董子がレトロな雰囲気の宵風通りを川沿いに向かって抜け出ると、カバンの中でスマホが鳴った。父からの電話だ。
「もしもし、お父さん?」
「ああ、董子。来週のお母さんの一周忌のことで電話したんだが、今大丈夫か?」
「うん」
父の声を聞くのは、何ヶ月かぶりだ。
母を亡くしてからひとりで暮らしている父のことは気になるが、董子は法事のとき以外で実家に帰っていない。
「欠席予定だった永見のおじさんとおばさんも来られることになったから、頼んでいた仕出しを追加しようと思って――」
来週の日曜日は、母の一周忌の法事がある。
父の話を聞きながら、董子はいつのまにか随分と西へと移動している八日月をぼんやりと見上げた。
母が亡くなってから、父は董子に必要最低限の連絡しかしてこなくなった。
母がいたときは、家族でグループを作っていたラインにときどき父からの近況報告が届いていたが、最近はそれもない。董子からも、事務的なことしか連絡しない。
おそらく父には、自分の至らなさのせいで母が死んでしまったという董子に対する後ろめたさがあるのだろう。
母が亡くなった日に家に帰らなかった董子にしてみてもそれは同じで。母がいることでうまく成り立っていた父と董子の親子関係は、ほんの少しぎくしゃくとしていた。
けれど、今の関係を続けていけば、董子は父を亡くしたときにまた後悔するのかもしれない。
「お父さん、来週は金曜日の夜から帰るよ」
董子が言うと、父が一拍ほど置いてから、「仕事は大丈夫なのか?」と問いかけてきた。
母がいなくなってから、董子が泊まりで実家に帰ったことはない。だから、父も驚いたのだろう。
「うん、今の仕事は基本的に定時であがれるからね」
ははっと何の気なしに笑うと、電話の向こうで父が無言になる。
「無理はしないでいいからな」
しばらく待っていると、父の少ししわがれた低い声が返ってきた。
「無理じゃないよ」
そういえば、母が亡くなる数日前にも、似たような会話をしたような気がする。
『無理はしないでね』
そんな母の言葉に、董子はどれほど甘やかされてきたのだろう。
でも、人の優しい言葉に流されて甘えているばかりではだめなのだ。
董子の意志で董子の行動を変えなければ。母が亡くした父と董子の関係も。今の職場での現状も。
「そういえばね、お父さん。今住んでいる家の近くに、お母さんが作るのとそっくりそのままの肉じゃがと豚汁を出してくれる店を見つけたんだ」
菫色の瞳をした店主の美しい顔と、ひさしぶりに食べたなつかしい母の味を思い出しながら董子が言うと、父が「え?」と少しオーバーに反応した。
「皮を剥いただけのじゃがいもをそのまま鍋に突っ込んで煮込むような、そんなおおざっぱな料理を出す店なんてないだろう」
電話の向こうから聞こえる父の呆れたような笑い声に、董子の胸がきゅっと詰まる。
母が亡くなってから、どんな形にしろ、父が笑う声を聞いたのは初めてかもしれない。
「それがあるんだよ。作務衣の店主が、ものすごくイケメンでね。白紙のメニューの前で目をつむって注文したら、何でも作ってくれるの。ただ、『お客様の思い出の味』に限るんだけど」
「なんだ、それは。怪しいな」
「私は最初は怪しいって思ったんだけど、ほんとうに見た目も味もお母さんの料理そっくりそのままのものが出てきたの。今度、お父さんも一緒に行こうよ」
「一緒に、か……」
董子の誘いに、父が一瞬言葉を詰まらせる。
「うん、一緒に」
父が鼻を啜る音が聞こえてきて、董子はふふっと笑ってしまう。
(明日出勤したら、白根さんにも思ってること、わからないことをはっきり言おう。)
夜空に浮かぶ八日月にひそかな誓いを立てる。
父と話しながら笑う董子の頬を、秋の夜風がすっと掠めていった。
店の表の格子戸から女性客が出ていくと、それと入れ違いに、調理場の裏の戸から男がひとり入ってきた。
といっても、見た目はまだ十代の少年だ。黒い髪に、琥珀色の瞳。よく見れば、肩甲骨の辺りから黒い鳥の羽のようなものがふたつ生えている。
人間離れした容姿をした少年は、両手いっぱいに野菜や果物や肉や魚。ありとあらゆる食材を抱え込んでいた。
「ただいま戻りました。縁様」
少年は背中に広げた羽を器用に折りたたむと、菫色の瞳をした店主の前で畏まって頭を垂れた。
「おかえり。今日もありがとう」
