「う、うちのせいじゃないぞ」
夫がうろたえるのも当然だ。なんせ、ついさっきまでは、村のために生贄を差し出した英雄のような気分でいたのだから。
それが、綾目が姿を消したせいで途端に悪者に様変わりした。
「躾がなってないんじゃないのか!」
そう言ったのは誰だろうか。それに何人かの女性らが、首を大きく縦に振った。
躾もなにも、綾目がここへ来たのはつい数カ月前だと、誰もがわかっているはずだ。物静かな綾目だったが、通りで出くわせば挨拶はきちんとしていたし、たまにある奉仕作業でも積極的に体を動かしていたのは多くの人が見ている。実の娘よりも、よほどしっかりしていた。
「そんなわけは……そもそも、昨夜はあれだけ冷え込んだ。へたをしたら、綾目が死んでいたかもしれん。そうなっていたら、ここにいる全員が罪に問われそうだな」
いつもは人の顔色をうかがい、村内でいかに自分の立ち位置を守るかばかり考えていた夫が、我慢の限界だとでもいうように本心を明かした。
顔色をわるくしたのは、とくに今回の神事を積極的に進めていた人たちだ。それに気が大きくなったのか、夫がさらに口を開いた。
「もしかして、若い女がひとりにされたのをいいことに、昨夜ここへ戻ったやつでもいるんじゃないのか」
それは言うべきではないと、わずかに残っていた理性が警鐘を鳴らす。夫を止めようと袖を引いたが、もう遅かった。
「なんだと」
たしかに、この村には若い人らが楽しむ娯楽は皆無だ。加えて、男性の欲を満たすようなものもなにもない。
自分が嫁いだ頃には、いやらしい目を向けて遠回しな誘いの声をかける男もいた。よそ者の私がそれを拒むのは、どれほど大変だったか。その苦しみを、夫は知る由もないのだろう。だってこの人は、声をかけてきた男らと同じことをよそでしていたのだから。
「龍神様を前に、そんな罰当たりなことができるか」
なにが〝龍神様〟だ。これまで、その存在すら忘れていたというのに。
怒りの声が多数あがるが、堂々とそれを言えるひとなど、ここにはひとりにもいないのにと苦々しくなる。
「誰かが綾目を、かくまっているのか」
夫が発したその言葉をきっけかに、そこからの応酬はひどいものだった。〝梶原家〟対〝その他の村人〟と、責める相手が私たちだけしかいないのをいいことに、ずいぶんな物言いをされる。
「だいたい、自分から生贄を差し出すと言ったじゃないか。こんなことになったのは、明らかに梶原さんのせいだろ」
ああ。我が家はもう、ここでは生きていけないだろう。こんな対立を起こしてしまえば、この先村八分にされるのが目に見えている。
それでなにが困るのかと言われても、正直、他者とあまり関わりたくない私としては、なにもないと言ってしまいそうだ。
ただ飲み食いするだけの寄合に、たまの清掃活動。参加しなければ、我が家の周辺だけはなにかと放置されるだろうが、面倒な人付き合いをなくす代償としてはずいぶん軽いものだ。
役場で働く夫は、肩身の狭い思いをするだろう。そうして、これまで私が苦しめられてきた一旦でも味わえばいい。
「そもそも、綾目は実子じゃない。そこまでの責任は負えない」
「生贄の候補に名乗りをあげたのは、そっちじゃないか」
堂々巡りの罵り合いに、嫌気がさしてくる。
さっきから女性たちは一塊になって、忌々しげに私を睨みつけてくる。悪いのはすべて〝梶原家〟であって、ほかの村人は犠牲者なのだ。そんな主張が、言葉にせずとも伝わってきた。
「あなた」
つっと、夫の服を引っ張った。
「帰りましょう」
このままでは、互いの感情が昂ってますます収拾がつかなくなるだけだ。
「うるさい! だいたい、お前が綾目を見張っておかないからこんなことになるんだ」
