龍神様の生贄の花嫁

「ただ妻になればいいというものでもない」
「それは、どういう意味でしょう?」

 さっきの話では、佳月様が人間を娶ればいいと言っていたが、それ以上の意味があるのだろうか。

「つまり、契りを交わさなければならない」
「契り?」

 必死のその意味を考える。そうして正解にたどり着いた途端に、ぶわりと全身が熱くなった。

 形式だけの結婚だと認識でいたが、ふたりのいう夫婦になるとは、つまり身体的にもという意味のようだ。

「か、かまいません」

 さすがに佳月様を直視できず、真っ赤になっているだろう顔をうつむかせて叫ぶように言い放つ。

 梶原家にいたときに、襲われるかもしれないといういやな予感は常にあった。それに、ついさっきだって、佳月様を守るためにもう一度あの家に戻る覚悟もしていた。
 勝吾や昭人のいやらしい表情を思い出すたび、嫌悪感に身が震える。でも、好意を寄せる佳月様であるならば、恥ずかしさを感じるばかりで拒否感はない。

「そ、その、佳月様さえお嫌で、なければ」

 私の方に覚悟はあり、問題はそこだけだと強調する。ここで拒否されてしまったら、私はもう二度と佳月様の傍にいられないかもしれない。

 長い沈黙が、室内を支配する。少しでも身じろげば大きな音を立ててしまいそうで、息をひそめて佳月様の答えを待つ。
 背中に冷たい汗が伝い、もういっそどこかに隠れてしまいたいと考えはじめていたところで、佳月様が静かに口を開いた。

「綾目の覚悟は、よくわかった」

 止めていた息をそっと吐き出して、上目遣いに佳月様を見る。熱のこもった切れ長の瞳に見つめられて、視線が釘づけになる。

「私と契れば、綾目は人ではないものになる」
「それはどういう……」

 命を失うわけではないから、庭に遊びに来る兎らのようなものにはならないはず。それでは、イチさんのような眷属になるのだろうか。

「姿かたちはそのままに、私と同じ悠久の時を生きることになる」

 それはもしかしてご褒美だろうかと、一瞬にして浮かれそうになる。

「そ、そんなの、嬉しい意外のなにものでもないじゃないですか」

 心のままそう返すと、佳月様は面食らったようにわずかに目を見開いた。

「怖くないのか?」
「ぜんぜん。だって私は、佳月様が優しい神様だって知っていますから」

 どんな手を使ってでもその存在を保とうとするような野心もなく、ひたすら村人を見つめ続けた人だ。そんな彼と一緒にいられるのなら、それ以上なにもいらない。私に迷いは微塵もない。
「何度でも言います。私は、この先もずっと佳月様のお傍にいたいです」

 彼に受け入れてもらうために私にできるのは、同じ言葉を繰り返すのみ。

「私は、かつてあなたを裏切った村人たちと同じ人間です。ですから、すぐに信じてもらえないのは承知しています。それでも、いつか絶対に佳月様の信頼たる人間になれるよう、ずっとお傍で伝え続けさせてください」

「綾目の優しさの中には、凛とした強さがある。それを、十分に見せてもらってきたのだ。それなりに信頼もしている」

 決して、絶対的な信頼を勝ち取っているわけではない。けれど、私の気持ちが少しでも伝わっていたようで、嬉しさに胸が熱くなった。

「だから、その……」

 言い淀んだ佳月様は、片手で口もとを覆って、ふいっと横を向いてしまった。その耳もとは、ほんのり朱色に染まっている。

「佳月様?」
「いや。こんな条件のようにして、それを伝えるのは間違っているな」

 聞き取れないような小声でつぶやいた佳月様は、再び私に向き直った。

「綾目が私に助けられたというように、私もまた、綾目の存在に救われた。これまで私は、もう自分という存在がなくなってもかまわないと思ってきた。だが、最近はもう少しだけ足掻いてみたいと思うようになった」

 佳様月のその心変わりに、期待が膨らむ。

「自分がいなくなるのを悲しんでくれる存在がいるというのは、いいものだな。イチもずっとそう伝え続けてくれてきたが、あれは私と一蓮托生の存在だ。あやつの言葉は、すっかり聞き流してきてしまった」

