煙るように桜の花が咲いたのに、この日の朝はとても寒かった。

 実七子(みなこ)は冷たくなった鼻先を指でちょっとこすり、急ぎ足で赤いポストの前を通り過ぎる。
 毎朝の慣れた道。でも、今日はちょっと違う。
「ふふっ…」
 思わず笑みがこぼれる。
 桜の花びらをつかまえた。
 絶対これを裕太に見せてあげないと。

 次の角を右に折れ、左手に見えてきた二階建ての小さなアパートの鉄の階段を、ととっと駆け上がる。
 そして廊下の一番奥のドアの前まで一気に走っていく。

 ドアの前で立ち止まり、そっとドアノブに手をかけた。
 裕太はまだ寝ているだろうか。
 足音を忍ばせて中に入り、部屋を覗き込むと、裕太は灰色のよれよれのスウェットの上下にぐしゃぐしゃになった髪をかきあげながらふわーっと欠伸をしていた。
 彼はベランダに近づいていくと、カーテンを引いて窓を開けた。
 思いのほか強い風が部屋の中に流れ込んで、薄緑色のカーテンが勢いよく煽られた。
「おとと」
 慌ててサッシを閉める。
「おはよう」
 実七子は彼の背に声をかけて、大事に握っていた桜の花びらを指でつまんでそっとテーブルの上に置いた。
「あ」
 裕太が振り向いてそれに気づく。
「桜」
 彼の顔がほころんだ。
「はい。つかまえました」
 実七子は答えた。
 裕太は実七子の前に改まったように座って、こくんと頭を下げた。
「ミナちゃん、おはようございます」
「おはようございます、ユーちゃん」
 実七子も同じように頭を下げる。
 ふたりで同時に顔をあげて、ふふふっと笑った。

 実七子はこうして毎朝裕太と朝の挨拶をした。
「ミナちゃん、おはよう」
「ユーちゃん、おはよう」
 そうしてふたりで顔をあげてにっこり笑い合う。
 それが実七子にとって、とても好きな時間だ。
「ユーちゃん、朝ごはん作ろうか」
 そう言うけれど、裕太はいつも自分でトーストを焼いて、コーヒーで流し込む。
「もっとちゃんと食べないとだめだよ」
 実七子は言うが、裕太は口をもぐもぐと動かしたまま新聞を睨みつけている。
 実七子はちょっとむくれて、裕太の小さなコーヒーサーバを指で弾く。
 ちりん、という音に裕太が少しびっくりしたように目をあげてこちらを向いて、それから微かに笑った。

 朝食をとると裕太はスーツに着替えて出勤する。
 家を出る前に実七子の髪を撫でて、「行ってきます。」と言う。
「今日は少し遅くなるかもしれない」
「ネクタイちょっと曲がってるよ」
 実七子が指差すと、裕太は実七子の髪から手を離してネクタイを直した。
「体こわさないでね」
 外の光の中に出て行く裕太を玄関で見送って、ドアがぱたりと閉まる音を実七子は聞いた。

 むせるようなじっとりとした空気がまとわりつく夏の暑い日、裕太は元気がなかった。
 じんじんというセミの啼く声を聞きながら、裕太は扇風機のまん前に座って風に煽られながらぼんやりと窓の外を眺めていた。
「エアコンつけていいよ」
 彼の首筋に流れる汗を見て実七子は声をかけたが、裕太はそのままずっと扇風機の前だった。
「わたしがエアコン苦手だから?」
 裕太は返事をしなかった。

 扇風機がいらなくなる季節になっても、裕太は時折何かを考えているような顔をした。
「ユーちゃん、お仕事うまくいってない?」
 実七子が尋ねたが、やっぱり裕太は返事をしなかった。
「ユーちゃん、わたし、ケーキが食べたいな」
 実七子は言った。
「ケーキ、食べようよ、一緒に」
 裕太は返事をしなかった。

 裕太の顔に少し笑顔が戻ってきたのは、木々の緑が色褪せてきた頃だった。
 裕太はアパートに帰って来ると、実七子の前に白い箱を置いた。
「あ!」
 実七子は箱を見て声をあげた。そして裕太の顔を見た。
「ユーちゃん、ありがとう!」
「ミナちゃん、好きだったでしょ?駅前のさ、ケーキ屋さんの」
 裕太は少し照れくさそうに言った。
「お皿に入れてあげるね」
「あ、わたしが」
 立ち上がる裕太を見て実七子が慌てて言ったが、裕太はキッチンの横にある小さな食器棚から白い皿を出してきた。
「あ、フォーク」
 皿を持って戻ってきかけて、再びキッチンに足を向けた。
「いつもそのままかぶりついちゃうのに」
「たまには上品に」
 裕太は皿とフォークを手に戻ってくると、少し笑みを浮かべながらケーキの箱を開けた。
「ミナちゃん、赤い色のケーキが好きなんだよね」
 そう言って、木いちごのムースを持ち上げて皿の上に置く。それを実七子の前に押しやった。
 透明で赤いゼリーの下のピンク色のムースが甘酸っぱくて美味しくて、実七子はとても好きだった。
「誕生日でもないのに、どうして?」
 尋ねてみたが、裕太は小さな笑みを浮かべたままだった。
「わたしが食べたいって言ったから?」
「ぼくもあとで食べるからね」
「ユーちゃんも一緒に食べようよ」
 実七子は言ったが、裕太はそのままお風呂に入ってしまった。