つまり、私にも夜通しここいるべきだったというのか。夫の心のない言葉など、もうすっかり慣れ切ってしまったと思っていたが、そうではなかったらしい。胸がズキリと痛み、掴んでいた手を離した。
「なんであいつを見張っておかなかったんだ」
ここで私を悪者にすることで、夫は自分のせいではないと主張したいのだろう。
下沢村の人間は、いつだって他人のせいにする。天候に恵まれないのは龍神のせい。生贄が消えたのは梶原家のせい。そして、見張っていなかった私のせい。ここに私の味方などひとりもいない。
今になってようやく、綾目の気持ちが少しだけ理解できた。周囲は敵ばかりの中、あの子はどれほど心細い思いをしていただろうか。
かわいそうだったとは思う。けれど、自分でなくてよかったというのも本音だ。
「すみません」
いつものように、謝罪の言葉を口にした。きっと夫は、それでも私をなじるのだろう。
「これ以上、迷惑はかけられませんので、出ていきます」
口を挟む隙を与えないままそう言い捨てて、急いで自宅に引き返した。
その後、神社でどんなやりとりがあったのかは知らない。身の回りのものと少しの現金を手にすると、振り返ることなく梶原家を後にした。
心の拠り所だった子どもたちも、反抗期に入って以来、父親と同じようにどこか私を見下してきた。家事は私がやって当たり前だと、手伝いをしたためしがないくせに、なにか過不足があれば私だけを責める。
あの子たちに軽んじられている事実が辛く、目を背け続けてきたけれど、もうそれもしまいにしよう。大切な子どもたちだったが、それ以上に自分の方が大事だ。あの子らも、ここで父親と共に苦しめばいい。ついでに、若い頃に散々私をいびった義母も。
このまま、一旦兄さんの家でお世話になろう。たしか、妻である義姉さんが病気で入院していると言っていた。おそらく、女手が足りなくて困っているはずだ。家事を手伝いながら、仕事や私が受けられる公的なサービスを探せば、なんとか独り立ちできるかもしれない。
積もった雪に朝日が反射して、キラキラと輝く様を見つめながら、村を出るバスに乗り込んだ。
* * *
「どうして……あの村の人間はなぜ、すべてを他人のせいにするのだ」
下沢村を見なくなったのは、もうずいぶん前からだ。ただ、いくらこちらか心を閉ざしてしいても、村人の感情が高ぶりすぎると勝手に見えてしまう。
かつて私が愛した下沢村は、もうどこにもない。
村人は身勝手な自身を顧みず、攻撃する対象を探してばかりいる。そこにはもちろん、龍神である私も含まれていた。
「なぜ誰も、綾目の身を案じないのか」
誰かひとりに肩入れするのはよくないと、わかってはいる。けれど、あまりにもあの娘が不憫でならない。
「あんなにも、心優しい娘だというのに」
彼女がここにいたいと願うのは、帰る場所がないという不安からだろう。私が許可をしたのだから自由に過ごせばいいのに、あの娘は恩を返したいと言ってイチに仕事をせがんでいた。
人間と関わるは煩わしい。心が通じたと思ったのは束の間で、彼らは徐々に私を忘れていく。挙句、憎しみすら向けられる。
「なぜ綾目は、理不尽な仕打ちを受け入れてしまうのか。どうし怒りの感情を抱かないのか」
ひどい仕打ちを受けてもなお、綾目は恨みとは無縁でいた。彼女の無垢な心が私を揺さぶる。
けれどそれも、怒りに染まる私を見るまでだろう。私が自身とは違うものだとわかれば、あの娘もきっと離れていくに違いない。
そうなってほしいと願いながら、それでもあの娘ならば受け入れてしまうのではないかといかという期待を抱いてしまう。
「綾目」
その名を口にした途端に、自身の中の怒りがわずかに静まる。
