「お、やってるやってる!」

 オレンジ色の街灯が照らす高架下に人だかりを見つけ、リカに乗っ取られた私の身体はずんずんと近づいていく。

『サイファーってなに?』
「サイファーはアラビア語でゼロって意味」
「なんで急にアラビア語?」
「まぁ見ればわかるよ」

 すると人だかりからビートが聞こえてきた。よく見ると人だかりは輪になっており、絶えずラップをしている。

「あぁやってゼロみたいに輪になって互いのラップを聴き、それぞれのビートの乗り方を知ることで自分のスキルを磨き上げる。それがサイファーだよ!」

 ワクワクした様子で足を踏み出すリカだが、私は心の中でじたばたともがく。

『いやだ! 帰る!』

 はじめたばかりの私が誰かの前でラップなんてできないし、あの人たちなんか怖そうだし。とにかく絶対無理! 必死にもがいているとセイヤに乗っ取られた私の身体が突然歩くのをやめた。

「乗っ取り中に身体を動かせるなんて……!」

 よくわからないけどチャンスだ。私は引き返そうと必死に身体を動かす。

「いい加減諦めてよ!」
『いやだ! これは私の身体なんだから!』

 前に進もうとするリカと後ろに下がろうとする私。結果、私の身体は強風に煽られたように前のめりに固定される。

『ぬおおおお!』
「うおおおお!」
『おりゃあああ……、って、ちょっと!』

 我に帰るといつのまにかサイファーのラップが止まっていた。車が勢いよく走り去る音だけが聞こえる静かな空間で、サイファーの人たちは怪しげに私を見ている。その中の一人が輪を抜け、こちらに近づいてくる。やばい、完全に怒られるやつだ。しかし、その人が発した言葉は意外なものだった。

「高瀬、だよな?」
「えっ」

 どうして私の名前を……。モノトーンの柄シャツにダメージジーンズを履いた青年は居心地が悪そうに黒いキャップを深く被り直す。
 この人、どこかであったかな……。つばで隠れた顔をじっと見つめていると、一瞬だけ青年と目があった。その瞬間、私を睨む鋭い眼差しにピンときた。

『え、堀田くん?!』

 学校の印象と違いすぎて、全くわからなかった……。堀田くんってこんな顔してたんだ。するとサイファーからもう一人近づいてくる。

「誰? 堀田の知り合い?」
「まぁ。うちの学校の、別に知り合いってわけじゃないんすけど」

 その説明に私は少しだけ心が痛むが、堀田くんの言う通りだ。
 私たちは一年生の時も同じクラスだったがその頃から数えても会話は数回だけ。しかしそれは私と堀田くんだからではない。堀田くんはいつも机に突っ伏して寝ていたり、休み時間になるとすぐに教室を出て行ったりと誰かと会話をしているところをほとんど見たことがない。
 中学では有名なヤンキーだったとか、喧嘩相手を病院送りにしたとか、そんな噂を聞いたことはあるがそれが真実かどうか本人に確かめた人はいないという。
 そんな一匹狼の不良。それが堀田夏樹くんだ。
 堀田くんは鋭い眼差しで私を見下ろす。うぅ、やっぱり怖い。私がおどおどしていると堀田くんは大きくため息をつく。

「塾の帰り? もう遅いから早く帰れよ」

 そう言って堀田くんはサイファーへと戻ろうと振り返る。しかし、私の身体はおもむろに動き出し、堀田くんの肩をぐいっと掴む。

「ねぇ? 私もラップしたいんだけど」
『えぇ?! リカ! なにしてんの?!』

 堀田くんは眉間にしわを寄せ、私の手を払う。

「帰れよ。俺たちは遊びでやってんじゃねえんだよ!」
『ちょっと! めっちゃ怖いんですけど!』

 私は心の中で叫ぶが、セイヤが操る私の顔は挑発的にニヤリと口角をあげる。

「は? こんなの子どもの遊びでしょ?」
「あぁ?!」
「私が本物のラップを見せてやる!」

 堀田くんに対し堂々と啖呵を切るリカ。だけど堀田くんの目には私、高瀬紬が調子に乗ったことを言っているようにしか見えていないだろう。私はなんとか自分の身体を後ろへ引きずり、堀田くんから少し距離を取る。

『リカなに言ってんの?!』
「最初はこれくらいかまさないと舐められるよ」
『だからって……』

 私たちの会話は堀田くんには聞こえていない様子だった。堀田くんはイラついた様子で自身の頭を掻く。

「高瀬、お前いい加減に……」
「まぁいいじゃねえか」
「桐崎さん……」

 すると、サイファーの輪から一人の男性がやってきた。
 体格が良く、肌が浅黒く焼けている桐崎さんと呼ばれる男性は居酒屋にいる気前の良さそうなおじさんのように見えるが、この人がサイファーの主催だという。

