どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい───こんな自分のことが大嫌いだ。
毎日のように足を運ぶ教室は、まるで箱の中。そんな小さな世界に、私は閉じ込められている。学校へ行くまでの足取りが重いことも、クラスのみんなが黒いモヤのように見えることも、誰にも言えずに口を噤んで日々を過ごしている。
心のどこかで隠れんぼを続けていた「消えてしまいたい」という気持ちが鬼に見つかったのか、ひょっこりと出てきてしまうほどに、目の前が真っ黒に染まっていた。
(もう、死んでしまおうかな)
十月、秋の香りを運ぶ世界が黄昏色の空へとページをめくる頃にそう思ったのは、必然だったのかもしれない。
気が付いたら、三階の窓枠に立っている自分がいた。下を見つめて足が震えていることになんて気付いていないフリをして、一歩踏み出そうとしたそのときだった。
「緒方さん」
突然、右腕を誰かに掴まれた。
「……先生」
振り向くと、そこにいたのは私のクラスの副担任かつ英語教師である水瀬先生だった。
「ここにいるのは危ない。一旦こっちへおいで?」
状況を理解しようにも出来なくて、私は口を縫われたように開けなくなった。
だけど、数分たって冷静さを取り戻した私は大人しく先生の元へと身を委ねた。
それが、全ての始まりだった───。



自分自身の苦しみを半減するために人に話すこと。それは、相手に自分の辛さを背負わせることにも繋がると、言われたことがある。
「だから、緒方さん。悩みを相談出来ることはとても良いことではあるんだけど、あまり人に背負わせたら駄目だよ」
一言一句忘れずに脳裏に焼き付いているその言葉は、今この瞬間も、私に黙ることを覚えさせている。
「話せるタイミングがくるまで待つから、ゆっくりでいいよ」
印刷室の裏で、私は水瀬先生と同じ空気を吸っていた。
​──水瀬先生。初めは無機質な人であると思っていたが、接してみると心の奥底に秘めた優しさを少しずつ表面に現して、今や女子生徒に人気の先生の一人だ。背が高くて私服がお洒落で、授業もわかりやすい。そんな先生とは、今まで関わることなんて、ほとんどなかった。
「……」
いつまで経っても一向に喋ろうとしない私を前にしても、苛立つことなんてなく、ただ待ってくれている。こんな私にも優しさを向けてくれていることが嬉しい半面、罪悪感でいっぱいになる。
「……先生は、どうして今日、あそこに居たんですか」
なにか喋らなきゃ。そんな焦りが、私の口に言葉を紡がせる。
「……緒方さんにはさ、GPSをつけてるんだよね」
「は」
「冗談だよ」
先生が声を上げて笑うところを、初めて見たかもしれない。あまりにも突然で、だけど私の緊張も解れて。
「……先生にこれ以上迷惑かけたくないので、帰ってもいいですか」
「なんで迷惑なんて思うの?」
「……人に、言われたことがあります」
私の言葉に、先生が目を見開いた。
「相談をするのは、迷惑だって。人に辛い思いをわけて、背負わせることになるって」
自分でも、だんだんと声が小さくなるのに気付く。それと同時に、両手が温もりに包まれた。
「思わないよ」
見上げると、真剣な表情で先生が私を真っ直ぐに見つめている。そんなことよりも、先生に両手を握られていることに理解が追いつかなくて、瞬きを繰り返してしまう。
「迷惑なんて、思わない。それよりも、緒方さんに一人で抱え込まないでほしい」
「……なんで、ですか」
消え入りそうな声だった。それでも、先生の鼓膜を震わした私の声は、まだまだ空気に溶け込みたいという要求を唇に伝える。
「だって、私には何もない……。なんにもできない人間で、人に迷惑かけてばかりで、先生ともそんなに話したことないのに、どうして」
言葉と同時に涙も溢れて、目の前の景色が透明で満たされる。ただ、先生が私の手を強く握ってくれていることだけ認識できた。
「みんな、緒方さんのことが大事だよ。まだ何も聞いてないし、どれだけ辛いのかもわからないけど、貴方は人に優しくできる。そんな貴方が周りから愛されていることは、紛れもない事実なんだよ」
私の体内にある六十パーセントの水分が、今ここで全て溢れ出た、なんて言ったら大袈裟だろうけど、それくらい先生の言葉が私の胸を震わした。