 それをイチさん本人が知ったら、きっと糸目を吊り上げて猛烈に抗議するだろう。それほど、彼女も佳月様を慕っている。

「だが、出会って間もないはずの綾目の言葉は、私の心を揺さぶり続けてきた。最初はイチも厄介なものを拾ったものだと、嘆息していたはずなのにな」

 それほど素直に打ち明けれては、落ち込みそうにもなる。でも、彼の過去を知った今は、そう捉えるのも仕方がないのだろうと理解できる。

「たしかに、綾目の境遇は幸せなものではなかった。いくらあの神社を毎日参ってくれているとはいえ、龍神である私は、ひとりの人間に肩入れするわけにはいかない。世の中、それ以上に悲惨な思いをしている人間もたくさんいるのだ。綾目が特別だというわけではない。だが、なにの因果か、綾目は私を祀る神社に生贄として差し出されてしまった。そのせいで、突き放せなくなってしまった」
「もし私が、ほかの神様へ差し出されていたら、違ったんですか?」

「そうだな。〝生〟あるまま納められたものは、私とのつながりが生じる。それほど大きな意味のあるものではないが、少なくとも私は、綾目の言葉の真偽が明確にわかる」
「つまり、私が嘘を言っても、佳月様にはお見通しなんですね?」

 ある意味、プライベートを侵害されかねない事態かもしれない。

「そうだ」

 どこかすまなそうな佳月様に、なにも問題ないと手を小さく振って否定した。

「ちょうどいいです!」

 若干大きな声になった私を、佳月様がギョッとして見る。

「だって、私の本心が伝わっているってことですよね? 私が佳月様を優しい神様だと思っていて、ずっとお傍にいたいと望んでいるのも嘘偽りのない思いだと、無条件で信じてもらえるなんて」

「あ、ああ。綾目の気持ちは、十分に伝わっている。そのまっすぐな気持ちがわかるからこそ、ますます綾目を突き放せなくなってしまった。人間は、心変わりする生き物だと知っているはずなのにな」

 前のめりになる私に、佳月様が身を引いた。
 彼が味わってきた苦々しい経験が、影を落としているのだろう。心に抱えた大きな傷が、彼を頑なにさせた。

「それどころか、最近は綾目のくれる言葉が私を幸せにしてくれる」
「本当ですか?」

 疑うわけではないものの、つい確認したくなる。それに対して佳月様は「ああ」とうなずき返してくれた。

「綾目。どうやら私は、綾目がかわいくて仕方がないらしい」
「えっ⁉」

 話の方向性が急に変わり、驚きで目を見開いた。彼らしくない発言に、途端にうろたえる。

「私自身が存在し続けるために言うのではない。大切な綾目と、もうしばらく同じときを生きたい。そんな私の身勝手を、受け入れてはくれないか」

 身勝手もなにも、私はそれを願ってきた。
 佳月様が、私の手をそっと掬い上げる。そうして私を熱く見つめたまま続けた。

「綾目、私はお前を愛している。私と一緒のときを、過ごしてはくれないだろうか」
「っ……」

 まさか、彼がそんなふうに思ってくれているなんて気づきもしなかった。
 私の好意は、この先もずっと一方通行のものなのだと決めつけていた。私たちの間には大きな身分差があるし、そもそも種族も違う。人と神とが心を通わすなんてあり得なないと、ひとりで苦しんできた。

「わ、私、佳月様が、好きです」

 緊張と嬉しさに涙がこみ上げて、みっともないくらい声が震える。それでも、彼はこれが私の本心だとわかってくれる。

「でも、それを伝えたら、佳月様の迷惑になるんじゃないかって、ずっと怖くて」
「迷惑なものか」

 私の手を優しく引き、佳月様の胸もとに抱き寄せられる。

「ありがとう、綾目。こんな私を好いてくれて」

 佳月様は〝こんな〟なんていう存在ではない。それを否定したくて、抱きしめられたまま首を横に振る。

「佳月様は、私の唯一の存在です」

 涙が次々あふれて止まらない。

「ただの人間でしかない私を大切にしてくださって、ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」

 ぐしゃぐしゃになっているだろう顔は見せられなくて、彼の胸もとにぐっと押しつける。同時に、私の背に回されていた佳月様の腕にさらに力がこもった。

「ああ。これからは、ずっと一緒だ」

 未来を楽しみに思うのは、ずいぶん久しぶりだ。佳月様の腕の中で、明るいこの先を思い描きながらそっと目を閉じた。
 気持ちが通じ合えたことをイチさんにふたりで報告すると、彼女は踊りださんほど大喜びしてくれた。