もしあの娘が、今の私を見てもなおここにいたいというのなら、自身が存在し続ける間は守ってやろう。
「綾目、茶をくれないか」
庭の散策を終えて自室に戻る途中で、佳月様に声をかけられる。彼の部屋の庭に面する襖はずっと開けられており、室内でなにか書きもをしているようだと確認済みだ。
「はい。すぐに用意しますね」
佳月様に頼まれて、すぐさま台所に向かった。
ここに来て以来、どれほど時間が経っただろうか。最初の頃は日にちを数えていたが、もとの世界との大きな違いを実感して以来やめてしまった。
用意を済ませて戻ってみれば、彼は庭を眺められる位置に座布団を敷いて座っていた。
「はい、どうぞ」
声をかけながら彼の前に湯呑を置くと、柔らかな笑みを向けられる。
「ああ、ありがとう」
初めて顔を合わせたとき、彼の視線はあまりにも冷淡で、私の存在は迷惑なのだろうと思い込んでいた。
それが、ここ最近の佳月様はずいぶん軟化している。いや、軟化どころではない。彼の声音も表情も冷たさなどいっさいなく、温和で優しさにあふれている。
お茶の用意など身の回りの世話はイチさんに頼んでいたが、タイミングが合えばこうして私にも声をかけてくれるようになった。自分の存在を認めてもらえたようで、ここ最近の私はすっかり浮かれている。
「綾目も、ここに座るといい」
佳様月からひとり分離れたところに用意された座布団に、そっと座る。
「ここは、長閑でいいですね」
庭を眺めながら、なにげなくつぶやいた。
流行りのものなどなにもなくても、こうしてゆっくりしている時間は少しも退屈ではない。
隣に佳月様がいればどうしたって胸が高鳴るが、それでも決して嫌ではない。好きな人の傍にいられる幸せ噛みしめながら、数羽まとまって遊びに来た鶏を眺めた。
「そうだな。綾目とこうしてゆっくり過ごす時間は、わるくない」
佳月様が私に対して抱いているのは、私が秘めている気持ちとは種類が違うとわかっている。嫌われてはいないと知れるだけで十分だ。
「そう言ってもらえて、嬉しいです」
偽りのない気持ちを伝えると、佳月様が優しく微笑み返してくれた。
「綾目様、綾目様。急なんですがね、これからお客様がいらっしゃることになりました」
「お客様?」
佳月様の部屋を後にして、台所で夕飯の準備をしていたところ、勢いよく飛び込んできたイチさんが、いつも以上に早口で言う。
私がここへ来てからというもの、来客など一度もなかった。
やってくるのは相手は人間ではないだろうが、それではいったい〝なに〟が来るのか想像もつかない。
「ええ、ええ。そうなんですよぉ。もう、あのお方はいつも唐突で。こっちの都合なんて、端から考えていらっしゃらないんです」
迷惑だと隠すつもりがないのか、イチさんの表情が不快に歪む。いつもにこやかな彼女が、他者に対してこれほどあからさまに負の感情を表に出すのは珍しい。
「どういう方が、いらっしゃるんですか?」
私の問いかけに、イチさんは言うべきかどうかを思案した。
「……いえね。佳月様と同じ龍神であられる、希道様がいらっしゃるんです」
同じ神様なら、やはり佳月様のような優しい方かと思いきや、イチさんは心底嫌そうにため息をついた。
「希道様は、ずいぶん栄えた土地をお守りしてるんです」
「はあ」
「人がたくさん集まる土地は、信仰心の大きさに関係なく、通年の行事として祭りだなんだと神事があるでしょ?」
そう問いかけられて思い出したのが、ニュース番組なんかで目にした数々の年中行事だった。中には有名人をゲストとして招いているものもあり、その土地以外からもたくさんの人が訪れていた。
「希道様は、いつもそれを自慢なさるんです。本当にもう、あれで神様だって言うのですから、世も末というものですよ」
