小学五年生の時、父がギターをくれた。
どういう経緯でギターをもらうことになったのかまでは覚えていないが、父が若い頃ギターをやっていたことと、「音楽が持つ力は素晴らしい!」と熱弁したことに感動した、というのはひとつのきっかけだったのではないかと思う。
初めてギターに触れた時、世界が変わったような気がした。譜面の読み方もコードも覚えるのは大変だったけれど、父が隣で優しく教えてくれて、夢を語ってくれた。
俺にとってその時間がとても大切で、尊いものだったのだ。
けれど、それは一時の娯楽だった。中学生になる時、母は俺に「いつまでも遊んでられないのよ」と言った。母の指す“遊び”が何を指しているのか、言葉にはされなくともすぐにわかった。学生の本業は学業だから、と。そういうことを言いたかったのだと思う。
俺の家は、とても穏やかで平和な家庭だった。
母は過保護で心配性なところが難点だったけれど、それも愛ゆえのことだとわかっているつもりだったので、文句を言ったことは一度もなかった。
本当はもっとギターの練習をしたかった。もっといろんな曲を弾けるようになって、いつか自分で作詞作曲を手掛けて、俺の音楽が誰かを救えるくらい大きくなれたら──なんて、そんな夢を抱いても、母の前では言えなかった。
ギターをやめろと直接言われたわけじゃない。否定されたわけでもない。けれど、確かに感じていた。
敢えて言葉にはされない母の願いが垣間見えるたびに、俺はひとつずつ本音を呑み込むようになった。
人の雰囲気や表情、声色で感情を察するようになったのはこの頃からだ。
母に限ったことじゃない。学校でも、誰が誰に好意を寄せているとか、今この先生は機嫌が悪いとか、そういうことがわかるようになった。
頼まれてもいないのに相手の機嫌を取ったり、空気を読んだりするのはとても疲れるけれど、そんな自分にもだんだん慣れて、誰とでも平等に接するのが得意になった。元々、人と話すこと自体嫌いなわけではなかったので苦には思わなかったが、その代わり、自分に対して疑問を抱くようになった。
俺はなんでこんなことしてるんだっけ。
周りの人の機嫌をうかがって、自分を殺して、なんで生きてるんだっけ?
勉強や部活を頑張るのは俺のためじゃなくて母のためなんじゃないか。本当はもっとたくさん良い音楽に触れて、ギターの練習をして、俺が思うかっこいい自分でいたいのに。
実際は、母に否定されるのが怖くて踏み込めないだけだ。
双子の弟──仁科新は、絵がとても上手かった。部活動には所属せず、学校のテストでは常に赤点を取るようなやつだったけれど、部屋に引きこもって好きなことに熱中する姿はとてもかっこよくて、正直なところ、とても羨ましかった。
母はよく「ちゃんとしなさい」と新のことを怒っていたけれど、母の言う通りにするだけの自分がちゃんとしていることになるのなら、ちゃんとしていない人間のほうが俺にはよっぽどかっこよくて、煌めいて見えた。
けれど、双子なのに、俺と新の間にはどんどん距離ができ、だんだん最低限の会話しか交わさなくなった。嫌われていたのだと思う。いや、思う───ではなく、確かに俺は新に嫌われていたのだ。
俺も、こんな生き方しかできない自分は嫌いだったから、疑問には思わなかった。
庄司絢莉という人物に興味を持ったのは、自分の生き方につまらなさを感じ始めた頃のことだ。
席替えをして、俺の席から彼女はよく見える位置にいた。永田百々子と木崎祐奈といつも一緒にいて、クラスでも目立つ人物。良く笑うし、それなりに発言もする。
けれど、いつもどこか一歩引いているように見えた。自分を殺して周りに合わせることを正解だと思って生きてそうなところが、なんとなく、俺と似ている気がした。
話してみたいと思っていた。けれど話す機会は思いのほかなくて、ようやくちゃんと話したのは中学三年生の夏だった。
