瑠璃色の空に辺りが包まれた宵の頃。
風のささやきに振り向いた先の通りに、人知れずそっと、その店はあるという。
人通りの多い駅前を離れ、コンクリートで整備された細い川沿いの道をずるずると歩きながら、永見董子は浅いため息を吐いた。
デスクワークがメインの今の仕事は、立ち仕事がメインだった前職と比べると体力的な負担は少ない。それなのに、董子の足は鉄球の付いた足枷を嵌められているかのように重かった。
数ヶ月前、転職活動のために登録した人材紹介会社から勧められて董子が入社したのは、小さな機械部品メーカー。
大学を出たあとアパレルブランドの店舗スタッフとして働いていた董子は、接客のためのトーク技術と服に関する知識はあったものの、パソコンに関するスキルや知識にはあまり自信がなかった。
人材紹介会社から勧められた機械部品メーカーの経理事務の仕事に董子が難色を示すと、少し年上だと思われる担当のキャリアコンサルタントが、董子の背中を押すように微笑んだ。
「未経験可のお仕事なので、あまり構えることはないですよ。教育体制のしっかり整った、アットホームな会社だと人事の方もおっしゃってましたし」
董子には、自分が流されやすい性格だという自覚があった。
これまでの人生で、他人の言葉に流されて失敗し、後悔したことが何度もある。だから、気を付けなければいけない。
常々そう思って生きているつもりなのに――。
優しい言葉をかけられれば、ふと気が緩む。
「永見さんの転職の条件は、前職とは違った職種に就くことですよね。こちらの会社でのお仕事は、新しいことに挑戦したいと思われている永見さんにぴったりだと思います」
そのときも、人材紹介会社の担当者の爽やかな笑顔と肯定的な言葉に流された。
担当してくれた彼は董子の転職活動を親身になってサポートしてくれたし、なによりも、董子好みの薄顔のイケメンだった。
「じゃあ、その会社受けてみます」
担当キャリアコンサルタントに左手に光る指輪を横目に見つつ、最終的に董子は彼に勧められるままに頷いた。
けれど、あとになって思えば思うほど、あのときの董子は浅はかだった。
担当キャリアコンサルタントのサポートもあって面接から内定までの流れはスムーズに進んだが、いざ入社すると、そこには事前に聞いていた話と少し相違があった。
董子が入った会社は小規模で社員数もあまり多くなく、事務所に勤める社員たちの顔が一同に見えるような、ある意味でアットホームな職場に違いなかった。
だが、規模の小さな会社ゆえに部署間ではっきりした分業ができておらず、経理課に配属された董子は、本来の事務作業以外にもいろいろな雑務を頼まれた。
新人の董子の教育担当になったのは、白根さんという四十代半ばの女性社員で。董子が挨拶してもにこりとも笑わない、少し神経質そうな人だった。
勤務歴が二十年近くになるという白根さんは、アパレル店員だったときから通っているお気に入りのサロンで施術してもらったネイルで初出勤した董子の手元を、なんだか冷たい目で見てきた。
気が合いそうにないな、と思ったのは董子だけでなく白根さんのほうも同じだったようで。「これ、マニュアルなので」と、書類の挟まった分厚いファイルを初日に董子に手渡しただけで、業務を進めるうえでの細かなことはほとんど何も教えてくれなかった。
毎朝職場に行くと、白根さんからその日の仕事の指示をいくつか受けるのだが、経理事務未経験なうえ、入社して間もない董子にはわからないことが多い。
不明なことがあったり作業に詰まったとき、質問したいが、白根さんは常に無表情でパソコンや電卓を叩いていて話しかけづらい。
仕方なく、わからない業務については分厚いマニュアルファイルを捲って調べ……、またわからないことが出てきて調べてとしているうちに、ムダに勤務時間を消費していってしまい……。
業後、私の仕事が朝からほとんど進んでいないことを知った白根さんに、「もういいわ。あとはやっとくから」と、あきれたようなため息を吐かれる。
(何も教えてもらえないから、これでも自力で頑張っているのに。)
白根さんにため息を吐かれる度、董子は言いようのない焦燥感と悔しさで歯噛みしたくなる。
人材紹介会社の担当者は教育体制が整っているなんて言っていたが、実際には教育体制なんてあったものじゃなかった。
前の職場では楽しくやりがいを持って働いていたのに、今の職場は息の詰まる場所でしかない。
やはりあのとき、担当キャリアコンサルタントの言葉に簡単に流されてはいけなかった。
あのときだけではない。董子の考えは、いつだって軽率で甘い。
浅いため息を吐いて見上げた宵の空には、八日月が浮かんでいる。
弦の部分がにわかに曲線を描いて見える、白銀色の月。輪郭のくっきりとした月を見つめる董子の頬を、秋の夜風がすっと掠めていった。
ふと何気なく、風の流れていくほうに顔を向けると、その先にレトロな街灯がポツリポツリとまばらに点いている狭い路地がある。
橙色の暗い街灯が照らすのは、石畳の道と格子造りや白壁の建物の残る古い街並み。
(こんな通り、あったっけ?)
董子は、月の光と街灯に照らされた、やたらと趣のある通りをぽかんと見つめた。
前職を辞めた董子が、心機一転、この町に引っ越してきたのは半年ほど前。
それ以降、転職活動中、今の職場への通勤時、何度もこの川沿いの道を歩いているのに、こんな昔懐かしさの漂うレトロな通りがあることに気付かなかった。
その通りは他の通りと比べてあきらかに違っていて、少し目を配れば誰でも気付くような異彩を放っているというのに。
董子は、住んでいる町の風景すらまともに見えていなかった自分の余裕のなさに苦笑した。
「少し見て行こうかな」
誰に言うでもなくつぶやいて、董子はヒールの低い黒のパンプスのつま先をコツリと、通りのほうへ向けた。
レトロな街灯の暖かな橙の光に導かれるように一歩二歩と進んで行くと、通りの入り口に背の低い石柱が建てられていた。
《宵風通》
それが、この通りの呼び名なのだろう。もう随分と昔に彫られたようだが、石柱にはそんな文字が印されている。
秋の夜風に導かれてこの通りに気付いた董子は、なんだか不思議な縁を感じた。
けれど古い街並みの続く夜の宵風通りは、しんと静かで。歩く人の姿は見えない。
灯るのは橙の街灯だけで、建物の中には誰もいないのか暗くひっそりとしている。
夜に来る場所ではないのかもしれない。
董子が立ち去ろうと一歩動きかけたとき、不意に、通りの中ほどで、パッと眩い光が灯った。