「好きにしろと、伝えたはずだ」
たしかにそう言われているが、どうしたって本当にそれでいいのかと考えてしまう。
「まあまあ、佳月様。それだけでは、伝わりませんよ」
「イチ……」
「佳月様は、言葉が足りないんですよ。いえね、にこやかにとまでは言いませんよ。誰にだって、向き不向きがあるんですから。ただですねぇ、もう少し言葉を尽くす配慮は必要ですよ」
まるで諭すようなイチさんを、佳月様がジロリと見やる。
「お前のしゃべりは、うるさいほどだがな」
佳月様にそう言い返されても、イチさんは笑みを崩さない。綺麗に聞き流して、呑気な様子で手にしていたおにぎりを頬張った。
ため息をこぼした佳月様が、再び私の方を向く。
「迷惑ではない」
端的な言葉に、パチパチと瞬きを繰り返す。
「綾目は、イチのようにうるさくない」
「ええ、ええ。私がおしゃべりだと、ちゃんと自覚しておりますよ」
嫌味ですらそう受け流したイチさんに、こちらがはらはらする。
不機嫌な視線を向けた佳月様だったが、言葉で咎める気はないらしい。
「これからも、食事を用意して大丈夫ですか?」
こうしてせっかくここへ来てくれたのだから、気がかりだった質問をする。
「ああ」
短い返しだが、その穏やかな声音に嘘は感じない。
この人が人間に対する複雑な感情を抱いているのは、間違いないだろう。それでも、すべての人間をひと括りにして疎んでいるわけでもないようで、こうして私の問いかけに対してきちんと返してくれる。それがたまらなく嬉しくて、気分が浮上した。
全員が食べ終わったところで、デザートのゼリーを取り出した。佳月様が、それを興味深そうに見つめてくる。
「佳月様。こちら、庭になっているみかんを使って、綾目様が作ってくれたんですよ。ええ、ええ。私は実をそのままお出しするくらいでしたが、綾目様の手にかかれば、ほら。こんな宝石のように綺麗なゼリーになるんですよ。さすが綾目様です!」
私に代わって、イチさんが説明してくれた。ただ、少々表現が大げさで、過剰な褒め言葉に頬が熱くなる。
「そ、そんなにたいしたものじゃないですし、イチさんもたくさん手伝ってくれたんですよ」
ゼリーと私との間で視線を往復させた佳月様は、「そうか」とつぶやいて匙を手にした。心なしか、その口角が上向きになっている。目もとも、いつもより温和な雰囲気になっていると感じるのは、きっと気のせいではないはず。
「美味しいですねぇ、佳月様」
「そうだな」
イチさんの問いかけに自然に返された同意に、心が震える。
「ここの庭のみかんは、本当に甘くて美味しいですねぇ」
「そうだな」
おしゃべり好きなイチさんに対して、佳月様の答えは同じひと言だ。その声音はずいぶんと柔らかく、それだけで私の心は満たされてしまう。
そよそよと吹く心地よい風に、前髪がふわりと持ち上がる。ここは佳月様の作った空間だというが、あまりにも自然で作り物には思えない。自分たち以外誰もいないということを除けば、人間の世界とほとんど変わらない。
ふと庭に目を向けたら、その端に茶色い兎を発見した。先日は鶏が何羽か遊びに来ていたし、ほかにももっといるのかもしれない。人間界で彼らが辿った運命は不憫だが、こうして自由に過ごしている姿に温かい気持ちになる。
私たちの存在を認めて、兎がこちらへ跳ねてくる。その後ろに、もう一羽白い兎が現れた。あれは以前、私のとこへ来た子だろうか。茶兎を追いかけるようにして、白兎もこちらへ向かってくる。
茶兎は佳月様に近づくと、なんのためらいもなく、その膝に飛び乗った。それを見てうろたえるのは私ばかりで、イチは「まあまあ」と微笑ましそうに眺めている。当の佳月は、優しい手つきで兎の背をなではじめた。
白兎はどうするのかと思えば、迷うことなく私に近づき、同じように膝に乗ってきた。やはり、先日遊びに来た兎だろうか。甘えるようなその行動がくすぐったくて、自然と笑みが浮かぶ。ふわふわなその背を堪能するように、繰り返しなでてやった。
「かわいいですね」