「ええ、ええ。私はおふたりがこうなると、とっくに感じていましたけどね」
「イチ。落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられますか! 佳月様。善は急げと申しますでしょ?」

 糸目をさらに細めたイチさんに、佳月様の警戒心が高まったのが伝わってくる。

「ああ。だが……」
「私におまかせください!」

 佳月様がなにかを言うより先に、遮るようにしてイチさんが宣言する。
 彼女はこれまでずっと佳月様を支えてきたのだから、ここまではしゃぐのも当然だろう。

「ああ、忙しくなりますねぇ。ええ、ええ。すべて、私がご用意しますから心配はいりませんよ」
「用意?」

 神様との結婚は、人間同士とのそれと同じなのだろうか。〝用意〟というからにはなにか儀式のようなものがありそうだが、私にはさっぱりわからない。

「ええ、ええ。まずは、ほかの神々へのお披露目ですね。ああ、これは人間の行う結婚式のようなものですから。綾目様はただ、お着替えをして佳月様の横で笑っていてくださればいいですからね」

 難しい役割はないようだが、なにより〝ほかの神々へ〟の部分が気になる。思い浮かぶのは、先日やってきた希道様だが、それ以外にいったいどれほどの神様が集まるのだろうか。

「それから、一番大切な初夜の用意ですね!」
「しょ、や?」

 ついオウム返しのようにつぶやいてしまったが、理解が追いついてたじたじになる。ぼっと音が聞こえそうなほど急激に熱を増した私の顔は、絶対に真っ赤になっているはずだ。

「あらあら。佳月様、よかったですね。こんなかわいらしい奥方様を迎え入れられて」
「それは否定しないが、イチ。少々配慮に欠けるぞ」

 佳月様の言葉が、私にさらなる追い打ちをかけてくる。

「あら、あら。初心な奥方様ですね」

 好きだと伝え合ったのは、つい少し前だ。そのわずかな間に、冷淡な雰囲気だった佳月様はすっかりなりをひそめ、私に対してとことん甘さを見せてくる。

 指を絡めるようにつながれた片手は放す気配がないし、空いたもう片方の手は常に私の髪を梳いたり掬ったりと忙しそうだ。ついでに口づけられているようだが、恥ずかしさのあまり確認はできていない。

「綾目が真っ赤になってしまったではないか」

 それは佳月様のせいもあるという私の主張は、イチさんが代弁してくれた。

「いやですねぇ、佳月様。殿方からそんなふうに触れられては、綾目様が恥ずかしがるのも当然ですよ。ええ、ええ。佳月様のそのような振舞は、嬉しい限りですけどねぇ。こんな佳月様は初めてですから。私だって、控えるようになどと無粋なことは言いませんよ」

 なんだかんだいっても、イチさんはやっぱり佳月様寄りだった。主を諫めるにとどめおいてくれればいいのに、浮かれた彼女までも私を言葉で攻めてくる。
「イチには、長い間心配をかけてきたな」

 彼女を労わるような声音で佳月様が言えば、イチさんの糸目に涙が滲む。

「ええ、ええ。それはもう、ほんっとうに心配してきたんですからね。これからは、綾目様とふたり、お幸せになってくれないと困りますから」
「ああ。だが、イチ」

 声を震わせた彼女の名前を、佳月様は場の空気に似合わず鋭く呼んだ。いったいどうしたのかと、そっと彼をうかがい見る。

「お前は、これからも私の眷属でいるように。勝手をするのは許さん」
「え?」

 どういう意味だろうか。つい声を漏らした私をチラリと見た佳月様は、つないでいた手に力を込めて再びイチさんに視線を戻した。

「だって、佳月様。ご夫婦になられるおふたりに、いつまでも私が纏わりついていてはご迷惑ではありませんか。それに、眷属である自分に眷属は必要ないと、ずっとおっしゃっていたではありませんか」

 まさかイチさんは、姿を消すつもりだったのだろうか。親切にしてくれた彼女を追い出すなんて、絶対にできない。それに、大好きな彼女には、これからもずっと一緒にいてほしい。