夢の中で生きていたのか、と思えるくらいにキャンパスに彩られている色は淡くて、透明に近い。だけどこの手の温もりが、夢ではなくて現実であったことを証明してくれているようだった。
八時二十五分に通過しなければならない正門を、八時二十三分に通過する。
と同時に、水瀬先生がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
どうしてこんなところにいるんだろう?なんて疑問が浮かぶ前に、先生が言葉の譜面を紡いでいく。
「迎えにきたよ」
「え、?」
「靴がなかったから」
それは、一体どういうことなんだろう。私は今日、ただ腹痛と闘っていたために遅刻ギリギリになってしまっただけだ。だけどもしかしたら昨日のことがあったから先生は今日、私が学校に来ないと思ったのだろうか。
「……王子様みたい」
気が付いたら、幼稚園児が思い付くような感想を口に出していた。
「え、何が?」
あ、迎えに来たのが?なんて言いながら、声を出して笑う先生を横に、頭をぐるぐると巡っていた疑問たちが一瞬で消え去ったのは。
「珍しく寝癖がついてる」
そう言って私の後ろ髪に触れた先生に、負けたから。触れられた髪を自分でも必要以上に撫でて、平常心を保とうとする私を横に、先生が思い出したように呟く。
「約束、守ってくれてありがとう」
「……約束?」
「昨日、またねって言ったでしょ」
昨日、落ち着いた私を門まで送ってくれた先生に対して、私が「さよなら」を口にして背中を向けると、行く手を阻まれた。
「またね、にしよう?」
「……さよなら」
「駄目。またねって言うだけ言って?」
そういえば、goodbyeとsee youにも違いがあるとこの前の授業で習ったな、なんて思いながらも、私は二回目でやっと先生に素直に従った。
「またね」
「うん、また明日」
先生が別れの挨拶を「さよなら」ではなく、「またね」にこだわる人であることに気付くのは、もう少し後のこと。

