「お待たせしました」
「あ、はいっ」



突然声を掛けられ、目の前に珈琲が置かれる。色々考えていたせいで、関くんの気配に全く気づけなかった。反射的にスマホを伏せ、わたしは「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。



一か月前までは、関くんではなく「にしなくん」が接客してくれていた。

店長さんや他のスタッフからも頼りにされているようだったから、クビになった可能性は考えられない。

彼のことは名字と顔と高校以外何も知らないけれど、なんとなく、突然辞めるような人にも思えなかった。

そうなると、考えられるのは怪我や事故などといったネガティブな理由になる。



関くんは、何か知っているだろうか? クラスメイトに自分から声を掛けるほどわたしは積極的な人間ではないが、全然話せないわけでもない。
幸い、彼とは席が前後だ。最低限の会話のキャッチボールはできるし、周りに相沢さんのような派手な同級生もいないから気が楽だ。


「ごゆっくりど……」
「あの、関くん」


ごゆっくりどうぞ、と言ってその場を去ろうとした彼を呼んで、引き留める。わたしから話かけたのは、記憶にある限り今が初めてだ。
関くんは数回目を瞬かせるも、表情を変えずに「なに?」と返事をした。途端に脈拍があがる。


「関くんと同い年くらいの店員さん……いたと思うんだけど、さ」
「あー……男?」
「うん、そう。えっと……その人、最近、いないよね」



本当はちゃんと覚えているくせに、「たしかニシナって名前の」と、他人感を強く出して保険をかける。


わたしは緊張していた。
学校じゃいつもひとりで行動しているわたしのような人が、スタッフが辞めたかどうかを気にしているのは変なことなのかもしれない。

それでも、答えてほしかった。知りたかった。突然「にしなくん」が出勤しなくなったのはどうしてなのか、一方的に知る権利があるとわたしは驕っていたのだった。


「あ、いや、他意はないの。ただ、いつもいたのになって思って……」
「それ、俺らもわかんねえんだよな」
「え?」


関くんからの返答は意外、かつ、わたしが想像していたようなものではなかった。


「仁科が本当に辞めたのかどうかもわかんねーの。生きてるか死んでるかも」
「は……」
「〝消えた〟って言い方がいちばん正しいのかもな」



「にしなくん」は消えたらしい。

辞めたかどうかも、生きているかどうかも定かではなく、名前だけがまだ在籍になっているそうだ。「そのうちクビ扱いになるんじゃね」と関くんが吐き捨てる。


やめたかもしれない。しんだかもしれない。にしなくんは、いなくなってしまった。



脳が詰まり、言葉がうまく出てこない。

だってじゃあ、古乃(わたし)はどうしたらいいの。「にしなくん」がいなくなったら、古乃で載せる写真がなくなってしまう。

当然、「消えた」なんて言っても誰も信じてくれない。別れたことにしたとして、励まされるのも可哀想って思われるのもいやだ。


「あー……へえ。そうなんだ」
「……古橋、あのさ」
「なんか関くんたちも大変だね。ここいつもバイト募集してるし。人手足りなそう」
「え? あー、まあそれは」



他人事のようにそう言ってみせたけれど、本当は不安と焦燥感が押し寄せて、心臓がざわざわして落ち着かなかった。


どうしようどうしようどうしよう、だめだ、このままじゃわたしは。

わたしがわたしであるために「にしなくん」は必要不可欠だったのに、いなくなってしまったら、同時にわたしも〝普通〟じゃいられなくなってしまう。



勝手なことしないでと怒りたかった。けれどそれとわたしの勝手な怒りであることもわかっていた。


わたしと「にしなくん」は他人だ。自分が勝ってにつくった他人の存在に、わたしはこんなにも振り回されている。


わたしの〝普通〟は、こんなにも簡単に壊れちゃうんだ。



「仕事の邪魔しちゃってごめん。教えてくれてありがとう、頑張って」
「え、ああ……うん」



関くんに一方的にそう言って、それからわたしは、珈琲を半分飲んで店を出た。



? @furuno**chan 今
 なんか消えたい



アイコンを真っ白に変えて、名前も「?」に変えた。

よくある病み垢みたいでばかばかしい。そう思う反面、そうしたくなる気持ちが痛いくらいわかって虚しかった。


知らない誰かがいなくなったくらいで壊れてしまうほど脆い存在だってことくらい、ちゃんとわかっていたはずなのに。

こんな時でも、わたしはこの場所に縋ってしまう。むしろこんな時こそ、縋りたくなる。それが余計にわたしを虚しくさせるのだった。


どうしてこんな生き方しかできないんだろう。
長い間拠り所にしてきた古乃という人格が、途端にしょうもないものに思えて苦しかった。