「イチさんの存在が、迷惑なわけがないじゃないですか。そんな悲しいことを、言わないでください」
「ですが……」

 迷いを見せるイチさんに、もどかしくなる。佳月様の幸せは、イチさんも一緒にいなければ叶わないというのに、彼女はちっともわかっていない。

「イチ。綾目の言う通りだ。私は、お前にもこれまで通りでいてほしい」

 同意するように、佳月様の隣でコクコクと首を縦に振る。

「本当に、お邪魔ではないのですか?」

 いつになく弱々しい声で、イチさんが問いかける。

「当たり前だ」

 佳月様が即座に返せば、彼女は泣き笑いの顔になった。

「私、嬉しいです。ええ、ええ。おふたりに求められて、こんな嬉しいことはありません。好きにすればいいではなく、いてほしいだなんて」

 すんっと鼻をすすった彼女に、佳月様が気まずそうな顔になる。
 以前イチさんは、助けておいて突き離すような言い方をした佳月様に対して、盛大に不満をこぼしていた。彼女に指摘されて、その言い方は親切なようでいて、その実そうではないと私も認識をあらためていた。

「すまない、イチ。あの頃は私も、まだまだ未熟だった」
「ええ、ええ。いいですよ。佳月様は、決して意地悪でそう言ったのではないとわかっていますからね。それでは、これからもよろしくお願いします」

 頭を下げるイチさんに、私の方こそと返す。隣に座る佳月様は、主らしく鷹揚にうなずいた。
「ですがねぇ」

 これで話はまとまったかと思いきや、イチさんが焦らすようにゆっくりと言う。

「新婚のおふたりのお邪魔はしませんよ。とくに初夜については、誰がなんと言おうとも、私、ちょっとどこかへ遊びに行ってまいりますからね。ええ、ええ。心置きなく、愛をささやき合ってくださいませね」

「イチ!」
「なっ」

 果たして今のは、彼女の気遣いなのか。それとも、佳月様への意趣返しなのか。イチさんは実に楽しそうな笑い声をあげた。

「大丈夫ですよ。綾目様のお世話は、私がさせていただきますからね。いろいろとお済みなりましたら、遠慮なくお呼びくださいね」
「はあ……。気遣いのできる眷属の存在が、私はありがたいよ」

 嘆息する佳月様の横で、もう無理だというように空いている片手で顔を覆った。

「それでは、失礼しますね。ああ、ああ。そうでした、そうでした。綾目様はお披露目の当日まですることはございませんので、存分に佳月様との仲を深めておいてくださいね」

 だめ押しにとばかりにそう言ったイチさんに、指の隙間から恨めしげな視線を向ける。彼女はそれをもろともしないで、足取り軽く部屋を後にした。

「本当に、あいつは騒々しいやつだ」

 苦笑いをしながら、佳月様がつぶやく。

「綾目」

 打って変わって、優しく私を呼びながら肩を抱き寄せた。賑やかなイチさんがいなくなると、今この部屋に佳月様とふたりきりだと強く意識させられて、鼓動が痛いほど打ちつけてきた。

「大切にする」

 恥ずかしくて顔は上げられないが、彼の胸もとに額を寄せたまま返す。

「私も、必ずあなたを幸せにします」

 絶望するほどの悲しみを上塗りできるよう、私にできるすべてで彼を大切にしていきたい。

「ありがとう」

 彼が私の髪に顔を埋めるのを感じながら、そっと瞼を閉じた。
 結婚が決まって以来、イチさんはなにかと忙しそうに飛び回っている。

「綾目様。申し訳ございませんが、しばらくお食事は佳月様とおふたりで食べてくださいね」

 台所で食事の準備をしていたところ、後からやってきたイチさんが言う。

「私も、できることは手伝いますよ」

 自分の事なのにすべての準備をさせるのは心苦しくて何度も声をかけているが、彼女は絶対にうなずかない。

「お優しい綾目様の気持ちは、ありがたくいただきますね。ええ、ええ。ですが、これは私の仕事です。お嫁様は、とにかく健やかにお過ごしくださいませ」
「お、およ、お嫁様⁉」