教室への足取りがいつもより少しだけ軽いことには、階段に登っている最中に気が付いた。
「教室、一人で入れる?」
「……」
私は一瞬だけ考えて、無言で頷いた。
「透羽!」
今日も小さな箱の中へと身を放置すれば、黒いモヤの大衆が、私の周りに集う。箱ではなくて、息苦しい水槽かもしれない。
「どうしたの?心配してたよ」
「あー、お腹痛かったんだよねぇ」
私の頭の中に記憶している表情のレパートリーの中で、「困ったような笑顔」と記録されているものを顔のに貼り付ける。
「そうなの?大丈夫?」
「うん!全然大丈夫だよ」
「あ、透羽!来てすぐで申し訳ないんだけどさ、数学の宿題見せてくれない?」
その瞬間、私の頭の中にある台詞の選択肢が何者かによって支配されたかのように選ばれる。
「いいよ!間違ってるところあるかもしれないけど」
勿論、表情のレパートリーの選択も上手く揃えられている。私の中で、心のモヤがどんどん大きくなる。
「ありがとう!毎回ごめんね」
そう言ってプリントを持っていく黒い影を見つめる気にもなれなくて、ただ一人席に座る。
(毎回ごめんねって、何?そう思ってるなら、自分ですればいいのに)
我に返ったのは、クラスの男子の笑い声が大きかったからだ。
数学のプリントが今日提出であることはクラスのほとんどのみんなが知っているはずだ。それなのに、ギリギリまで自力で解こうとしないで人の力を借りることしか出来ない奴らが、私のプリントを写して、同じ時間に提出して、同じ評価を貰えることがどうしても許せなかった。
だけど、こんな考えしか出来なくて心が狭い私のことが、一番許せなかった。
物心ついたときから、まるで私はゲームの中の登場人物になったかのように、表情と台詞を何者かに操られている。勿論、自分の気持ちとは全くもって反対の選択肢を選ばれることが多い。
きっと私を操っているプレイヤーは、周りの人からの好感度を上げるための選択をしているのだ。私にはどうすることもできない。
初めは、頼られていることが嬉しいと感じた。
みんなが部活や塾、習い事など様々な活動に夢中になり始めた中学一年生、帰宅部で勉強にも身が入らない私に取り柄なんてないと感じ始めていたとき、友達から頼み事をされたのは、小説の第一章の初頭だ。
「透羽ちゃん、英語のノート見せてくれないかな?」
そのときはまだ、私を操るプレイヤーなんて存在してなくて、自分の気持ちを確かめてから返事をしていた。
だけど、時が進むにつれてエスカレートしていくようになった。勉強に身を入れ始めた中学二年生では、かなり大人数から授業用ノートやら宿題のプリントやらを見せてほしいと頼まれた。
鱗のように嘘の表情が貼り付けられていくようになったのは、それ以来。
私は最後の最後まで諦めたくなくて、自分の中にある「ごめん、できない」という台詞の選択肢を連打するも、プレイヤーの速さに勝ることはなく、表情まで支配されるようになっていった。
そして、毎度のように質問される言葉があった。
「透羽ちゃんは、どうしてそんなに優しいの?」
え、なんて乾いた母音が漏れてもプレイヤーは頭の回転が速すぎる。私は選択された台詞を、ロボットのようにただ喋るだけ。
「そんなことないよ、全然優しくなんかない」
私の気持ちである選択肢の台詞は、「本当は我慢しているだけで、全然優しくなんかない」だった。だけどこれは、プレイヤーの選択が正しかったと思う。自分の気持ちをのせた言葉を空気に放り込んでいたとしたら、きっと私はクラスのみんなから軽蔑される存在になっていただろう。
(よかった。私は間違えていない)
そう思い込もうとした矢先に脳裏を掠ったのは、私が今までずっと抱えてきた大きな疑問だった。
(どうして、私はみんなに嫌われないように必死なんだろう?)



「透羽!ありがとうプリント助かった!」
「全然いいよ!」
「あ、そうそう、山野もプリント見たいって言ってたからちょっとだけ貸した、ごめん」
「そうなんだ。いいよ」
あ、だめだ。私が私を殺してしまう。
そう思ったときには、もう遅かった。私は今にも爆発しそうな感情を抑えるために、廊下に出た。
「あ」
声がした、かと思えば水瀬先生がいた。
休み時間はあと少しで終わって次の授業が始まるのに、どうして先生はこんなところにいるんだろう。そんな疑問を口にしようか迷ったときに、先生が先に口を開いた。
「なんかあった?」
「え」
「顔色が良くない」
それはチャイムの音で掻き消されつつも、私が授業をサボる口実へと繋がった。