イチさんの言い回しがおかしくて苦笑する。ただ、彼女がここまでいやそうな反応を見せているのだ。きっと佳月様にとっても、希道様の来訪は喜ばしいものではないのだろう。
「お茶をお出しした方が、いいですよね?」
どんな相手であれ、礼儀は尽くすべきだろう。
「ええ、ええ。そうしましょう」
不本意ですがとでも言い出しそうなイチさんだったが、渋々手を動かしはじめた。
「そうだ。ちょうどプリンを作っておいたんですが、これも一緒にお出ししましょうか?」
「……そうですねぇ。佳月様の名誉のためにも、おもてなしはきちんといたしましょう。ええ、ええ。ですが、綾目様のお姿を見せるのも……」
「私、部屋にこもっていた方がいいですか?」
渋るイチさんに、迷惑になってはいけないと提案する。
佳月様やイチさんとは違い、希道様は人間を徹底的に毛嫌いしているのかもしれない。そうだとしたら、隠れていた方がいいに決まっている。
「いえいえ。綾目様の存在が、迷惑だとかではないんですよ。それに、お姿を隠したところで、希道様にはお見通しでしょうからね。ええ、ええ。そうに違いありません。綾目様をおひとりにするより、私と佳月様の目の届くところにいた方がいいでしょう」
もしかして、攻撃的な神様なのだろうか。イチさんの物言いに身の危険を感じ、表情が曇る。
「あらあら。不安にさせてしまいましたねぇ。ええ、ええ。私も佳月様もおりますから、大丈夫ですよ。希道様は、なんというか、大変いたずら好きのお方でしてね。佳月様を困らせることを生き甲斐にしている節がおありで」
それはなんとも厄介だ。〝神〟という存在だからといって、必ずしも佳月様のように善良な存在ではないらしい。
「では、私がお茶をお持ちするので、綾目様にはプリンをお願いしましょう」
「わかりました」
少々の不安はあるが、彼女の言う通り、ひとりになるよりはましだろう。
「ああ、おいでのようです」
気を取り直して準備を進めていると、気配でいろいろと察知したのか、イチさんがため息交じりにつぶやいた。
「綾目様。行きましょうか」
「はい」
重い足取りのイチさんに続いて、佳月様の部屋を目指す。通常なら、彼女はノックもそこそこに部屋の戸を開けてしまうが、今日は一度立ち止まって深呼吸までしてみせた。
「佳月様。お茶をお持ちしました」
よほど気を張っているのか、口調もどこか堅苦しい。私の緊張もますます高まり、お盆を持つ手が震えないように必死にこらえていた。
「ああ。ありがとう」
嫌な相手だと聞いたばかりで心配だったが、佳月様の声音はいつも通りのようでほっとする。
「失礼しますね。希道様。ようこそおいでなさいました」
頭を下げるイチさんの背後で、私も同じようにする。一瞬チラリと見えた希道様の顔は、物静かな印象の佳月様とは対照的で、やる気に満ちていた。
「ああ、イチか。それと、佳月。その娘の名はなんだ?」
「……綾目だ」
「ふうん」
ゆっくりと頭を上げて、遠慮がちに希道様を見る。
佳月様と同じ金色の瞳に白銀の髪をした希道様は、同じ龍神と聞いているがまったく雰囲気が違う。その髪は短髪に刈られており、肌は小麦色に焼けている。ふたりとも長身だが、細身の佳月に対して希道様は鍛えているようながっちりとした体つきが、服の上からでも見てとれる。
希道様は私に対して興味を持ったようで、瞳をらんらんと輝かせて凝視してくる。
「珍しいな。佳月が女を囲うなんて。しかも、人間のな」
からかいの目を向ける希道様を、佳月様は動じず見つめ返した。
〝女を囲う〟とは、つまり、神様でも性的な意味で女性を侍らすことがあるというのだろうか。そういう目で見れば、希道様はギラギラと生命力にあふれ、いかにも好色そうに見える。