 恥ずかしくて両手を頬に当てた私を、イチさんが微笑ましそうに見てくる。

「さあさ、綾目様。佳月様がお呼びですよ」

 タイミングよく炊きあがったご飯をイチさんがよそい、お盆に乗せて私に押しつけてくる。そのまま、追い出されるようにして台所を後にした。

「――なんだか、イチさんばかりに働かせてしまって、申し訳ないです」

 佳月様とふたりで食事をしながら、直前のイチさんとのやりとりを話していた。

「あれは、趣味のようなものだ。ここで仕事を取り上げては、イチの猛抗議を受けることになる。拗ねられても面倒だ」
「ふふふ」

 真面目な顔をしてそう言う佳月様に、思わず笑ってしまう。もしかして彼は、これまで何度もそんな目に遭っているのかもしれない。

「たしかに、ここのところのイチさんは、生き生きしていますね」

 忙しそうではあるものの、いつでも彼女は楽しそうだ。

「だからここは、イチの言葉に甘えて、ふたりの仲を深める時間にさせてもらおう」
「え?」

 佳月様に請われて隣り合って食べていたが、会話に夢中ですっかり食事が止まっていた。
 そんな私の頭に手を回した彼は、そっと引き寄せて唇を重ねてくる。
 初めての口づけに、瞼を閉じるのも忘れてしまう。一度顔を離した佳月様は、固まったままの私をくすりと笑った。

「ほら、綾目。口を開けてごらん」

 呆然としながら言われた通りにすると、箸で摘まんだおかずを口に放り込まれる。慌てて咀嚼する私を、佳月様が楽しそうに見ていた。
「佳月様、佳月様」

 そのタイミングで、イチさんがノックもないまま戸を開けた。

「なんだ、イチ。騒々しいぞ。これからのこの部屋には、綾目が滞在することも多くなる。入る前にノックをしなさい」

 さっきのような場面を目撃されたらたまらないと、首を縦に振る。

「あらあら、ごめんなさい。それでですねぇ」

 相変わらず、イチさんの話は唐突だ。

「綾目様のお披露目は、一週間後に決まりましたよ」
「一週間⁉」

 あまりにも急すぎないだろうか。

「私は一日でも早く、綾目を娶りたいのだが」

 その気持ちは嬉しいが、早急過ぎて理解が追いつかない。

「ええ、ええ。佳月様のお気持ちはよぉくわかっておりますよ。それにですねぇ、綾目様」

 すっとこちらを見つめるイチさんに、わずかに身がまえる。

「佳月様の言う通り、一分一秒でも早くお披露目をするべきなんですよ。佳月様の神社を参られるのは、綾目様がいない今、もうひとりの高齢女性だけになってしまいました」

 ハッとして、佳月様に視線を向ける。

 どうやら、生贄の私が姿を消して以降、あの村では再び龍神の神社を蔑ろにしているらしい。予想はついていたものの、どうしても苛立ちが抑えられない。

「あの村の人たちは、勝手が過ぎます」

 手を強く握ると、佳月様が宥めるようにその甲をなでた。
「まあ、わかっていたことだな」
「そうなんです、そうなんです。その女性も、最近では体の不調や積雪でいらっしゃらない日も多くなりました」
「そんな……」

 つまり、現在あの神社を訪れる者はほぼおらず、佳月様はますます危うい状態にあるのだ。

「ですから、私、少しでも早くお披露目をしたいのです。ええ、ええ。神々は昔からの習わしに少々口うるさく手ですねぇ、それらを飛ばして契ってしまえばというわけにもいかないのです。それをしてしまえば敵を作りかねないのでね。面倒ではありますが、手順を踏んでいただきますよ」

 恥ずかしい気持ちばかりが先行していたが、そんなことを言っている場合ではないと気づかされる。こうしている今も、もしかして佳月様は消えてしまうのではないだろうか。

「綾目。私はまだ、しばらくは大丈夫だ」

 無意識に、彼の手を強く握りしめてしまう。

「本当に?」
「ああ」

 力強い返答に、ようやく力を抜く。

「それでもですねぇ、油断大敵ですよ。さあさあ、綾目様。お披露目で着ていただくお着物の用意が整いましたので、一度袖を通してみましょうね」
「はい。佳月様、ちょっと行ってきますね」