「あのさ、手伝ってほしい」
私が保健室で日向ぼっこをしていたら、職員室から帰ってきた先生が声をかけてきた。
「折り紙を折ってほしいんだよね」
「……何も、折れません」
「うそ」
「ほんとです」
「鶴も?」
「鶴もです」
まじか……なんて頭を本気で抱える先生がなんだか可笑しくて、笑ってしまう。
「じゃあさ、教えるから一緒に折ってよ」
えー、面倒くさいなあ。やだ。なんて言葉を発している自分がいることに、このときの私はまだ気付いていない。
「折ってよ、はい」
仕方ないなぁ、なんて言いつつも先生に教わりながら折る鶴は、なんだかグシャクジャの仕上がりで、先生に何度も貶された。
「下手くそだね」
「うるさいです」
「ごめんって」
そこで初めて、プレイヤーによる表情や台詞の選択がされていないことに気が付く。
「先生、私笑えてますか……?」
「うん。ちゃんと笑えてるよ」
「……自分が、操り人形みたいで嫌なんです」
「うん」
その一言は、今まで私の鼓膜を震わした数々の言葉の中で一番声色にやさしさが溢れていた。
「人から頼み事をされて、本当は嫌なのに断れないんです。断ろうと思っても、先にいいよって言葉が口から出るんです」
「断るのって、勇気がいるよね」
「はい」
「先生もどちらかと言うと断るの苦手だな。断ったことによって、その人との関係が崩れるかもって考えたらすごく怯む」
「……はい」
「言い方を変えればきっと、周りから信頼されている、頼られているってことなんだろうけど、それでも自分を押し殺してまで気持ちとは裏腹の行動をするのは、辛いよね」
自分でも、わかっている。
だけど、なにかが突っかかって自分の気持ちを言葉として表せない。食道を通り抜けることができない言葉たちは、私の胃で大きな塊となって、腹痛へと変化しているよう。
「自分でも、よくわかりません。どうしてこんなにもみんなから嫌われたくないのか。……ただ、一つだけ言えるのは、教室にいるのが息苦しいです」
「じゃあ、一つ提案なんだけど」
先生は、私の膝に折り紙の鶴をのせる。
「先生と練習しようよ。自分の気持ちを伝える練習」
「……どういうことですか?」
「先生の前では、素直な緒方さんでいるってこと」
そう言って、先生は私が折った鶴を奪う。
「……わかりました」
指切りが、私を現実に引き戻した。
先生の左手の薬指に光る銀色のそれは、先生が幸せであり、大切な人を想っていることの開示であるよう。



人は一度でも満たされてしまえば、二度目以降は一度目を超えることなんてない、と科学的に証明されていたことを思い出す。
もう、ただ挨拶を交わすだけの生徒じゃいられない。無理矢理作った質問を昼休みに聞きに行くだけの生徒じゃいられない。
「緒方さん、クラスで一位だったよ」
「え」
テストが返却されて余韻に浸るクラスメイトを横に、先生がこっそりと教えてくれたのは、衝撃的な事実だった。中一、中二の頃は一番の苦手科目として目を配っていた英語が、三年生になってから不自然な右肩上がりの棒グラフへと変化していた。
先生がこちらを見つめていることに気付くも、私は頭を下げて自分の席に戻った。
あれから、私はまだ先生に素直な気持ちを伝える練習をしていなかった。
先生が既婚者であることを思い出した頃には、もう遅かった。紫のライラックが花を咲かせてしまっていた。
私は先生を好きにならないように必死で、先生は私を生徒の一人として接するのが当たり前で、その差をどうしても埋めたくて背伸びする自分がいた。
「え!透羽、九十六点!?」
大きな声で、私の点数をさらすクラスメイト。
「え、すご」
「まあ透羽ちゃんだもんね」
「良いなぁ、頭良いって」
大衆の言葉のどれもが、私とみんなを引き離すような言い方で、こういうときだけどんな言葉で返せばいいかわからない。
今日もまた、自分を隠して生きていた。
最近、自分の本心が選択肢に反映されなくなってきた。私の本心が消えたことによって、プレイヤーの選択なんて必要ない。
私は自分を見失ってもなお、壊れた心に気付かずに口角を上げ続ける。
そんな私が、我慢できなくなったのは、翌週の月曜日の一時間目だった。
その日は、お母さんと朝から喧嘩をしたことから英語の授業なんて頭にひとつも入ってこなかった。
そして、無意識のうちに視界がぼやけて、気付いたときには授業用プリントが濡れていた。一番前の席であったことから、水瀬先生も流石に気付いて、私を保健室へと連れて行く。
「せんせい、」
「うん?」
「話を聞いてほしいです」
「うん。なんでも聞く」
それはもしかしたら、私が初めて自分の気持ちを素直に表した瞬間だったかもしれない。