佳月様にも、これまでそういう相手がいたのだろうかと想像して、ツキッと胸が痛んだ。
「イチを傍に置くようになったときには、とうとう気がふれたかと思ったがな」
おかしくて仕方がないとでもいうように、希道様が豪快に笑う。私の半歩前に控えるイチさんの方が小さく震えているのは、おそらく怒りの感情のせいだろう。
「お茶が冷めてしまいますので、失礼しますね」
これ以上、自分の主に対して無礼は許さないとでもいうように、イチさんが強引に割って入る。彼女に促されて、私もプリンを差し出した。
「ん? なんだ、佳月。綾目もイチと同じ扱いなのか?」
近づいた私に、希道様が眉間にしわを寄せた。
なにか不快にさせるようなことをしてしまったのかと不安になるが、今は単に茶菓子を出しただけだ。
絡みつくような彼の視線に、ぶるっと体が震えた。
「お前に説明する義理はないが、勘違いされても不愉快だな。綾目は大切な客人だ。今は本人の希望もあって、イチについて手伝いをしてもらっている」
佳月様の説明に、希道様の瞳がキラリと輝く。茶菓子を出し終えて佳月様の斜め後ろに控えた私を、興味深そうにじっと射抜いてきた。
「ふうん。じゃあ、いなくなってもいいんだ」
「大切な客人だと、言ったはずだ」
いやな客が来たにもかかわらず、佳月様はいつも通りだと思っていたが、そうではなかったらしい。珍しく苛立ちを露わにした彼を、希道様がニヤリと笑う。
「俺はまた、お前が心を決めたのかと思ったんだがな」
それはいったいどういうことかと佳月様を見たが、彼はすべての感情を心の内におしとどめてしまったようで、表情からはなにも読み取れない。
「イチよ。このままでいいのか?」
攻撃の矛先をイチさんに変えた希道様は、いやらしい笑みを浮かべながら彼女を挑発する。その合間に私に向けられる視線が気持ち悪くて、身を縮こませた。
「……言いわけがありませんよ」
吐き捨てるようにそう言い放ったイチさんに、首を傾げる。なんだか言外に、私の知らないなにかかが隠されているようだ。
「ええ、ええ。あなた様もご存じのように、私は生涯、佳月様に使えると決めておりますので」
「そうだろ、そうだろ。なら、このままでいいわけがないよな?」
ふたりのやりとりに、佳月様が眉間にしわを寄せた。
「私は、望んでいない」
「強がるなって、佳月。お前が消えてなくなるのも、もう時間の問題なんだぞ」
少しだけ真剣な表情で、希道様が言う。私ひとりだけ意味がわからず、困惑した。
「なんだ。ふたりとも、綾目に話していないのか?」
「なにを、ですか?」
ふたりが私に隠し事をしていたのもショックだが、それよりも、さっきの希道様の言葉の意味の方が気になる。
「はあ……。佳月も腑抜けになったもんだ。イチだって、こんな情けない主など、愛想が尽きるだろ」
「そんなことありません。ええ、ええ。私は知っておりますから。佳月様が誰よりも心優しいお方だって」
「優しいだけでは生きていけないぜ」
イチさんが言葉を詰まらせた。
「なあ、綾目。このふたりに代わって、俺が教えてやるよ」
「必要はない」
すかさず言い返した佳月様に、胸が痛む。
希道様は片手をひらりと振ってそれをいなすと、佳月様の同意を得ないまま話を続けた。
「人間の信仰心が薄れると、俺たちが現世に及ぼす力は失われていく。そうして完全に忘れ去られたとき、俺たちの存在も失われる」
「希道」
佳月様が鋭い声をあげたが、それどころではない。
「存在が、失われる? どういう、ことでしょうか」
ふたりの龍神の間で視線を彷徨わせる私に、希道様が意地悪な笑みを浮かべた。
「そのままだ。誰ひとり信仰する者がいなくなったとき、俺たちは存在そのものがなくなる」
そんな話は、初めて聞いた。