「ええ、ええ。てっきり人間には警戒するかと思っていましたが、これらは綾目様の優しさをわかっているんでしょうねぇ」
「え?」
初めて見かけたときからずいぶん懐かれて不思議だったが、あのときのイチの反応から、これが普通なのだと思っていた。
「警戒?」
首を傾げる私に、佳月様が口を開く。
「これらは、私に捧げるために人が殺めたものらだ」
すでに知っていた話なのに、あらためて彼の口から聞かされると大きな罪としてのしかかってくるようだ。胸のあたりがずしりと重くなり、そっと手で押さえる。
「それを覚えているはずだが」
つまり、この子たちは人に捕らえられ、命を奪われたその瞬間を忘れていなというのか。
佳月様の視線が一瞬だけ私を捉えて、再び兎に戻される。
「イチの言うように、綾目の本質を見抜いて、警戒する必要がないと判断したのだろう」
自分が善人だなんて、まったく思わない。私は自身の居場所を作るためならばという、打算的な考えを行動の基準にするような人間だ。役に立ちたいというのも本心だが、それ以上に自分が安心できる場所がほしかった。
「私は、そんな……」
〝人間ではない〟と続けようとしたところで、私に向けられる佳月様の視線を感じて口をつぐむ。
「綾目の行動原理に、他者を貶めようとする意図が微塵もないと、こやつらは感じ取っているのだ」
「ええ、ええ。もちろん私もですよ、綾目様」
即座に賛同したイチさんが、にこにこと私を見つめてくる。
隣に座る佳月様は手もとに視線を落としたままだが、なにか私を非難するような気配は微塵もない。
「もちろん佳月様だって、最初からわかっていらっしゃったんでしょ。ただ、ちょぉっとばかり、素直になれないだけで」
「イチ。想像でものを言うな」
イチさんを咎める彼の口調が、いつもより早口になる。
「ええ、ええ。私は想像なんかに左右されませんよ。それはもう、いつだって」
「お前は……はあ」
佳月様から盛大なため息が漏れた。
物静かでそこに座っているだけで厳しさを感じさせる佳月様だが、イチさんが絡むと途端に親しみやすさが増す。放っておけばいつまでも続きそうなそのやりとりに、自然と笑いがこぼれた。
「ふふふ」
ピタリと動きを止めたふたりが、そろって私の方を向く。
二羽の兎は、私たちなど気にもせずに、変わらずそれぞれの場所でくつろいでいる。
「ご、ごめんなさい。おふたりのやりとりが楽しくて、つい……」
「ええ、ええ。佳月様とは長い付き合いになりますからね。お互いに、なにもかもお見通しですよ。ほらほら、佳月様。綾目様にあきれられてしまいます」
「イチ。もう口を開くな」
不機嫌さを滲ませた佳月様だが、私に向けられたわけではなさそうだ。
イチさんにとって佳月様は、命の恩人だ。だから彼のもとでずっと尽くしているのだと教えてくれたが、きっと佳月様にとってもイチさんはかけがえのない存在なのだろう。なんだかんだ言いながら、イチさんのすべてを許して受けとめているのが伝わってくる。
互いに必要とし合えるその関係性が羨ましい。
一方的に尽くすばかりの日々は、本当に辛かった。なにをしても、所詮私はよそ者にすぎず、厄介な存在でしかなかった。
不意に梶原家で過ごした日々を思い出し、惨めさにじわりと涙が浮かぶ。それを悟られないように、慌てて下を向いた。
「そうだ、佳月様!」
すっかり気分が沈んでしまったところで、明るいイチさんの声が響く。そっと視線だけ上げると、やや興奮気味の彼女を佳月様が胡乱げに見ていた。
「これからも、こうしてみんなで食事をいただくのはどうでしょう? ええ、ええ。都合もありましょうから、いつもは難しいでしょうがね。ですが、おしゃべりしながら食べるのは、本当によいものですねぇ」
「イチさん。それでは佳月様の負担になってしまいます」
ひとりでの食事は、たしかにもの寂しい。けれど、さすがに毎回となれば迷惑だろう。
「……かまわない」
「え?」
呆然とする私を、佳月様がじっと見つめてくる。