「嬢ちゃん、うちは基本誰でも参加自由、来るもの拒まず去る者追わずだ」
「だったら……」
「だけどな、一つだけルールがある。それは仲間内の揉め事だ」

 桐崎さんはゆっくり私と堀田くんを見て、よし、と頷く。

「嬢ちゃん、堀田とバトルしな」

 突然の提案に声をあげたのは私ではなく、堀田くんの方だった。

「でも、桐崎さん……」
「夏樹、俺たちはなんのためにラップやってるんだ?」

 口ごもる堀田くんに桐崎さんは優しく笑いかける。

「嬢ちゃんはサイファーに参加したい。夏樹は嬢ちゃんにサイファーに参加してほしくない。だったら互いの信念をかけてラップでバトルしな」

 そう言って桐崎さんはサイファーへと戻り、堀田くんも後に続く。

『桐崎さん、なんかただ者じゃないって感じだね』
「そ、そうだね……」
『っていうか私無理だから。リカがなんとかしてよね』
「私は、紬のために、やってんのに……」
『自分がナンバーワンになりたいからでしょ! ……っていうか、大丈夫?』
「つ、疲れた……、もう限界……」
『はぁ?!』

 そう言ってリカがひょろひょろと私の身体から出てくると身体のコントロールが戻った。見下ろすとリカは持久走を走った後のように激しく息を切らしながら地面に倒れこんでいる。そういえば乗っ取りは体力を使うって言っていたけど、バテるにしてもタイミングがあるでしょ?!

「ちょっと! リカ?!」
「高瀬!」

 堀田くんに呼ばれ、私は逃げ出す勇気もなくジリジリと歩き出す。
 サイファーの輪の中に堀田くんが立っていた。私も恐る恐る輪の中へ入るとみんなは私たちを取り囲み、口笛や指笛を鳴らし、雄叫びをあげて盛り上がる。怖い、怖すぎる……。周りにビビっていると目の前にはおでこに血管が血走った堀田くんが私を睨みつけていた。

「あの、やっぱり私……」

 すると突然、桐崎さんからマイクを投げられ、私は慌てて両手で掴む。
 よし、と頷いた桐崎さんが合図を送るとスマートフォンと繋がった無線のスピーカーから大音量の音楽が流れる。内臓を揺らすような重低音に鼓動のリズムを勝手に上書きされるようで心地が悪い。だけど、この場にいる私以外の全員はビートに合わせ、心地よさそうに身体を自由に揺らしている。

「どっちからいく?」
「俺がいく」

 桐崎さんからの問いに堀田くんは私から目をそらすことなく答えると足を肩幅まで広げ、マイクを構える。

 Ei Yo!
 ここはお前のいる場所じゃねえ! さっさとGo Home Quickly!
 まるでGHQみたいに俺は 負けるお前を統治する元帥!

 堀田くんのラップに周囲の人たちが手を高くあげ盛り上がる。これがフロアが湧くという現象か。
 確かに堀田くんのラップはうまい。
 Go Home Quickly(早く家に帰れ)をGHQと略し、第二次世界大戦でアメリカに負けた日本を統治した連合国軍最高司令官総司令部であるGHQと見立てるだけでなく、GHQの最高司令官としてマッカーサー元帥をリリックに入れ『Quickly』と『元帥』で韻も踏めている。
 一切の無駄がない綺麗なリリックでありながら、堀田くんの私に対する怒りの感情がほとばしっている。でもどうして、そんなにも私をこのサイファーから遠ざけたいのだろう。
 堀田くんは息を短く吸い、マイクに向かって言葉を吐き出す。


 ここは俺のホームグラウンド ここ以外に俺の居場所はねえ!
 見た目で判断 離れるみんな 勝手なウワサ 拒否られる辛さ
 そんなやつらは無視してライブ! 俺のライフの邪魔すんな!


 堀田くんは吐き捨てるようにラップを終えると、またもフロアが湧いた。しかし、私は堀田くんの本音を聞いて胸がじくっと痛んだ。
 私は堀田くんのことを勘違いしていた。よく知ろうともせず、勝手に一匹狼の不良だと決めつけていた。堀田くんはやっぱり怖い。愛想も良くない。だけど、一人でいることを望んでいたわけじゃなかったんだ。
 次はお前の番だぞ、と堀田くんは私を指差す。私はなにも考えられずさっきリカに披露したラップを思い出しながら歌う。


 えっと……お、お前のラップ小学生以下 さっさと行けよ、き、キッザニア
 えっとえっと、あ、ままごとするならシルバニア
 お前の実力足りないや……


 私がラップを終えると数人は声を上げてくれたが全体的な盛り上がりはなかった。例えライムが良くても、声が震え、ビートにも乗れておらず、アンサーも返せていないこんなラップではフロアは湧かない。これがラップバトルなんだ。
 堀田くんは再びマイクを構え、勢いよく歌い出す。


 それが本物のラップ? 笑わせんな!
 ライムを重ねて満足か? そんなのただの自己満じゃねえか?
 辞書を引いて 調べて 暗記して そんなラップじゃ響かねえ!


