「佳月様、佳月様」

 おざなりにノックをして、主の過ごす部屋の引き戸を開ける。

「なんだ、イチ。騒がしいぞ」

 背中でひとつに結ばれた、腰まで届く白銀の髪をひらりと揺らしながら振り返った主は、わずかに眉間にしわを寄せている。

 金色の怜悧な瞳に射すくめられたら、力のない者は竦みあがってしまうだろう。思わず金色の狐耳がピクリと反応してしまったが、これは条件反射のようなもの。もう何百年も一緒にいる自分は、これくらいのことで動揺などしない。

「下沢村の者らが、生贄を差し出すと騒いでいたじゃないですか?」

 ずいぶんと砕けた口調でもこれが通常であり、主が咎めたことは一度もない。冷淡に見えるが、従者を名乗る自分の好きなようにさせてくれる心の広い方なのだ。

「ああ、言っていたな」

 嘆息した主は、苦々しい表情になる。

 生贄など、微塵も欲していない。舞やそのほかのお供えも、今さら差し出されたところで迷惑だとすら思っている。

 人々の信仰心が薄れるにつれ、龍神である佳月様は、下沢村に及ぼす力はほとんど失ってしまった。このままではその存在が消滅しかねないが、主がそうなることを望んでいるのを知っている。

「ばかばかしい。無駄な殺生など、なんの意味もないというのに」

 静かだが、吐き捨てるようにそう言い放った主を見ていると、切なくてたまらない。その気持ちは表情に出ていたようで、佳月様は視線を外した。

 千年以上の悠久のときを生きる佳月様は、龍神として下沢村の住民の生活を守ってきた。その昔、人々と龍神の距離は、直接的な触れ合いはなかったもののずいぶんと近しいものだった。

 村人は、季節ごとに様々な祭りを催し、龍神の加護に感謝と敬意を示す。龍神をこの村唯一の神として崇め、見えないその存在をいつも身近に感じていた。
 彼らの信仰心に呼応して、佳月様もその願いを叶えてきた。もちろん理不尽なものには応じないが、そもそも素朴な村人らは不相応な願いなどしない。

〝佳月〟という名も、いつの時代かの村長がつけたものだ。龍神の加護を常に感謝し、より親しみを込めた呼び名があればと思ってのことだったらしい。村を愛していた佳月様もその気持ちを受け入れ、以来、自ら〝佳月〟と名乗っている。

 しかし、時代の流れと共に、人々の龍神に対する信仰心は次第に薄れていった。

 祭りは徐々に簡素化され、回数も減っていく。同時に、龍神を祀る神社を訪れる人は目に見えて減った。
 その少し前から、押しかけ眷属よろしく従者として仕えてきた自分は、なんとかならないかと心を焦らし続けている。