「綾目がそうしたいのなら、私はかまわない」
「ほらほら。佳月様もこうおっしゃってるんですし、ぜひそうしましょう。ああ、なんだか私、楽しくなってきました」
本当にいいのだろうかと迷いは晴れず、佳月様を見返す。金色の瞳に温かな光が浮かんでいるのを見つけて、いつの間にか固く握りしめていた手から力が抜けていく。
「ありがとう、ございます」
掠れた声で、なんとか礼を伝えた。佳月様はそれになにか言うでもなく、変わらず茶兎をなでつつ庭を眺めていた。
約束通り、私とイチさんと佳月様は、可能な限り食事を一緒にとるようになった。最初のときのように庭へ出るときもあるが、たいていが佳月様の部屋におじゃまさせてもらっている。
「綾目様、綾目様。私、今晩はうどんが食べたくてですねぇ」
夕飯の準備に取り掛かる頃になり、イチさんが興奮しながら私の部屋にやってきた。
イチさんの明るさに、辛かった日々は徐々に風化していく。彼女の存在には、ずいぶん助けられている。
「こう、大きな油揚げをのせて……」
以前食べたものを思い浮かべているのか、彼女の糸目がさらに細くなる。今にもよだれをたらさんばかりの彼女に、つい苦笑した。
「いいですね。ほかにもいくつかの具材を用意して、好みで選べるようにしましょうか」
葱やわかめ、それからキノコ類も美味しいに違いない。付け合わせに、おひたしや卵焼きを作ろうかと想像する。
「楽しみですねぇ」
嬉しそうな彼女に、同じ気持ちだとうなずき返す。
待ちきれなかったのか、イチさんに急かされるようにしながら台所へ向かう。そうして、いつものようにふたり並んで調理に取りかかった。
「美味しそうですねぇ。冷めないうちに、食べちゃいましょう」
イチさんの後をついて、佳月様の部屋を目指す。
「佳月様、夕飯ですよ~」
この緩い調子に、ここへ来たばかりの頃は失礼なんじゃないかと内心ひやひやしていたが、それももうすっかり慣れた。ノックもそこそこにガラリと戸を開けてしまうのも、彼女なら許されてしまう。
「佳月さ……佳月様!」
慌てるイチさんに、なにがあったのかと室内を覗く。苦しげに顔を歪める佳月様に気づき、私も中に踏み込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
私の声に反応した佳月様は、こめかみに手を当ててこちらを見る。初めて顔を合わせたときと同じ、温度のない冷淡な視線に射抜かれて、ビクリと体が揺れた。変貌した彼に、伸ばしかけた腕を咄嗟に引き、思わず一歩後ろへ下がる。
「佳月様、佳月様。落ち着いてくださいね。ええ、ええ。わかっておりますよ。見てしまわれたんですね」
いつもは金色をしている瞳は、今はなぜか赤銅色に濁っている。その手の甲や顔もどこかおかしい。鱗のような模様が浮き出ているようだと気づいて、ハッとする。
佳月様は龍神だ。金色の瞳を除けば外見は人間となんら変わらないせいもあって、あまり意識していなかったが、彼は人ではない。
ただ、そんな姿を見ても不思議と怖くはない。私の中にあるのは、ひたすら彼を心配する気持ちと、拒絶されているような反応対する悲しみだけだ。
「大丈夫です。大丈夫ですからね。佳月様のせいではございませんよ」
なにかを堪えるように、佳月様が瞼を伏せて両手をぎゅっと握り合わせた。幾分か落ち着いた様子に、イチさんはもう大丈夫そうだと判断したらしい。彼女の意識が、ようやく私に向けられる。
「綾目様。温かいお茶をお願いします」
「は、はい」
いつになく真剣な彼女に、不安感を煽られる。こくりとうなずいて、急いで台所に引き返した。
素早く用意を済ませて佳月様の部屋にもどると、彼はもうすっかり平常心を取り戻したようだった。いつもの場所に座る佳月様の隣にひとり分間を開けてイチさんも座っており、彼女は私と目が合うと小さくうなずいた。
緊迫した室内に、勇気を出してそろりと足を踏み入れる。私がここにいていいのか不安だが、さっきのイチさんの反応は入っていいということだろう。佳月様も咎めてくる様子はなく、慎重に彼の前まで進んでいく。