 堀田くんのラップは私の心にグサグサと刺さりまくる。影の努力を言い当てられた恥ずかしさ、本当のことを言われた悔しさを感じながらも私は言い返す言葉が思いつかない。
 いや、思いつかなくて当然だ。堀田くんはこのサイファーを自分の居場所だといい、真剣にラップに取り組んでいる。そんな人につい最近始めたばかりの私が勝てるわけなかったんだ。
 私はいつものように諦め、構えていたマイクを下ろす。堀田くんはとどめと言わんばかりに最後のラップを歌い上げる。


 やっぱりお前はただの優等生 だったら俺のいうとおりにせい!
 みんなが言ってる「頭がいい」 だからお前と俺らは違うんだよ!


 サイファーのみんなが盛り上がり、堀田くんも手を挙げ答えている。完全に勝負は決まった、ような雰囲気だ。
 でも、ちょっと待ってよ。
 今のラップを聞いて感じた、この体の内側がムズムズする気持ちが悪い感じ。私は今、なにを思い、なにを考えているんだ?
『ラップは本音をぶちまける手段なんだよ』
 リカの言葉が脳裏によぎり、私は顔を上げる。
 そうだ。私はただ、本音をぶちまけたいだけなんだ!

「ぶっかませ! 紬!」

 どこからかリカの叫び声が聞こえた。私は目の前に立つ堀田くんを見つめたまま、リカの言葉に答えるように再びマイクを構える。

 Hey Yo!
 お前とみんなのなにが違うんだよ 結局同じ穴の狢!
 私のことを「頭がいい」ってレッテル貼って 除け者にする連中ばっか!

 周囲から息を呑む音が聞こえ、堀田くんはぐっ、と顔を歪ませる。
『紬ってほんと頭いいよねぇ』
『私たちとは違うって感じ』
 私は自然とマイクを握る力が強くなる。堀田くんのラップを聞いて気づいた。私はいつまでも続く「頭がいいいじり」に怒っていたんだ。点火した怒りの灯火は恥ずかしさや悔しさをくべられ、さらに燃え上がる。
 今はとにかく、思ったことをただ口にしたい!


 あーだめだ ライム難しい スラスラ言葉が出てくるお前はすげえよ!
 頭の回転 ビートの乗り方 ラップのスキルは私が負けてる!
 だけどな 私の方が心で勝ってる!
 私はBeginner それでもWinner!!


 ラップが終わると同時に音楽も止まった。
 私と堀田くんの荒い息遣いだけが聞こえる一瞬の静けさの後、サイファーのみんなは拳を突き上げ、声をあげた。
 これってもしかして、フロアが湧いたんじゃない?
 振り返ると、膝に手をついたままリカは初めて会った時のようにフレミングの法則を見せてくる。
 そうだった、と私も左手でフレミングの法則を作り、堀田くんに突き出した。意味はよくわかってないが、こうすればいい感じになるらしいから。すると、桐崎さんが出てきて私と堀田くんの間に立つ。

「ジャッジ。夏樹の方が良かったと思うやつ!」

 そこかしこから拍手が聞こえる。

「じゃあ嬢ちゃんの方が良かったと思うやつ!」

 シーン……、と誰からも拍手をもらえないかもと思い目を瞑ったが、すぐ横から拍手が聞こえてきた。それは堀田くんだった。

「ラップ中に素直に負けを認めるラッパーなんてなかなかいねえよ。だけど、そのあとの『心で勝ってる』ってシンプルなワードが、なんかすげえよかった」

 そう言って、堀田くんは少しだけ恥ずかしそうに笑う。もしかしたら、堀田くんにとってそのワードがパンチラインだったのかもしれない。堀田くんの拍手に続くようにサイファーのみんなからも拍手をもらった。

「同じくらいだな、どうする夏樹?」

 桐崎さんの問いかけに堀田くんは頷いて答える。

「わかった。嬢ちゃん、名前は?」
「高瀬紬です」
「いい名前だ。紬、ここはラップを愛するやつらが集うサイファーだ。思う存分、ラップを楽しみな!」

 桐崎さんが両手を挙げると、再びビートが流れ出す。


「ね? 来て良かったでしょ?」

 休憩のため、ベンチに座っているとリカが隣に座り得意げに語る。
 最初は全く知らない人の前でラップなんて無理だと思ったし、みんなのことを怖いと思った。しかし、サイファーに集まる男性、女性、若い人から外国にルーツを持つ人。それぞれが繰り出す個性豊かなラップたち。ラップに決まった形はない。人の数だけ、その人が抱える本音の数だけラップがあると知れたのは確かに良かった。

「だからってもう勝手に乗っ取りはしないでよね」

 リカからの返事がなく、不思議に思い振り向くとリカはラップをしているサイファーのみんなをじっと見ていた。