「私が、ここにいては」

 声が震えてしまうのを堪えきれなくて、一旦ぎゅっと唇をかんだ。

「綾目、そうではない」

 私の様子がおかしいのに気づいたのか、佳月様が優しく言う。頭に乗せられた大きな手が、落ち着けと言い聞かせるようにゆっくりと髪をなでた。
 
 突然触れられて、ドキリと胸が高鳴る。どうしていいのかわからず、身じろぎひとつできないでいた。

「綾目をここから無理に追い出すつもりは、今のところはない」

 わずかにささくれだった私の心が、それではこの先はその可能性があるのかと考えてしまう。

「ただ、どうしたら綾目は現世で幸せになれるのかを、聞いておきたい」

 私から手を離した佳月様は、再び兎をなではじめた。

「幸せ」

 彼の言葉を、噛みしめるように繰り返す。

 佳月様やイチさんと過ごす穏やかな時間を知ってしまった私は、それ以外の場所で幸せを感じられるのだろうか。

 両親が亡くなってからの日々は、私の心に大きな傷を残した。最後にお世話になった梶原家は、私にとってはとくに辛い場所だった。家庭内はもとより、最期は生贄として命すら危険にさらされている。

 どこにいてもそんな辛い繰り返しになるだけのようで、もとの世界に戻るのが怖い。ひとりで暮らす力もないし、新しく人間関係を構築するのも、再び嫌な目に遭ったらと想像して腰が引けてしまう。

「幸せになれる気が、しません」

 自力で未来を掴みに行く勇気は、今の私にはない。その弱さが、このままここで平穏に過ごさせてほしいと願ってしまう。
 佳月様は、そんな私をどう思うのか。弱い人間だとか、怠惰な性分だなんてあきれてしまわないだろうか。

「そうか」

 なにを言われるのか恐々としていた私に聞こえてきたのは、いつも通りの返答だった。

「佳月様は、怒らないんですか?」
「なにをだ」
「私、すっかり甘え切ってしまって……」

 ここはあまりにも心地よすぎて、一度この平穏を味わえば、いつまでもいたいと願ってしまう。ふたりがなにも言わずに許してくれるから、自分がなんの役に立てていないことも忘れて、こうして居座り続けてきた。

「怒ることなどなにもない」
「私はそれを、もとの世界に戻らなくてもいいと、都合よく考えてしまうのです」
「そうか」

 怒りもあきれもない佳月様の様子に、なんだか寂しくなる。悠久のときを生きる彼にとって、私の存在など些細なものにすぎないのかもしれない。

「私はここに……佳月様のお傍にいたい」

 彼の心に、少しでも触れたい。私を忘れないでほしい。そんな切望が、言葉に滲む。

 人ではない佳月様を好きになってしまった私に、同じ気持ちを返してほしいとは望まない。ただ、一秒でも長く、彼の近くにいたい。お願いだから私の存在を覚えていてほしい。

 私の訴えに、佳月様はなにも言ってはくれなかった。