「ど、どうぞ」
少々強張った表情の佳月様に、怯む心を必死に隠しながらそっとお茶を差し出す。
「綾目様、ありがとうございます。そちらにどうぞ」
イチさんに促されるまま、ふたりに向き合うように用意されていた座布団に座った。
湯呑を手にした佳月様は、いつもより緩慢な動作で熱いお茶を口に含む。目を閉じてゆっくりとそれを飲み下し、湯のみを机に戻した。
「すまない。見苦しいところを見せた」
少し掠れた声音が、彼の疲労を表しているようだ。
「私が怖いだろ」
わずかに表情を歪めた佳月様に、胸がしめつけられる。
「……え、えっと」
緊張と混乱ですぐに反応できなかった私に、佳月様の眉間に寄ったしわが一層深くなる。 イチさんは変らず笑みを浮かべているが、言葉を発するつもりはないようだ。
「その、驚きはしましたが、怖いとは思いません」
私の返事に、佳月様が訝しげな顔になる。おそらく、私の言葉を疑っているのだろう。
「佳月様が龍神様だと知っていますし、それに、あなたはこうして私をここにいさせてくれる、優しい方ですから」
通常ではない様子に驚いただけで、怖かったわけではないとわかってくれるだろうか。なにも言わない佳月様に焦れて、さらに口を開いた。
「それよりも、心配しました。どこか、調子の悪いところがあるんじゃないですか?」
イチさんが口走っていた『見てしまわれたんですね』や『佳月様のせいではございません』という言葉もどうにも気になる。
けれど、人間である私に明かす話でもないのかもしれない。
「あ、あの。大丈夫のようでしたら、私は部屋の方に……」
気心の知れたイチさんとふたりでいた方が佳月様のためになるだろうと、早々に立ち去ることに決めた。
「お待ちくださいね、綾目様」
腰を浮かしかけたところで、イチさんに止められてしまう。一見、さっきの必死さをまったく感じさせない彼女だが、よく見ればその尻尾と耳はピンっと張り詰めたままだ。
「綾目様に関するお話なんですよ。ええ、ええ。無責任に大丈夫とは言えませんがね」
「私に、関する?」
佳月様をあれほど苦しめてしまうなんて、なにがあったのだろうか。すっかり表情をなくしてしまった佳月様を、そっと見る。
「そうです、そうです。佳月様。眷属の分際でこのように口を挟むべきでないとわかっております。が、私は佳月様も綾目様も大好きですからね。ええ、ええ。佳月様もそう思ってくださっていると、信じておりますよ」
話が見えず首を傾げていると、イチさんがいつものにこやかな表情で私を見た。
「ほら。綾目様も戸惑ってしまわれていますよ、佳月様。綾目様には、ちゃんと明かすべきです。それでどうするかは、綾目様が決めればよろしい」
イチさんの視線に気づいているだろうに、佳月様は足もとの一点を見つめ続けたままだ。彼女もそれを咎めたり急かしたりするつもりはないのか、佳月様の言葉をじっと待っている。
「……そうだな」
しばらくして、ようやくそうこぼした佳月様に、イチさんはあからさまにほっとした。
「よく決断なされました。ええ、ええ。佳月様ならそうなされると、私は信じておりましたよ。では、大まかな話は私がご説明しましょうね」
「ああ」
これからなにを聞かされるのか、わずかに身構えた私に、イチさんがにっこりと笑いかける。
「佳月様については、以前少しお話しまたね」
「はい。佳月様は龍神様で、昔から下沢村を守ってきたと」
「ええ、ええ。人々の信仰心の大きさが、佳月様が現世に及ぼす力の大きさになるともお教えしましたね」
小さくうなずいて、話の続きを待つ。
「しかし、村人たちは龍神に対する信仰心を失っていきました。今では、毎日参ってくださった綾目様と、もうひとり、水を供えてくださる方だけになっていました」
神社を訪れるたびに目にした、汚れのないガラスコップを思い出した。昭三の提案で掃除や修繕はしたものの、やはりその場限りだったのだろう。あれをきっかけに、お参りを継続する人はいなかったようだ。
