* * *

「結局、今年も空梅雨じゃないか」
「やっぱり、生贄が逃げ出したのがいけなかったんだ」

 下沢村では、五月に苗を植えた田んぼが十分に潤ったことはほとんどなく、一部はすでに枯れはじめている。このまま雨が降らなければ、せっかくの労力は無駄に終わるだろう。

「梶原さんの奥さんが姿を消したっていうし、やっぱりあの娘をかくまってたんじゃないのか。後からこっそりふたりで、村を出ていったに違いない」
「そうかもしれん。あそこのばあさんの嫁いびりは、有名だったしな。旦那の方は役場の職員をしていたから、お遊び程度の畑などだめになってもかまわんかったのだろう」

 村人の苛立ちは、天候に恵まれず農業が立ちいかなくなりつつある中、一層増している。

「だいたい、古い神社を掃除したくらいで雨が降るなら世話ない」
「昭三じいさんが生贄の話を言い出したときは、あまりにもっともなように話すから信じたが。あのじいさんも、もう歳が大きい。おかしなことを言うようになってしまったのかもな」
「あのじいさんも、散々振り回してくれたな」

 怒りの矛先は、綾目から梶原家に移っていた。けれど、その梶原家ももう離散して村を去っており、それをぶつけられなくなってしまった。
 
 村人はさらに、次のはけ口を無意識のうちに探しはじめる。

「これ以上不作が続けば、うちはもう、ここを出てほかで仕事を探すしかないかもしれん」

 忌々しげに神社のある方角を睨みつけた彼らは、天に上るふた筋の銀の光に気づくことはなかった。

* * *

「佳月様、まずはどこへ行きましょうか?」
「そうだなあ」

 足もとに見える、数カ月過ごした下沢村に視線を落とす。

「綾目のことだから、あやつらに仕返しをしようとは考えないんだろうな」
「その必要はありませんよ。佳月様も同じでしょ? せっかく好きな場所へ行けるようになったんですから、過去を振り返るのはよして前を向きましょうよ」

 私と契りを交した瞬間に、佳月様はかつて有した以上の力を手にしている。そうなると事後報告で聞かされたときは、大丈夫なのかと心配になったが、彼はいたって平然としていた。

 伴侶を得て力を手にした神々は、自身の治める地域がさらに活気づくように尽力することが多いという。
 けれど、佳月様はその力を使って、下沢村との縁を迷いなく断ち切ってしまった。

『私はもう、自由になりたい』

 そう寂しそうにこぼした彼を、私は一生忘れない。

 大きな決断をした佳月様は、その後、吹っ切れたように実に晴れ晴れとした笑みを見せてくれた。
 この人のこの笑みを、ずっと守っていきたい。そう決意を新たにして、今に至る。

「そうだな。イチも気を利かせたのか、しばらく蛇神のもとへ行っているし、綾目とふたりでのんびり国中を回るのもいいな」
「楽しそうですね!」

 佳月様と一緒にいられるなら、どこだってかまわない。

「それでは、行くか」

 差し伸べられた手をぎゅっと握る。

「もっと近くに」

 それだけでは不満だったのか、私の腕をぐいっと引き寄せて胸もとに囲い込んだ。

「愛してる、綾目」

 額にひとつ口づけを落とした佳月様は、足もとを見ることなくさらに天を目指して登っていく。

「私も、愛しています」



END