稽古は特段、厳しいということはなかった。ただ、不可思議だった。
綾子は与えられた杖を提げて、立っていることを課された。一日の稽古は三時間。
権之助の道場に通い始めてから五日間は、ただ立っていた。
初めは十分も立っているとフラフラと体が揺れていたのだが、三日経つと体のどこに力を入れ、どこの力を抜けばよいのかわかるようになった。杖の重心を捉えた持ち方が分かったのが五日目。翌日から、型の稽古が始まった。
綾子の成長は早かった。十二本ある『表』と呼ばれる型を覚えるのに三日間。打ち合いで型どおりに動けるようになるのに二日間。
『表』の次、上級の型『中段』十二本を覚えるのに、また三日。通常であれば十二本を覚えるのに二週間じっくりと時間をかけるのだと道場の先輩たちは呆れていたが、権之助は綾子の好きなようにさせていた。
『中段』の打ち合いをすべて調えた綾子は、『影』と呼ばれる次の段階に進みたいと権之助に申し出た。
「太刀を構えよ」
言われた通りに木刀を腰に佩き、右手を柄にかけた。権之助が『表』十二本のうち、一本目「着杖」の構えをとる。太刀が切りかかっていくのを打ち払い、小手を取る技だ。
綾子は八相の構えから太刀を振り下ろす。
権之助の姿がすっと遠のいた。足を動かした様にも見えなかった。
下ろした太刀を上げようとすると、いつの間にか小手に杖先が乗り、手は上げようにも下げようにも、びくとも動かなかった。
権之助が杖を引き、構えを解くと、綾子の背にどっと汗が沸いた。今頃になって、恐怖が襲って来たのだ。自分の力ではどうにも出来ない強大な力。流れ来て流れ去る、津波のような力だった。
権之助が二本目「水月」の構えを取る。額に打ち込んでくる太刀をかわし、水月、つまり鳩尾に突きを入れるものだ。
権之助が杖を本手に構える。綾子は正眼に太刀を構え、上段から一気に打ち込む。権之助は斜め前に進み太刀を避ける。今度もまた、権之助が足を動かしたようには見えず、ただ滑ったように感じられた。
権之助の杖が綾子の鳩尾をピタリと捉え、ゆっくり、そっと押した。綾子は突風に吹き飛ばされたかのような衝撃を覚えた。たたらを踏み、一間も下がった。その一間を、権之助は一足で詰め、肩先から静かに杖を下ろしていき、綾子の太刀に軽く触れた。太刀が綾子の手から跳ね飛ばされる。
権之助の杖尻が綾子の眼前に突き出された。動けない。瞬きも出来なかった。
杖がすうっと引かれ、権之助が構えを解くと、綾子は空気を求めて喘いだ。呼吸すら止められていたのだ。
綾子は荒い息のまま礼をして、太刀をおさめた。
それからの数ヶ月、権之助の杖が描いた軌跡を、綾子はしっかりと眼前に思い出し、何度も反芻した。
綾子の手の豆は幾度も破れ、手のひらの皮は分厚くなっていった。
綾子は与えられた杖を提げて、立っていることを課された。一日の稽古は三時間。
権之助の道場に通い始めてから五日間は、ただ立っていた。
初めは十分も立っているとフラフラと体が揺れていたのだが、三日経つと体のどこに力を入れ、どこの力を抜けばよいのかわかるようになった。杖の重心を捉えた持ち方が分かったのが五日目。翌日から、型の稽古が始まった。
綾子の成長は早かった。十二本ある『表』と呼ばれる型を覚えるのに三日間。打ち合いで型どおりに動けるようになるのに二日間。
『表』の次、上級の型『中段』十二本を覚えるのに、また三日。通常であれば十二本を覚えるのに二週間じっくりと時間をかけるのだと道場の先輩たちは呆れていたが、権之助は綾子の好きなようにさせていた。
『中段』の打ち合いをすべて調えた綾子は、『影』と呼ばれる次の段階に進みたいと権之助に申し出た。
「太刀を構えよ」
言われた通りに木刀を腰に佩き、右手を柄にかけた。権之助が『表』十二本のうち、一本目「着杖」の構えをとる。太刀が切りかかっていくのを打ち払い、小手を取る技だ。
綾子は八相の構えから太刀を振り下ろす。
権之助の姿がすっと遠のいた。足を動かした様にも見えなかった。
下ろした太刀を上げようとすると、いつの間にか小手に杖先が乗り、手は上げようにも下げようにも、びくとも動かなかった。
権之助が杖を引き、構えを解くと、綾子の背にどっと汗が沸いた。今頃になって、恐怖が襲って来たのだ。自分の力ではどうにも出来ない強大な力。流れ来て流れ去る、津波のような力だった。
権之助が二本目「水月」の構えを取る。額に打ち込んでくる太刀をかわし、水月、つまり鳩尾に突きを入れるものだ。
権之助が杖を本手に構える。綾子は正眼に太刀を構え、上段から一気に打ち込む。権之助は斜め前に進み太刀を避ける。今度もまた、権之助が足を動かしたようには見えず、ただ滑ったように感じられた。
権之助の杖が綾子の鳩尾をピタリと捉え、ゆっくり、そっと押した。綾子は突風に吹き飛ばされたかのような衝撃を覚えた。たたらを踏み、一間も下がった。その一間を、権之助は一足で詰め、肩先から静かに杖を下ろしていき、綾子の太刀に軽く触れた。太刀が綾子の手から跳ね飛ばされる。
権之助の杖尻が綾子の眼前に突き出された。動けない。瞬きも出来なかった。
杖がすうっと引かれ、権之助が構えを解くと、綾子は空気を求めて喘いだ。呼吸すら止められていたのだ。
綾子は荒い息のまま礼をして、太刀をおさめた。
それからの数ヶ月、権之助の杖が描いた軌跡を、綾子はしっかりと眼前に思い出し、何度も反芻した。
綾子の手の豆は幾度も破れ、手のひらの皮は分厚くなっていった。