「今ではもう、佳月様が現世に使える力はほとんどございません。いえね。この常世は別ですよ。そこは現世とは関係ありませんから。それに、佳月様は力の強い部類に入るんですよ」
どことなく自慢げなイチさんを、内心で微笑ましく思う。彼女が佳月様を慕う気持ちは、いつだって全身から伝わってくる。
「佳月様はですね、いつだって下沢村の状況を知ることができるんです。以前は、自分を慕う村人らの願いに応じようと、常に気にかけておいでだったんですよ。ですがね……」
そこで言い淀んだイチさんは、寂しげに眉を下げた。
「信仰心をなくしていく村人の姿もまた、すべて見えてしまうのです」
規模の大きな話に気後れしそうになりながら、そのときの佳月様の心境を必死で想像する。村人たちの心変わりを、この人はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
「それでも、村になにかあってはいけないと、目を背けずにおられました」
存在を忘れられていく辛さなど、私では想像もつかない。
イチさんの話は佳月様も聞こえているのに、彼の表情は少しも変わらない。けれど、心優しい佳月様のことだ。平気なはずがない。
そんな佳月様を見ていたら胸が苦しくて、涙が止まらなくなる。
「っ……うっ……」
口もとに手を添えてこらえていたが、嗚咽が漏れてしまう。当事者でもない私に悲しまれても、彼を困らせるだけだ。
「佳月様のために、涙を流してくださるなんて……綾目様は、本当にお優しい」
そうじゃないと、首を左右に振る。彼の本当の苦しみがわからない私には、泣く資格なんてない。
必死に涙をぬぐっていると、目の前に真っ白なハンカチが差し出される。それをしてくれたのが佳月様だと気づいて、ますます涙が止まらない。
「すみ、ません。わ、私が泣くなんて、違うのに」
「いや。かまわない」
私がハンカチを受け取ると、佳月様はイチさんに続きを促して、再び口を閉ざした。
「綾目様。佳月様のために悲しんでくださって、ありがとうございます。私も、長く佳月様にお仕えして、ずいぶんもどかしい思いをしたものです。ええ、ええ。それはもう本当に」
佳月様を慕うイチさんもまた、彼と同じように苦しみに耐えていたのだろう。
「天候に恵まれず、不作が数年続いた村人たちは、自分たちの信仰心の薄れを棚に上げて、佳月様をなじるようになりました。なんのための神なんだって」
「そんな」
思わず声を出した私に、イチさんはまったくだとうなずいた。
「いえね。もともと下沢村の天候事情は、それほど良い条件じゃなかったんですよ。それを佳月様が助けていたから、問題なく暮らせていたんです」
安定生活が守られているうちに、いつの間にか、村人が頼むばかりの一方通行なやりとりになってしまったのだろう。
「村人は、天候に適した作物を模索したり、ほかの仕事を探したりして、なんとか下沢村での生活を続けていました。ええ、ええ。その努力は、私も認めておりますよ」
イチさんの口調に嫌味はなく、称賛の意すら感じられる。
「私は難しいことはわからないのですが、ほら、空はどこまでも続いているじゃないですか」
なんの話かと思いながら、こくりとうなずいた。
「ですからね、ほかの土地で環境が壊れれば、やがてその影響が山奥の村にも出るようになるんです。ゆっくりと時間をかけながら、それでも確実に歪みが生まれるんですよ」
イチさんが言いたいのは、環境破壊や汚染などのことだろう。もう何年も前からや〝気候変動〟といった言葉が、ニュースでも頻繁に飛び交っている。
「その結果が、今の下沢村です。お若い人はいいですよ。好きなところに移り住めばいいんですからね。ええ、ええ。その気持ちは私だってわかりますよ。けれど、お年を召した方らは、昔から守ってきた土地をそう簡単には手放せないんでしょうねぇ」
村で出会った人たちを思い浮かべてみた。
