「春瀬……春瀬月乃(はるせつきの)……ない。またダメか……」

私はスマホの中の恋愛小説コンテストの受賞者一覧を三度、目でなぞる。私の本名である、春乃月瀬(はるのつきせ)を並び替えて作ったペンネームである春瀬月乃の名はどこにもない。

私は、昨日もらったばっかりの高校の卒業証書の筒を蹴り飛ばすと、原稿の下書きである分厚いノートを握りしめて玄関から飛び出した。

お気に入りの水色の自転車も今着ている淡いブルーのワンピースも今日は涙の色に見える。私はノートを自転車のカゴに放り込むとサドルに跨り、海辺へと向かってスニーカーを踏み込んだ。

──もう何もかもが嫌だ!

家を出れば直ぐに急な下り坂が続く。私の人生なんて下り坂の連続だ。

「誰にも見つけてもらえないなら……何の意味もないっ……」

──もう消えてしまいたい。

「もう夢なんて……」

私はカゴの中のノートを睨みつけた。


小さな頃から私は本が好きだった。お姫様が魔法をかけられて王子様と幸せになる夢物語は母に何度読んでもらっても飽きなかった。そして小学校に上がると私は図書館に入り浸るようになり、本の世界の虜になった。この頃からいつか自分だけの物語を書けたらなんて、ちっぽけな夢を思い描いていたように思う。

そんな夢は中学の時の両親の離婚をキッカケに自分のいる現実世界から違う世界を求めて、逃げ出すための手段として自分だけの物語を書くようになっていた。

──私は此処にいるよ。

誰かが私の物語を読んで私という生き物が、世の中に存在していることを知って欲しかったのだとおもう。やがて自己承認欲求が芽生えて自作の物語をコンテストに応募するようになったが、結果はいつも同じだった。誰からも必要とされてないようで、誰からも自分なんていらないと言われているようで、その度に呼吸は溺れているように苦しくなった。

「……私って何のために生きてるんだろう」

自問自答を繰り返しながら一気に坂道を下っていく。身体中に春風が纏わりつきながら、私の心の隙間にも風が吹く。哀しく苦しい全てを心から落っことして、このまま空まで漕いでいけたらいいのに。

自宅から自転車で15分程の見慣れた海辺へ辿り着くと、自転車のカゴから引ったくるようにノートを掴んで真っ直ぐに砂浜を歩いていく。

スニーカーに砂が入り込み、波が寄せて足首がひんやりとするのも構わず、私はザブザブと海へ入っていく。

「わあぁぁぁーーっ」

水平線に向かって、私は腹の底から声を張り上げた。

太陽に照らされて青空が海面に映り込みながら煌めいて揺れる。私は腕を振り上げると勢いよくノートを投げ捨てた。パチャンと小さな音がしてノートは、ぷかぷか浮かびながら広い海をまるで楽しむかのように波と共にゆらゆらダンスを踊っている。

「はぁっ……はぁっ……ムカつく」

全ての綺麗な色も澄んだ空気も濁って見える。

「……全部なくなってしまえばいいのに」

大きな声で叫んでも海はいつものように波を寄せては返しながら、青い世界を見せつけてくる。

暫く海に漂うノートを見つめていたが、今日に限って波が押し寄せる力の方が強いのか、少しずつノートがこちらに向かって戻ってきている。

「なんなのよ……誰にも見つけてもらえないアンタなんかどっかいきなさいよ」

私はザブザブと海の中を腰まで浸かりながら
進んでいくと、ようやく再びノートを掌に握りしめた。

「もう二度と戻ってこれないように捨ててやるんだからっ」

私はさらに沖の方へと海の中を大きく腕を振って歩いていく。

「ばっかじゃねぇのっ!」

後ろから大きな掌が伸びてきて、私の手首が掴み上げられると共に男の怒鳴り声が降ってきた。

見上げれば蒼い髪を靡かせた男が切長の瞳を細めてこちらを睨み落としている。

「……何、よ、離してっ」

「離すかよっ!それ以上行ったら溺れんだろうが!こいっ!」

男の剣幕に思わず体がビクンと跳ねた。

見れば確かに背の低い、私の体はいつの間にか胸まで海に浸かっている。男に手首を掴まれたまま、ジャバジャバと海の中を引き摺られるようにしながら砂浜へ着くと、一気に海水を吸って体が重たく感じる。