「わからないんです」
話し始めには、いつも困る。話したいことは山ほどあるはずなのに、上手くまとめられなくて結局いつも順序がバラバラになってしまう。
「自分の感情が、もうなくなってしまったのかもしれないです」
「……うん、ずっと心配だったよ。あのとき指切りしたのに、一向に自分の気持ち言おうとしないから」
それは、私の小さな嫉妬が先生に反抗心を生み出しただけだ。
「でも、今日嬉しかったよ。緒方さんから話したいって言ってくれて。……最近、話せてなかったから」
その反抗心は、先生を避けることにも繋がっていた。あの日以来、先生から声をかけられそうになったときは、上手くすり抜けてやり過ごしてきた。
「……死にたいです」
隠れんぼで既に見つかってしまったこの気持ちだけが唯一、私の本心なのだ。
「じゃあどうして、先生に話してくれるの?」
「……え?」
「言い方は悪いけど、先生に何も言わずに、そのまま……飛び降りることもできるわけじゃん。なのにどうして、先生にわざわざ話してくれるの?」
そんなこと、初めて言われた。頭の中が真っ白で、このときはプレイヤーも存在しない。
「……わからない」
「……うん」
「わからないんです」
そう言って俯く私の両手を、前と同じように先生が握る。
「私だって、本当は死にたくない。でも、生きていることが辛い。嫌われないように必死で、自分を押し殺したまま生きていくのは苦しい」
本心をさらけ出すのがどうしてこんなにも難しいのか、わからない。
ただ、プレイヤーはある意味私を守る存在であることが分かりきっているからこそ、手放せなくて辛い。
「本当はこんなこと言いたくないけど、緒方さんには自分のために生きてほしい。勿論、人と関わって、繋がりを得て幸せを感じることは大切なことだけど、それ以上に自分を大切にしてほしい」
塩辛い水滴が頬を伝う。水瀬先生の言葉のひとつひとつに、永遠のやさしさと温かさが約束されている。
「これから受験も人間関係も絡まって大変な時期になるけど、先生が傍で支えるから。だから、一緒に頑張ろう?」
声を出せずに大きく頷く。
「これからは、なんかあったらすぐに先生に言ってね」
私を灰色の色水に溺れさせた先生のおかげで、涙を誤魔化せる。曖昧なこの関係に名前を付けるとしたら、「片想い」でも「結ばれない恋」でもなく、「愛及屋烏」と言えるほどに、このときの私はもう既に、先生のことを大好きになってしまっていた。
「……はい」
「仕事よりも緒方さんの方が大事だから」
そんな甘い台詞に洗脳されるほど、十五歳の私の心は脆くて、一瞬にして崩れ落ちた。



『最近は、一日に少しの幸せを見つけながら生きてみようかなって思ってます。鶴を綺麗に折れたり、お風呂上がったあとに本を読めたり。一日一日を生きていくことで精一杯だけど、なんとかやっていってます』

『日常の小さな幸せを感じられるのはとても良いことだし、貴重なこと。先生はあまりそれを感じる余裕がなくて、日々に追われている感じだけど、今自分を見つめることが出来るこの時間を大切にしてね』

『今日めちゃくちゃ寒かったですね!もう十二月なのか、早いなあ。またクリームパンダの空見つけられたらいいですね。先生も体調にはお気を付けて』

『最近ほんとに寒い。授業やってると温かくなるんだよね。だから、寒がっている先生を見たら今日授業少ないんだろうなってわかるよ。昨日は食パンマンを見たよ。あ、雲の形ね』