店主は眦をさげて微笑むと、少年が両手いっぱいに抱えている食材をひとつひとつ丁寧に取り上げる。
「お前のおかげでいつも助かってるよ。迅烏」
迅烏と呼ばれた少年は、店主の労いの言葉に、煩わし気に眉をしかめた。
「あなたのおかげで、私はいつも国中を飛び回らなければならず苦労しております」
「お前は種族の中でも一番に速く飛ぶことができるからな。俺のそばに置くのに、お前以上の適任はいない」
「それは、そうかもしれませんが」
店主がゆるやかに微笑みながらおだてると、迅烏はまんざらでもなさそうな顔をした。
「ところで、今宵こそは彼の方の情報を得られましたか?」
「いや……」
「それでは、今宵もまた何の得にもならない人助けを?」
「何の得にもならないというようなことはないぞ。今夜のお客も、思い出の料理を食べて、ずっと胸にあった心残りを少し消して帰って行った」
苦笑いを浮かべる店主に、迅烏が呆れたようにため息を吐く。
「あなた様はなんとも、人が良いというか……。まあ、実際のところ、人ではないですが。誰かれ構わず引き寄せすぎです」
店主が食材を片付けるために背を向けると、迅烏が小言を述べながら後ろを着いてくる。
「あれからもう、千年以上も時が過ぎております。私たちにとってはさほどの年月ではなくとも、人の世界では途方もない年月です。それでもまだ、彼の方の言葉を信じて待つおつもりですか?」
眦をつり上げて、くどくどと諭す迅烏の言葉を、店主は今宵も静かに聞き流す。
迅烏が小言をこぼすのは、ほとんど毎夜のことなのだ。迅烏は役に立つ仕事をするが、小鳥のように口煩いのが難点だ。
しつこく追い回してくる迅烏を振り返り、店主は苦笑いで息を吐いた。
「縁様……」
小言を続けようとしていた迅烏は、店主の菫色の瞳で真っ直ぐにじっと見下ろされ、一歩身を引いた。
「申し訳ありません。口が過ぎました……」
「いや」
店主は首を横に振ると、目を伏せてしょんぼりとする迅烏の頭をさらりと撫でた。
「お前が心配してくれているのはわかっている。それに、この頃はもう、かつてと同じ想いであの子を待っているわけじゃない」
「では、どうして……」
上目遣いに見上げてくる迅烏に、店主はゆるりと微笑みかける。
「俺やこの店は、人の心の隙間に引き寄せられる。この千年のあいだ、一度も俺に引き寄せられなかったということは、あの子はきっと現世で幸せに暮らしているんだ。心に隙間など生まれないくらい。だから、このままでいい」
そう語りながら、どこか遠くを見つめているような店主の優しい眼差しに、迅烏は切ない気持ちになった。
人の心を読み、人の心に生まれた隙間に引き寄せられる力を持つおもひで食堂の店主は、現世と幽世の狭間で想い人を待ちながら、もう何千年も出会えぬままでいる。
「迅烏、次のお客がやってくるぞ」
物思いに耽る迅烏に、店主が声をかける。
「……、トマトが必要かもしれない。すぐに調達を頼めるか?」
店主のさりげない注文に、迅烏は大きく目を見開いた。
「私は今帰ってきたところですよ。肉も野菜もたくさん調達してきたでしょう」
「そうだが、トマトを頼み忘れた。それから、卵も足りない」
「なんですか、それは。人を使うのなら、正しく命じてください」
「以後、気をつけるが……。とにかく今は、トマトだ。それから、産みたての鶏の卵も頼みたい」
「は? 産みたてですか……?」
宵の刻に、無茶なことを言い始めた主に、迅烏は顔を歪める。
「お前は風よりも速く飛べるから、海の向こうまで行っても一瞬で戻って来られるだろう?」
店主が切れ長の目を細めて訊ねると、「まあ、そうですが……」と迅烏がまんざらでもなさそうに頷く。
「仕方ないですね。縁様のご命令とあらば、行ってまいります」
「ああ、頼む」
カラリ。
羽を広げて調理場の裏戸から飛び出して行く迅烏を店主がゆるやかな笑みで送り出すと、表の格子戸が引かれて、スーツの男が店に入ってくる。
「いらっしゃいませ」
店主が声をかけると、男は店内をきょろきょろ見回しながら、後ろ手に引き戸を閉めた。
「どうぞ。お好きな席へお座りください」
「あ、はい。どうも……」
遠慮がちにカウンターに歩み寄ってくる男を菫色の瞳で静かに見つめながら、店主は白紙のメニューを差し出した。
《Fin》