気がつけばとっくに桜は散っていた。高校生として迎えた二度目の春は去年に比べて一瞬で、自分でも驚くほどに心が動かなかった。一年前の自分は入学式でドキドキして、クラス発表でハラハラして、新しい生活にワクワクしていた。なのに今は……。

「紬」

 帰りのホームルームが終わり、校庭の葉桜を見つめていると教室の後ろから美穂が声をかけてきた。

「紬もカラオケ行こうよ」

 美穂が笑いながら私を誘い、周りの女子もつられてニヤニヤと笑っている。私はじくっとした胸の痛みを隠して答える。

「ごめん、今日塾なんだ」

 そう答えると美穂たちは待ってましたと言わんばかりに一斉に笑い出す。

「紬ってほんと頭いいよねぇ」
「私たちとは違うって感じ」
「ごめんね、勉強の邪魔しちゃって」

 そう言って笑い合うみんなに合わせて私も「あはは」と笑う。なにも可笑しくなんてないけどここは笑うしかない。だって。
「そんなことないよ」と謙遜すれば嫌味。
「私頭いいからさ」と開き直れば自慢げ。
 無視すれば生意気だと思われてしまう。
 だからここは笑ってやり過ごすが正解だ。
 私への『頭がいいいじり』は去年からずっとだ。
 始まりはみんなより少しだけテストの成績がよかったから。ただそれだけ。それ以来、休み時間に本を読んだり、今みたいに塾に行くといえば「頭がいいね」とわざとらしく褒められる。そんなノリが、学年が上がり、クラスが変わっても続いている。
 いつになったらこのノリは終わるのだろう。まぁ、しょうがないか。
 そう思いながら私はぎこちない笑顔でみんなを見送ると、ギギッと机が床に擦れる音が響いた。私を含め、教室にいたみんなの視線が音を出した堀田夏樹くんに注がれると堀田くんは重たい前髪の隙間から鋭い視線を私たちへ向け、そのままなにも言わずに教室から出て行った。

「なにあれ。超怖いんだけど」
「他のクラスの子から聞いたんだけど、堀田が夜に怖そうな大人と一緒にいたの見たって。あれ絶対ヤンキーとかそういうのだよ」

 教室のあちこちから聞こえる堀田くんの黒い噂を聞き流し、私もまた教室を後にした。


 塾の授業が終わると、外はすっかり夜だった。
 勉強は好きだ。特に国語。よく「作者の気持ちを答えなさいって、そんなの知らないよ」なんて国語が苦手な人は言うけど、私はそういう問題が一番得意だ。公式を覚えてただ当てはめていくだけの数学や、文法や単語をひたすら暗記する英語よりもとても自由だし、現代文のテスト中に小説を読めるのもなんだかお得感がある。
 壁にかかった時計を見て、急いで教科書をまとめていると塾講師の大学生が私の教科書に手を置く。

「高瀬、どこかわからないところある?」
「あぁ、特には……」

 教科書を引っ張るが、大学生は手を離そうとしない。耳についた小さな黒いピアスを揺らし、男物の香水の匂いを放つ大学生は授業の時とは違う甘ったるい声で囁く。

「そんなに急がなくてもいいじゃん、もうちょっと話そうよ」

 大学生は私の肩を掴み、椅子に座らせる。大学生の手が肩に触れた瞬間から身体が凍ったように固まったが、私は笑ってごまかす。だって。過去に大学生からの誘いを断り、授業中に無視されたり嫌がらせを受け、塾からいなくなった子がいるから。だから、しょうがない。
 それから自分がいかに大学でモテているかという大学生の自慢話を私はただひたすら笑って聞いた。


 結局、塾を出たのは授業が終わって三十分後。その間大学生はずっと喋っていたが話は全く入ってこなかった。内容に興味がなかったのもあるが、カバンの中でずっとスマートフォンが震えていて、そちらにばかり意識が向いていたからだ。
 画面には何十件もの不在着信。それら全てはお母さんからだった。
 ブーッ……、ブーッ……。
 またお母さんから電話がかかってきた。私は気が重いながらに、通話ボタンを押す。すると通話口の向こうからお母さんの金切り声が鼓膜を揺らす。

「あんたね! 今何時だと思ってんの?!」
「ごめんなさい、塾の先生に捕まって……」
「なに? モテるアピールのつもり? ちょっかいかけられていい気になってんじゃないわよ!」
「そ、そういうわけじゃ……」
「言い訳するな! とにかく十分以内に帰ってきなさい!」
「でも……」
「なに?!」
「なんでもありません、ごめんな……」

 ブツッ……、と通話は切られ、私の謝罪は受け入れてはもらえなかった。塾から家まで徒歩で二十分はかかる。
 つまり、走るしかない。まぁ、しょうがないか。
 私はふと空を見上げた。真っ黒な空に丸い月が一つ。ただ、それだけ。
 つまらない。本当につまらない。ノリが合わない友達に無理して笑う私。嫌なことを笑ってごまかす私。お母さんになにも言い返せない私。
 私は本当につまらない。でも、どうすればいいのかわからないし、どうにかしたいのかもわからない。ただ毎日を漠然とやり過ごすだけ。
 だって、どうにかしようとして、どうにもならなかったら私はきっと今まで以上に絶望してしまう。それにどうにかしようとしたって、どうにもならないことがほとんどだ。
 諦めと妥協。私、高瀬紬の人生はこの二つで構成されている。
 私はスカートをひるがえし、ローファーで擦れたかかとの痛みを無視して春の夜を走る。