先生からの提案で、私たちは言葉を綴っていた。小さなノートを毎日手渡して、交換日記をしていた。特に誰にも言うことなく二人だけの秘密……とまではいかないが、そのやりとりが私にとって幸せでかけがえのないものへとなっていた。
受験を目の前にして、かなり緊張感を出しているクラスメイトや、それでも平気な顔でいつも通り過ごしているクラスメイトとに分かれている。私はどちらかと言うと前者だが、先生との交換日記が毎日学校へ来て、勉強して、友達と話して、という普通の生活に繋げてくれていた。
「透羽、お願いがあって!地理のレポート参考にしたいから見せてほしい」
そのような要求に、一呼吸おいて返事をする。
「ごめん、まだ完成してないから他の人から見せてもらって」
「そっか、わかった」
プレイヤーによる高速選択をなくすべく、私は口を噤んで人と接するようになった。
勿論、多少の罪悪感は残るが、それでも自分を押し殺して生きていたあのときよりもかなり楽に生きている。
みんなに嫌われたくないのと同時に、自分のことも嫌いたくないという思いがあった。
今、こうやって断ることを覚えた私は、もしかすると周りの人から嫌われていくのかもしれない。だけどその代わりに、私は自分のことを嫌いではなくなった。自分の意見を伝えられることがどんなに幸せで、大切なことなのかを、水瀬先生が教えてくれたから。
十二月も半ば、三者面談も終わった頃だった。突然、水瀬先生から話しかけられたのは。
「緒方さん、今日の昼休み話さない?」
「……」
どのような意図で、こうなったのかはわからない。ただ、先生から話をしたいと言われたのは初めてで、だから私は無言のまま頷いた。

いつの日だったか、初めて話したときと同じ印刷室の裏で、私たちは向き合う。
「……ほんとに申し訳ないんだけど、話したかった内容忘れた」
「え」
あまりにも身構えていたために、先生からの言葉を聞いて肩の力がぬけた。
「全然いいですよ」
思わず笑ってしまう。
「なんか他の内容話してたら思い出すかな……。水族館にはよく行くの?」
「いや、行かないですね」
「じゃあなんで海月が好きなの?何処で見るん?」
この間、日記で海月の話をしたばかりだった。
「うーん……形に残らないものが、苦手なんですよね」
「どういうこと?」
「あ、でも写真撮ったら残るか……」
「あ、わざわざお金払って行くなら、それと対等な何かを得たいってこと?」
「はい」
デジタル化が進む世界で、Googleマップの読み方も、セルフレジの使い方もわからない世界に取り残されている私だが、大切なものを形に残すべく、アナログ人間として生きていたいだけなのだ。メールで会話を交わすのではなく、手紙あるいは交換日記で。それは、連絡先を交換しあっていない私と先生にぴったりのものだった。
「最近は、人間関係はどう?」
「……なんだかみんな、受験前でピリピリしてますよね。流石に課題も自分の手で片付けることを覚えたのかな。私に頼み事をしてくる人たち、だいぶ減りましたよ。でもこの前、初めてちゃんと自分の言葉で断りました」
「そっか。それはよかった。でもさ、高校生になってからも……緒方さんは優秀だから、同じような経験をするかもしれない。そのときも断る選択肢をきちんと頭の中に入れておかなきゃいけないね」
「……」
高校生、その響きを不用意に頭の中でリピートしていた。
卒業してしまえば、高校生になってしまえば、先生に会えなくなる。その事実に目を伏せてきたが、向き合わなきゃいけないときがいずれ来る。
「……いいです。一人でいる方が、楽なので。ずっと一人でいます」
先生が居ない世界で私は生きていけるんだろうか。その不安が、大きくなっていく。
「一人でいるのが楽なら、どうして今日先生と話をしに来てくれたの?」
「……え?」
「いや、一人でいる方が楽なら、なんで先生の誘いにのってくれたんやろうって思って」
そんなの、理由はひとつしかない。
先生のことが、好きだから。
だけど、そんな告白をするつもりなんて最初からなくて。
「なんでだと思いますか」
「え……なんでだろう。なんで?」
今日だけは、背伸びしきれない私が、無理矢理背伸びすることを許してほしい。
「……どんな理由だったら嬉しいですか?」
「どんな理由……安心するから、とか?」
「それでいいです」
「安心する、ね……」
なんだか納得がいかいっていないような先生の表情に、さらに意地悪をしたくなる。
「でも、事実ですよ」
「え、ほんと?」
「はい」
私の言葉にそっぽを向いた先生の耳が、真っ赤に染まっていることを知っているのは、ただ一人私だけ。
「なんで安心するの?」
「先生、今日質問多いですね。……なんか、あるんですか?」
「いや、気になっただけ」
「なんで、かあ……。手を握ってくれるところとか?」
「あー……先生が緒方さんの手を握るのは実はちょっとアウトなんやけど……言ってくれたらいつでも握るよ」
そう言って、先生が手を差し出すから、私たちは手を繋ぐ。先生の大きくて温かい手と、対照的な私のひんやりとした小さな手。心地よくて、一生離したくなんかない。
「……ねえ、もう一回聞いてもいい?」
「なんですか?」
「なんで、今日話をしに来てくれたの?」
「えー……さっきの理由じゃダメですか?」
「ダメってわけじゃないけど……」
今日の先生は、いつもと違う。何があったのかはよくわからないけど、それでもなんだか二人とも、いつもに増して素直だな、と思う。
「……先生のこと、だいすきです」
平仮名でゆっくりと空気に溶け込んだこの言葉は、私の頭に火照ることを覚えさせた。
「ありがとう、その言葉を聞きたかった」
世界の全てを壊すべく生まれたその言葉が、一生頭の片隅から離れない。