イチさんの言う、土地を手放せないというのは、まさしくお世話になっていた梶原家もそうだった。息子の昭人は都会に憧れを抱いていたが、それを勝吾が有無を言わさず却下している。そして昭人に対して、自分と同じ仕事に就いて家を守れと、頭ごなしに言い聞かせていた。
「少々話が逸れてしまいましたねぇ。ええ、ええ。ですが、綾目様にはちゃんと知っておいてほしいですからね」
「はい」
私の返事に、イチさんは満足げに口角を上げた。
「最近の下沢村については、綾目様も実際に目されたので、少しはわかっておられると思います。すっかり信仰心をなくした村人を目にするのは、佳月様にとってそれはもうお辛いことなんですよ。次第に佳月様は、村の様子を見ないようにしていました。いえね。気にはかけているんですよ、もちろん。ですが、たとえ村人を救いたいと思っても、今の佳月様にはそんな力はございません。それならせめて、目を背けていた方が心の安寧を保てるというもの」
いくら村人の心が自分から離れてしまったとはいえ、心優しい佳月様にとって、苦しむ彼らを見ているだけなのも拷問のような時間だったのかもしれない。
「ただ、村人の心が大きく乱れると、たとえ佳月様が拒んでも否応なしに見えてしまうんですよ」
佳月様が取り乱していたのは、それが原因らしい。いったい彼は、どんな場面を目にしたのだろうか。
「ここと現世とでは、時間軸が違うとお教えしましたね?」
「ええ」
話の内容が変わったことに首を傾げながらうなずいた。
この空間では、大昔に供えられた農作物が今でも鮮度を保ち続けている。現世に似せているため私の中での感覚はもとのままだが、実際はどれほどずれているのだろうか。
「佳月様。ここからも私が話してよいでしょうかねぇ」
「……ああ」
佳月様は、ひらりと手を振ってイチさんに託した。彼はまだどこか苦しげで、再び湯呑に手を伸ばして喉を潤している。
「先ほど、佳月様が目にした下沢村は、綾目様が生贄にされた翌朝でした」
「え?」
ここへ来てもうずいぶん時間が経つというのに、もとの世界ではわずかひと晩しか経過していないらしい。予想外の話に、とっさに意味が理解できなかった。
「ええ、ええ。驚かれるのも無理ありませんね。時間のずれは常に変化してるんですよ」
つまり、ここでまた同じだけの時間を過ごしたとしても、現世で進む時間は必ずしもひと晩程度とは限らないらしい。
「ここは、佳月様の心に、時間の流れが左右されますからねぇ」
なんでもないように話すイチさんに、言葉をなくす。
「翌朝になって、村人たちは再び神社に集まっておりました。ええ、ええ。私も先ほどその様子を見せてもらいましたからね、間違いありませんよ」
お茶を用意しているわずかな間に、やりとりをしたのだろう。どうやって見るのか気になるが、私の踏み込んでよい領域ではなさそうだ。
「社殿の中に、綾目様がいないと気づいた彼らは、なにがあったのかと訝しんでましたねぇ。それから、梶原家の人間が……ああ、こちらはご夫妻だけおられましたよ」
当然、昭人や公佳が来るとは思わない。
「おふたりが、綾目様は帰ってきていないと言えば、『それでは、あの娘は逃げたのか』とその場が騒然としました」
そう思われても仕方のない状況かもしれないが、ほんの数カ月前に来たばかりのよそ者になにを期待しているというのだろうか。自分たちの村の話なのに、抵抗もできない私にすべてを背負わせ過ぎだ。
無責任な彼らの行いや、心配のひとつもされないのかというやるせなさに、手をぎゅっと握りしめる。どうして私は、あの人たちのために命を脅かされなければならなかったのか。当時は心が麻痺して少しの反抗もなく受け入れていたが、今はその理不尽な扱いに憤りを覚える。
あのとき、もしイチさんが助けてくれなかったら、私は佳月様に会うこともなかっただろう。
「ええ、ええ。綾目様の苦しみは、私もよぉくわかります」
労わるようなイチさんの声音に、うつむいていた顔を上げた。さっきまで厳しい表情をしていた佳月様だったが、今は私に探るような視線を向けてくる。