 ある日、裕太はつぶやいた。
 ちらりちらりと雪が舞う日だった。
「ねえ、ミナちゃん」
「なあに?」
 実七子が顔を向けると、裕太はベッドに寝転がってぼんやり天井をみあげていた。
「ぼく…… どうしたらいいかな」
「なにが?」
 尋ねたが、裕太は天井を見つめたままだった。
「やっぱりミナちゃん怒るかな」
 実七子は首をかしげた。
「わたし、怒ることなんてないよ?」
 実七子は答えた。
 裕太は何も言わなかった。

 3ヵ月後、裕太は実七子が知らない女の人を連れて帰ってきた。
 ショートカットがとてもよく似合う可愛い人だった。
 彼女は実七子の前に座って丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。タケダ、チサト、といいます」
 実七子はびっくりして彼女の顔を見たあと、慌てて自分も頭をさげた。
 顔をあげたとき、彼女が自分の目を見つめてにっこり笑うのが見えた。
「きれいな方ですね」
 彼女は言った。
「佐野さんがずーっと好きなのが分かるような気がする」
 ちらりと自分を見上げて言う彼女の言葉に裕太が少し顔を赤らめた。
 実七子は不思議そうにふたりの顔を交互に見た。
 彼女の隣に裕太が少し神妙な顔をして座った。
「ミナちゃん」
 裕太の声が聞こえる。
「ぼくね、チサトさんと結婚しようと思うんだ……」
 実七子は裕太の顔を見た。
「ミナちゃん……」
 裕太はぽつりとつぶやいて俯いた。
(結婚するの……。そう……)
 実七子は思いのほか冷静だった。
 裕太が誰か別の女の人を連れてきたら、自分はきっと、怒ったり喚いたり泣いたりするんじゃないかと思っていた。
 でも…… 全然そんな気持ちにならなかった。
 なんだか、すうっと気持ちが軽くなった。
 ユーちゃんはもうひとりじゃなくなる。
 誰かそばにいてくれる人がいる。
 朝ごはん、ちゃんと作ってもらえるし、エアコンつけるのを我慢しなくてもいいし、ケーキも一緒に食べてもらえる。
「木いちごの……」
 実七子がつぶやくと
「ケーキは三人で一緒に食べような」
 と、裕太が言った。
「チサトさんも一緒に食べたいって」
「ほんとに?」
 嬉しかった。
「ユーちゃんをよろしくね」
 実七子はチサトに言った。
「ずっとずっと一緒にいてね」
 彼女にはきっと声は聞こえていないだろう。
 今までずっと裕太に聞こえていなかったように。
「ユーちゃん、長い間、ありがとう」
 実七子は笑ってそう言った。
 ぽつんと小さな涙がこぼれた。

「アパートは近くなのにね」
 歩道の脇に花束を置きながらチサトはつぶやき、すぐ先に見える赤いポストに目を向けた。
「うん……」
 裕太はすぐそばの桜の木を見上げた。あと一週間もすればここの桜も満開になるだろう。
「朝の牛乳がないからって、コンビ二まで買いに行ったみたい。その帰りだった」
 裕太の言葉にチサトは目を伏せた。
「ミナちゃんね、時々家に来てくれてたみたいなんだ」
 裕太の言葉にチサトがびっくりしたような目を彼に向けた。
「ちょうどミナちゃんが出ていた時間に、アパートの階段をとんとんあがってくる音が聞こえた」
「そうなの?」
 目を丸くするチサトに裕太はうなずいた。
「それからね、ドアが開く気配がするんだ。ああ、ミナちゃん、今日も来たんだなあって……。なんだかそんな気がしていた」
 裕太はチサトの顔を見た。
「きみが来てから音がしなくなった。ミナちゃん、もう来なくていいと思ったみたい」
 チサトは裕太から目を逸らせると考え込むような表情になった。
「ごめん……」
 裕太は慌てて言った。その言葉に彼女は小さくかぶりを振った。

 実七子が亡くなったのは結婚式の2か月前だった。
 事故の直前、はらはらと舞い落ちる桜の花びらを空中で受け止めようと、実七子が手を伸ばしている姿が目撃されていた。
 数歩、花びらを追いかけたところで歩道の縁石につまづいて車道側に倒れこんだ。
 倒れた実七子は腕を伸ばしたままの姿で、その手に桜の花びらは握られていなかった。
 裕太は実七子が亡くなってからも、6年間ずっと古びた同じアパートに住み続けた。
 トントンと階段を駆け上る音を聞くたびに、自分がいなくなると実七子が寂しがると思った。

「赤い色のケーキが大好きだったんでしょう? 今度は苺がいっぱい乗ってるケーキにしようか」
 チサトの言葉に裕太は笑みを浮かべた。
「そうだね」
 裕太はもう一度桜の木を見上げた。
 チサトも桜の木を見上げ、ふと手を伸ばした。
 その手のひらに桜の花びらが一枚落ちた。
『ユーちゃんをよろしくね』
 そんな声が聞こえたような気がした。