葉が出なかった。たださっきからずっと胸の奥が痛かった。
 でも、しょうがないから。私はいつものように笑ってしまう。

「あはは、ごめん……」

 堀田くんは小さく舌打ちし、教室から出ていった。


 街灯の明かりの下、私とリカが向かい合い、私の影だけが黒く地面に落ちる。ここはリカと初めて出会った児童公園。ここ最近は桐崎さんが大会の準備のため、サイファーは集まっていない。

「ビートお願い」

 リカに言われるまま私はスマートフォンから音楽を流す。聞こえてくるビートに合わせ、私は身体を揺らす。
 先行はいつも決まってリカから。だけど、いつまで経ってもリカはラップを始めず、そのままビートは終わってしまった。

「どうしたの?」

 リカは静かに答える。

「それはこっちのセリフ」
「え?」
「なんか最近おかしいよ。もやもやすることがあるんだったらそれをラップにしなよ」
「もやもやって……」

 私はうつむいて考える。
 初めて会った時、リカは言った。ラップは本音をぶちまける手段だって。だけどこの世はラップをしたって、本音をぶちまけたってどうにもならないことばかりだ。
 お母さんとはあれ以来まともに口をきけていないし、美穂たちに本音を伝えたって関係が良くなるとは限らない。むしろ無視されたり、いじめられたりする可能性の方が高い気がする。
 だったら本音なんか伝えずに「しょうがない」と思って現状を受け入れる方がいい。
 だって、リカはいなくなってしまうんだから。
 ラップを通して自分の本音を知ったり、堀田くんやサイファーのみんなと仲良くなれたり、毎日がすごく楽しかったのは全部リカがいたから。
 じゃあリカがいなくなったら? 
 リカがいなくなった未来を想像して、私は気がついた。私はリカとの日々で自分が変わったような気になっていた。でも実際はなにも変わっていなかったんだ。だけどしょうがない。
 リカがいなくなることも。
 私が変われないことも。全部。
 しょうがないことは考えたってしょうがない。だから。

「そんなの、ないよ」

 私はこれまでのように胸の痛みを無視して笑う。そして、これからもきっとこうして生きていくのだ。
 だって私の人生は諦めと妥協の二つで構成されているから。