「ショックか?」
どこか楽しそうな希道様に、コクリとうなずく。呆然しながら見回せば、佳月様は片手で目もとを覆って瞼を伏せ、イチさんも肩をプルプルと震わせながら下を向いてしまっていた。
「ははは。でもな、佳月はそれを受け入れている」
希道様の指摘にハッとする。
思い出すのは、少し前の佳月様の言葉だ。『綾目をここから無理に追い出すつもりは、今のところはない』と、たしかに彼はそう言った。決して、私がずっとここにいる許可をくれたわけではない。
佳月様がいなくなると想像しただけで苦しくて仕方がないのに、反面、彼がそれを受け入れている心境もわかってしまう。
かつての下沢村の人たちは龍神を慕い、祈りを捧げていた。けれど、次第に人間たちは佳月様を見向きもしなくなっていく。挙句、都合が悪くなったときだけ頼ろうとしたり、それでもうまくいかないと佳月様を悪者にしたり、散々な仕打ちをしてきた。
そんな扱いをされても、佳月様はきっと完全には見限れずにいたのだと思う。必死に目を背けていたのは、裏を返せば油断すれば気になってしまうから。彼は村を見ないようにすることで、それ以上人間を嫌いになりたくなかったのかもしれない。
再び裏切られる苦しみを味わうくらいなら、いっそ自分の存在がなくなってしまえばいい。それを抵抗なく認めてしまう彼の絶望は、どれほどのものだったのだろう。
「なあ、綾目。もう先のない佳月に仕えるくらいなら、俺の所に来ないか?」
目を細めて甘い笑みを浮かべながら誘いかけてくる希道様を、じっと見つめた。
「お前なら、特別に俺の伴侶として娶ってやろう」
人間が神様の伴侶になるなんて、あり得る話なのだろうか。その軽薄そうな雰囲気のせいか、この人の語る内容はすべて嘘に聞こえてしまう。
「そ、それは!」
イチさんが、大きな声をあげた。希道様に対して抗議の姿勢を見せたが、ハッとして前のめりになっていた身を引く。
私に視線を向けた彼女は、なにかを言おうと口をもごもごさせたが、結局かける言葉が見つからなかったようだ。まるでなにかを堪えるように、小ぶりの手が力いっぱい握りしめられている。
「私は」
声が震えてしまわないように、ぐっとお腹に力を込める。
決して希道様から視線を逸らさず、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「佳月様とイチさんのお傍にいます」
「はっ。佳月の最期は、もう目に見えてるんだぞ。そうなれば、イチも同じ道をたどる」
ふたりがいなくなるという事実は、受けとめられていない。それに、後の話などそのときになってみなければわからない。大きな不安はあるが、ふたりが存在している以上はずっと傍にいたい。
かつて佳月様を顧みなくなった村人たちのように、私まで彼から目を背けるなんて絶対にしたくない。運命は変えられないとしても、私は最後まで彼を見守っていたい。
「人間でしかない私には、込み入った事情などわかりません。ですが私は、佳月様にお約束したんです。すぐに心変わりをする人間なんて信じられないかもしれませんが、佳月様は優しい神様だということを、私は何度だって伝え続けると」
そのためにも、私は佳月に声の届く場所に居続けなければならない。
はじめは、あの辛い日々から救ってもらった恩から抱いた気持ちだった。でも、今はその意味合いが違う。佳月様を愛しているから、もうこれ以上彼が孤独や絶望を味わないように、寄り添っていたい。
「ふうん。こんな愛想のない男といるなんて、どんなもの好きかと思ったが。なかなか気概のある娘じゃないか」
希道様なりの褒め言葉だろうが、それを舌なめずりしながら言われては嬉しさなど微塵も感じない。