「お待ちくださいね、綾目様」

 腰を浮かしかけたところで、イチさんに止められてしまう。一見、さっきの必死さをまったく感じさせない彼女だが、よく見ればその尻尾と耳はピンっと張り詰めたままだ。

「綾目様に関するお話なんですよ。ええ、ええ。無責任に大丈夫とは言えませんがね」
「私に、関する?」

 佳月様をあれほど苦しめてしまうなんて、なにがあったのだろうか。すっかり表情をなくしてしまった佳月様を、そっと見る。

「そうです、そうです。佳月様。眷属の分際でこのように口を挟むべきでないとわかっております。が、私は佳月様も綾目様も大好きですからね。ええ、ええ。佳月様もそう思ってくださっていると、信じておりますよ」

 話が見えず首を傾げていると、イチさんがいつものにこやかな表情で私を見た。

「ほら。綾目様も戸惑ってしまわれていますよ、佳月様。綾目様には、ちゃんと明かすべきです。それでどうするかは、綾目様が決めればよろしい」

 イチさんの視線に気づいているだろうに、佳月様は足もとの一点を見つめ続けたままだ。彼女もそれを咎めたり急かしたりするつもりはないのか、佳月様の言葉をじっと待っている。

「……そうだな」

 しばらくして、ようやくそうこぼした佳月様に、イチさんはあからさまにほっとした。

「よく決断なされました。ええ、ええ。佳月様ならそうなされると、私は信じておりましたよ。では、大まかな話は私がご説明しましょうね」
「ああ」

 これからなにを聞かされるのか、わずかに身構えた私に、イチさんがにっこりと笑いかける。

「佳月様については、以前少しお話しまたね」
「はい。佳月様は龍神様で、昔から下沢村を守ってきたと」

「ええ、ええ。人々の信仰心の大きさが、佳月様が現世に及ぼす力の大きさになるともお教えしましたね」

 小さくうなずいて、話の続きを待つ。

「しかし、村人たちは龍神に対する信仰心を失っていきました。今では、毎日参ってくださった綾目様と、もうひとり、水を供えてくださる方だけになっていました」

 神社を訪れるたびに目にした、汚れのないガラスコップを思い出した。昭三の提案で掃除や修繕はしたものの、やはりその場限りだったのだろう。あれをきっかけに、お参りを継続する人はいなかったようだ。

「今ではもう、佳月様が現世に使える力はほとんどございません。いえね。この常世は別ですよ。そこは現世とは関係ありませんから。それに、佳月様は力の強い部類に入るんですよ」

 どことなく自慢げなイチさんを、内心で微笑ましく思う。彼女が佳月様を慕う気持ちは、いつだって全身から伝わってくる。