 急いでいるときに限って信号は赤になる。
 私は膝に手を置き、息を整えるとふと公園が目に入った。住宅街の角にある広めの児童公園。そういえば、ここを突き抜ければ近道だ。不審者注意の看板が立つ入り口から覗くと公園内は街灯が少なく、奥は闇に溶けている。
 怖い……、けどそんなことを言っている暇はない。
 私は小さく息を吐いて、公園へと入っていく。
 塗装が剥げたグロテスクな見た目のパンダの遊具や風に揺れるブランコなどに怯えながら私は先へ進む。昼間は遊具で遊ぶ子どもたちで賑わっているぶん、夜の公園は不気味なほどに静かさが際立つ。

「えっ」

 街灯の近くに立つ人影が見えて私は立ち止まる。
 その人影はオーバーサイズのパーカーを着ており、フードを深く被っているせいで男女の区別ができない。
 どうしてあんなところに……。瞬間、公園の入り口に立てられていた看板が脳裏によぎる。
 もしかして、不審者? 
 どうしよう、引き返そうかな。だけど、今から引き返せば帰る時間がさらに遅くなってしまう。
 すると奥からスーツを着たサラリーマンがこちらに向かって歩いてきた。きっと私のように公園を突き抜け近道をするためだろう。不審者は目の前を通るサラリーマンに向かってなにか話しかけているが、サラリーマンは不審者のこと完全に無視して歩き続ける。すると不審者はすぐに諦めて元の位置へと戻った。
 妙に諦めがいい不審者だな……。そうだ。
 不審者はまだ私に気づいていない。だったらこのままサラリーマンと同じように不審者のことを完全に無視すれば、通り過ぎることができるはず。
 私は深呼吸をして平静を装い、俯いたまま歩き出す。
 怖くない、怖くないと自分に言い聞かせながら一歩、また一歩と足を進める。
 すると「ぶつぶつぶつ……」とかすかに不審者の声が聞こえてくる。
 なにか喋ってる……、いやだ、聞きたくない!
 耳を塞ぎたいけど、耳を塞げば聞こえていると反応したと思われさらにつきまとわれる可能性が高い。
 私は聞こえない、聞こえないと自分に言い聞かせる。しかしそう思えば思うほどに意識が不審者の方へと向いてしまう。

「……これが私のスタイル」
「ん?」

 この声は、女の子? なに? スタイル?
 一つの言葉が聞き取れると、他の言葉も徐々にはっきりと聞こえてくる。

 Hey Yo!
 唯一無二の私のライム 私に敵う奴なんて皆無
 握りしめたこのマイク 聞かせてやるぜ魂のライブ
 私の名前はMCリカ 最強最高のラッパーじゃないか!?
 湧き出すフロア アイム優勝者
 ここからが私のパーティータイム!

 不審者はリズミカルに身体を揺らし、拳を空へと突き上げる。
 っていうか、これって。

「ラップじゃん」

 ……あ。

 いつのまにか私は不審者の目の前で立ち止まっていた。
 不審者はパーカーのフードをかぶったまま、私へにじり寄る。声質や肌の感じから不審者の正体は私と同じくらいの年齢の女の子だと推測できるが、肝心の顔は縁がピンク色のド派手なサングラスのせいでよくわからない。ただ、明らかに怪しいことだけが確かだった。
 私はすぐに走り出そうとじりっと地面を強く踏むが、不審者は「ちょっと待って!」と音もなく私の前に立ち、手を広げて立ちふさがる。

「な、なんですか? 警察呼びますよ?」

 そう言って脅してみたが不審者は動揺する様子もなく、ただ信じられないといった表情で(顔の半分はサングラスで隠れているから正確にはわからないけど)マイクを持ったまま、自分のことを指差す。

「あんた、私のことが見えるの?」
「……へ?」
「だから、私のこと、見えてるの?!」

 そう言って、不審者はサングラスを取り外す。パッチリとした茶色い瞳の彼女はやはり私と同い年くらいの女子だった。
 というか、見えるもなにも……、と私は目の前に立つ彼女をそのままゆっくりと見下ろしていく。胸のあたりまで伸びた黒い髪の先がピンク色に染まっており、名前の知らないポップな見た目のキャラクターが描かれた大きなパーカーを着ているせいで膝上までのショートパンツが隠れている。これじゃあまるでなにも履いていないように見え……、え。
 私は驚いて彼女の顔を見て、またすぐに顔をさげる。
 ない。足が。
 足がないじゃん。
 彼女の足は膝までは綺麗な素肌が確認できるが、すねより先はもやがかかったようにぼやけ、くるぶしのあたりからは完全に見えない。
 そういえば彼女が私の目の前に立った時、足音がしなかったことに今更気づいていると彼女はおもむろにフードを取る。
 そこにあったものは私の中の確信めいた疑問をさらに確信へと近づける。
 彼女のおでこには三角の白い布がついていた。それはよくテレビや漫画に出てくる『幽霊』がつけているものとよく似ている。
 足がなくて、サラリーマンは無視したのではなく見えていなくて、おでこには三角の布がついていて……。
 私はいつのまにか口の中に溜まっていた唾をごくりと飲み込む。

「あの、もしかして……」
「うん。死んでるよ? あ、違う」

 そういって彼女はフレミングの法則のように左手の親指、人差し指、中指をピンと張り私に向かって突き出す。

「死んでるYO!」
「ええええええ?!」

 私が出会った不審者は幽霊で、ラッパーだった。