別れの挨拶を「またね」にこだわる先生が今日、「さよなら」で私との思い出に終止符を打つ。
十五歳の私と、二十五歳の先生を繋いでくれたこの学校とも、今日でお別れだ。
上靴に履き替えるために、靴箱に手を突っ込むのと同時に、固いなにかが手に触れる。私の心臓が大きく跳ね上がる。
「手渡しできなかった、ごめんね」
今日で最後の、交換日記。ただ一言、付箋に綴られた文字がノートの表紙に貼り付けられていた。私の大好きな先生の字、先生の声、そして先生の言葉。そのすべてが、私の脳裏に映し出される。まるで映画のエンドロールのように、画面に現れては消えての繰り返し。
全ての始まりがあの黄昏時の窓枠ならば、私はあのときの自分自身の中で見つけ出された感情に、感謝してしまうと思う。
だって、あのときの感情を無視して自分を押し殺していたら、水瀬先生に会えなかったから。
私は自分の気持ちに素直になることで、人生で大切だと思える人に出会えた。
幸せだった。
気が付けば、先生に会えることが幸せで、学校に行くことが楽しみで仕方ない自分がいた。
そんな先生に最後、どうしても伝えたいことがある。
私は日記を開くこともせずに、先生を探しすために飛び出した。

「先生!」
初めて出会った場所。と言ったら嘘になるけど、三階の窓を開けていた先生に出会う。
「おはよう」
「おはようございます」
見慣れないスーツを着こなす先生のネクタイがとても綺麗で、暖色の家庭を想像させられる。
「先生」
言葉にできないほどの溢れる想いを伝えるには、どうしたらいいんだろうと悩んだ私が、最後に先生に言いたいのは。
「大好きでした」
「……うん」
「私、先生に出会えて幸せでした」
続く言葉はプリン・ア・ラ・モードの主役を飾るさくらんぼ。花言葉を解く。
「先生と出会って、自分に素直になって、私、先生のおかげで自分のこと好きになれました」
「だいぶ素直になったね、ほんとに」
「だから、何回ありがとうを言っても言い足りないけど……本当に、ありがとうございました」
「こちらこそありがとう」
それが、正真正銘最後の言葉だった。
涙が溢れた私を置いて、先生が階段を降りていく。生きる意味を見い出せずに、自分の気持ちに嘘をついて生きていた私が、人生で初めて、出会えるだけで幸せを感じられると思った人。自分よりも、誰よりも幸せになってほしいと思った人。言葉のひとつひとつにやさしさが溢れていた人。私の大好きな人。
そんな先生に、最後の最後までひとつ、嘘をついた。だけどこの嘘が、これからの私を形作る大切なものへとなるはず。
今日で最後の学校、友達、先生。
「ありがとう」と「大好き」をたくさん伝えよう。嘘じゃない、私の本心を伝えよう。
箱の中に閉じ込められ、窮屈に感じていた私でも、自分の気持ちを大切にして素直に生きていれば、人とわかり合える。
きっと大丈夫だ。今日も、前を向いて歩いていこう。雲ひとつない青空を見上げると、少しだけ息がしやすくなった気がした。