すでに、席替えをして三か月が経っていた。
休みに入る前に行われた三者面談で、母の前で有名な進学校を進めてきた担任が俺は嫌いだった。俺の意思も聞かずに進学校に進むことを前提にする母も嫌だった。
勉強は俺のためのものじゃなくて、母を安心させるための材料だと気づいてしまってから、俺はとにかく家に帰りたくなくて、放課後はよく教室で日が暮れるのを待っていた。
三年生の夏となると、県大会に出場する運動部か塾に通う生徒か何も気にせず遊ぶ生徒の三択にしぼられるので、ホームルームが終わるとすぐに帰宅する人が多く、十分も経てば教室はあっという間に無人になる。
だれもいなくなった教室で、勉強をするわけでもなく、ただぼーっと窓の外を眺めるのが、俺にとってはひそかな楽しみだった。
三年生の教室は後者の四階にあり、空が近くてグラウンドも良く見渡せる。ベランダに出て、ランニングする陸上部や下校する生徒たちの姿を眺めていると、ひとり、校舎に向かって歩いてくる生徒を見つけた。庄司さんだった。
木崎とふたりで下校したはずの彼女ひとりで戻ってきた。忘れ物でもしたのだろうか。だとすれば数分後、彼女は教室に戻ってくるだろう。
だれもいない教室で、俺がひとりベランダにいたら不思議に思われるかもしれない。
相手が彼女じゃなかったら、忘れ物とりにきた、とでも言えたかもしれないが、庄司さんに「仁科くんなにしてるの?」と聞かれたとしていつものように当たり障りなく流せる自信がなかった。いや、違うか。そうしたくなかったんだ、俺は。
一度教室を出て、トイレで彼女が来るのを待った。それから数分して控えめな足音が聞こえ、俺は教室に戻った。
彼女の目を見て話をしてみたい。友達といる時に時折つまらなさそうな表情をする理由を暴いてみたい。それで、俺は、安心したかったのだと思う。
それなのに、眩しいほどのオレンジを写真に収めようとする彼女の姿を見た時───やっぱりどこか自分と似ているような気がして、嫌いだと思った。
俺の中学時代なんて、どこをとってもしょうもない。
これと言った思い出はできないまま、母が望んだ高校に進学し、俺は高校生になった。
進学校というだけあって授業やテストはレベルが高かったけれど、頭が良いからといってみんなが真面目でお堅いわけでもなく、それなりに友達もできたし、それなりに学生らしいこともできていた。
テスト期間にみんなで集まって勉強をしたり、休みの日に男女で遊んだり、家から近いファミレスでバイトを始めたり。一応、彼女がいた時期もあった。「翼くんって本当に私のこと好き?」と聞かれ、三秒言葉に詰まった結果、「もういいよ」と言われ二か月足らずで破局してしまったが。
とはいえ全部それなりに、そこそこ充実した日々のなかにいた。
それなのに、ふとした瞬間に満足すべきはずの日々に物足りなさを感じるのは、誰かがひいたレールの上を落ちないように慎重に歩いているだけの自分に気づいているから、なのだと思う。
高校生活が進めば進むほど、その気持ちは強くなった。
成績が良くないと母に幻滅されてしまうかもとか、バイト先は常に人手不足で大変そうだからたくさんシフトを入れておこうとか、そんなのは所詮俺が勝手に思っているだけのことで、実際、仮に母が望む大学に合格したとて自分の将来像は見えないままだろうし、俺がいなくても結局店は回る。
いつだって人の機嫌を窺って、避けられそうな問題は先回りして回避する。母を心配させないために、面倒でもラインはすぐ返事をするし、成績を落とさないための努力をする。
どこをとっても、俺は変わっていない。ただ漠然と、死にたいと感じる。なんとなく生きづらいと思う。
この先も俺は、そんなことを思いながら俺のためじゃない人生を生きていくのだろうか。
そう思ったらつまらなくて、気持ち悪くて、それからとても怖かった。