さて、次は綾目様の身の回りの準備だ。生活に必要なものをそろえて、それから食事も作っておくべきだろう。

 自分や佳月様は、食事を必要としない。食べられないわけではないが、食べなくともいられる。それは、常世《とこよ》と呼ばれるこの世界に連れて来られた綾目様も同様だ。ただ、彼女はまだなにかを選んだわけではない。もし現世に戻りたいと希望したときに、すっかりこちらの世界に染まってしまえば、いろいろと不都合が生じかねないからだ。本人の意思が定まるまでは、現世と同じ生活をしてもらうのがいいだろう。

 新品のまましまわれていた着物が、いくつもあったはず。それに、ここにはずっと昔に村人が供えてくれた食べ物がそのまま残っている。現世のものはこの空間にある限り時を刻まないため、鮮度もそのままだ。もちろん、連れて来られた人間もその時を止める。つまり、老いることはない。

 たまにしか使っていない台所に向かい、まずは食事を用意する。あの状態では、それほどしっかりは食べられないかもしれない。野菜をたくさん入れた汁に、温かいご飯を手早く用意すると、再び綾目様を寝かせてある部屋に戻った。

 まだ目覚めてはいない。そっと手に触れてみたが、先ほどよりは幾分かましになっているようで、肌も正常な色に戻っている。顔色もよく、もう心配はなさそうだと安堵した。

 とりあえず彼女の横に座り、現世で手に入れてきた本を開いて、その目覚めをひたすら待つ。

「ん……」

 身じろぎする気配にハッとして、手にしていた本を慌てて床に置いた。それから、彼女の顔を遠慮なく覗き込んだ。瞼は小さく痙攣し、気怠そうに持ち上げられた手が、それを擦る。

「綾目様」

 控えめに声をかける。それに気づいたようで、手をどけた彼女は、ずっと閉じられていた瞼を薄っすらと開けた。

「う、ん?」

 状況が理解できていないのだろう。目を細めて、周囲に視線を巡らせている。

「ここ、どこ?」

 再び戻ってきた視線に、にっこりと笑い返せば、大きな目がさらに見開かれた。

「き、狐?」
「はい、狐でございますよ。ええ、ええ。綾目様が大変驚いているのはわかっていますよ。とりあえず、自己紹介をしておきましょうかね。私、龍神である佳月様の押しかけ眷属をさせていただいております、イチと申します」
「ここは……天国なのかしら?」

 どうやら彼女は、自分が死んだと思っているようだ。

「綾目様、お加減はいかがですか?」
「えっと、少し怠いですが、とくには……」

 その程度ですんだのならよかったと、繰り返し小さくうなずく。

 体を起こそうとする彼女を手伝い、その肩にショールをかけてやる。

「それはようございました。ええ、ええ。楽な姿勢でかまいませんので、状況をお話しさせてくださいね」

 彼女が首を縦に振ったのを見届けて、今に至る状況と、ここがどこで誰の宮かを話して聞かせた。