 手早く食事を片づけて、イチさんに連れられるまま別の部屋に移動した。

「ほら、こちらですよ」

 見せられたのは、白無垢だった。

「常世では、お披露目の際に決まった衣装はないんですよ。ええ、ええ。そもそも、お披露目自体がもう何百年ぶりですからねぇ」
「そ、そうなんですね」

 彼女はなにげなく言っているが、その時間感覚にはすぐには慣れない。

「はい。それでですね、せっかくなら、現世に合わせたものを用意しようと思いまして」

 ウェディングドレスに憧れる気持ちもあるが、私の父と母は和装での結婚だった。その写真はリビングの目立つ位置に飾られており、幸せの象徴そのものだった。

「イチさん、ありがとうございます。私、母と同じ白無垢を着られるなんて、嬉しいです」
「それはそれは、よかったです」

 器用なイチさんは、着付けまでできてしまうよう。ただ腕を広げて立っている間に、てきぱきと着せてくれた。

「なんてお美しいんでしょう! 思った通り、よくお似合いですねぇ。お直しも必要ないようですね。ええ、ええ。本当に、当日が楽しみです」

 イチさんの賛辞がくすぐったい。

「イチさん、ありがとうございます」
 それから一週間が経ち、いよいよお披露目の日になった。
 イチさんの説明によると、佳月様の力で庭を人の集まれる芝の広場に変えるらしい。そこにたくさんの茣蓙を強いて招待客の席を作り、酒や料理を振る舞うという。

 準備はすべてイチさんが取り仕切っているため、細かなところまではわからない。それに、会場を見るのも当日のお楽しみだと言われている。

「本日は、たくさんのお客様が来てくださるんですよ」

 招待したのは神様やその眷属だと聞いているが、どんなことになるのか想像もつかない。

「蛇神様に歳神様。それから蛭子神様に……」

 その一部をイチさんが教えてくれたが、とても覚えられそうにない。でも、佳月様の妻になるのだから、ゆくゆくはきちんと頭に入れておかなければならないだろう。

 それらすべての神様は、佳月様と同様に、外見は人間と変わりないという。

「それから、希道様もいらっしゃいます」

 つい眉間にしわが寄る。いつも明るい表情のイチさんですら、不快そうに鼻にしわを寄せた。

 私に伴侶になるように迫った希道様が、この結婚を祝福してくれるようには思えない。

「ほかの神様方がいらっしゃるので、変なことはなさらないでしょうけど。念のため、希道様には注意しておきますからね」

 不安は完全には拭えないが、招待しないわけにもいかないのだろう。

「さあさあ。御髪も整いましたよ」

 お化粧も、イチさんがしてくれた。鏡の前に立ち、自身の姿を見つめる。
 生贄にされたときとは違い、ずいぶん華やかに仕上げてもらえた。天国の両親も、きっと今日の日を喜んでくれているだろう。

「綾目様。時間まで、このままお部屋でお休みになっていてくださいね」
「はい」

 イチさんが、足早に次の準備に向かう。これまでもずいぶん忙しそうにしていた彼女だが、今日は一段と大忙しだ。
 私はお目にかかっていないが、どうやらイチさんの眷属仲間も手伝ってくれているらしい。こういう準備は、仲間内でもちつもたれつだという。まるで人間のようなやりとりだ。

 庭から、にぎやかな音が聞こえはじめた。楽器を得意とする眷属らが、演奏を担当してくれている。聞いたことのないメロディーだが、どこか懐かしい。目を閉じて聴きながら、昂った気持ちを落ち着かせようと試みる。

「結婚かあ」

 両親が亡くなる前は、友人らと誰がかっこいいとか好きな芸能人について話をよくしていた。実際に異性と交際をしている子も数人いたものの、私はまだそんな気になれず、結婚は想像すらしたことがなかった。

 佳月様との結婚は、とんとん拍子に話が進んできたが、後悔は微塵もない。神様の世界に仲間入りするのは恐れ多くて気後れしそうになるが、彼に嫁ぐこと自体には幸せに感じている。

 もともと、佳月様の存在を守るためならなんだってする気でいた。それこそ、梶原家でどんな目に遭わされても耐える決意もしたし、たとえ佳月様に女として求められていなくとも、彼が望んでくれるのなら契りを交わす覚悟もしていた。
 それがまさか、心を通わせられるなど思ってもみなかった。