着ていた水色ワンピースの裾を雑巾絞りしながら、下着のラインがみえていることに気づいた私は咄嗟にしゃがみ込んだ。

「これ着て」

男は自分が黒のTシャツの上に羽織っていた白い長袖のシャツを私の肩に掛けた。

「……ありがと」

長身の男は太ももまで濡れたデニムを乾かすように私の隣に足を投げ出した。

「なんで?」

「え?」

唐突に聞かれた質問が何のことかわからない私は答えられない。

男が私が置いていた、びしょ濡れのノートを砂浜から拾い上げた。そしてパラパラと海水に濡れたノートをつまみながら捲っていく。

「ふーん、恋愛小説?」

「ちょっと……返してよっ」

「何?要らないもんなんだろ?だから海に捨てようとしてたんじゃねぇの?」

私は濡れたワンピースの裾を握りしめた。

「……そうよ。私の心からでた要らないモノなのっ!私と一緒よっ、誰からも必要とされてない!」

「要らないモノね……じゃあ燃やしていい?」

「え?」

男はズボンのポケットからライターを取り出しノートに近づける。

嘘は吐いてない。
要らないモノだ。

でも海に捨てても最悪取りに行けるが、燃やしてしまえば跡形もなくなってしまう。

「じゃあ燃やすから」

「やめてっ!」

私は思わず男からノートを取り上げた。男がライターを振りながら、クククッと笑った。

「これオモチャだし、大体びしゃびしゃなのに燃えるわけねーじゃん。てゆうかアンタ小説家なんだ」

「……違うっ、そんなんじゃないっ!ただの物書きだからっ」

小説家なんて大そうなモノじゃない。そんなモノなりたくたってどうせなれやしない。現実を浮き彫りにされた気がして、見ず知らずの男に何だか馬鹿にされたようで、かっと顔が熱くなる。私はノートを抱えたまま男を睨みつけた。

「春瀬……月乃?、春乃月瀬?これどっちがアンタの名前?」

男は私が抱えているノートの表紙の名前を辿々しく読み上げる。

「そんなこと聞いてどうすんのよっ」

「別に?ただ単に興味?俺も二つ名前あるから」

「え?」

男は少し離れた砂浜の上に無造作に置かれたギターを指差した。音楽には全く疎い私だが、そのギターがとても使い込まれていることだけはわかった。

「唄うたってんの、俺」

「それって、シンガーソングライターとかいうやつ?」

「そんなんじゃない。ただの唄歌い」 

男が肩をすくめるとギターを眺めた。

「実は俺もギター捨てにきたんだよね」

「えっ?捨て、ちゃうの?……大事なモノでしょう」

「それいうならアンタ、えっと月乃?月瀬?もだろ?てゆうか名前どっち?」

男は当たり前のように名字ではなく下の名前を訊ねてくる。私は小さく跳ねた鼓動に気づかないようにしながら涼しい顔で答えた。

「本名が春乃月瀬。ペンネームは本名入れ替えただけだから。ちなみに年は十八、高校卒業したばっかだから」

「マジで?」

男が切長の瞳を大きくした。こうやって男の顔を間近にみると、染められた青髪は蒼い海のようでよく似合っている。そしてアーモンド型の切長の黒い瞳は黒目が大きくて睫毛が長く綺麗な顔立ちをしている。

「あなたも、名前おしえてよ」

私が自分から他人の名前を聞いたのは初めてだ。他人への執着も関心もないから。

「あ、俺の名前は星宮蒼(ほしみやあお)。唄歌うときの活動名はブルースター」

「ブルースター?お花の名前だよね?」

「あぁ……よく知ってるな。由来は名字と下の名前を組み合わせんだ。月瀬と一緒だな」

月瀬、と同年代の男の子に名前を呼び捨てされたのは初めてでお尻がむずむずする。

「そう、なんだ……ほんと偶然ね、ちなみに年は?」

蒼は私と同じ年位か少し大人っぽく見える。蒼は左耳のピアスを揺らしながら、歯を見せて笑った。

「マジで偶然って重なるよな、俺も隣町の高校昨日卒業したばっか。タメだな」

「そう、なんだ」

なんだか間の抜けた返事になってしまった。

「ちなみに俺、勉強全然興味ねぇし学年一の最低成績で、春休み終わったらフリーターまっしぐら。あ、体育だけは5だけどな」

「そう、なんだ」

なんて返事をするのが正解なのか分からなかった私が、同じ答えを口にすると蒼が額をコツンと突いた。

「困った顔すんな、俺が困る」

蒼が笑って、つられて私も笑っていた。

(ちゃんと笑ったのいつぶりだろう……)

ついさっきまでの世の中への苛立ちも未熟で何も持ってない自分も、全てが嫌になって自暴自棄になっていた私はどこへ行ってしまったんだろう。

「……ねぇ、どうしてギター捨てちゃうの?」

自分で訊ねて自分で驚く。学校でも友達はいたが表面だけの付き合いだった。適当に話をして適当に笑顔を作って、本当の自分を知って欲しい人もいなかったし、他人の事を知りたいと思うこともなかった。

「それ聞いてどうすんの?」

蒼の瞳が私の瞳と重なって、何故だか鼓動がひとつ跳ねた。

「……大切なモノなんじゃないかなって」

私は使い込まれた蒼のギターに目を遣った。

「それいうなら月瀬もだろ?なんで大事なノート捨てようとした訳?」

「それは……」

「同じ海に不法投棄しようとした仲間として聞いてやるけど?」

(仲間……)

知り合いでも友達でも家族でもない。仲間という響きがトンと心臓に響いた。

「あ、嫌なら別に無理すんなよ」

他人に自分の心の一部を話すのは初めてで緊張する。私は何度か深呼吸を繰り返した。

「私……恋愛小説書いてるの……。理由は恋愛小説が流行りだからってだけ。一人でも多くの人に私の文章を読んでほしくて……私は此処にいるよって、生きてるんだよって伝えたくて……でも……」

何故だか目頭が熱くなってくる。

「うん……ちゃんと聞くから……ゆっくりでいいよ」

蒼は、こちらを見ずに晴れ渡った空と同じ髪色を揺らしながら波が寄せて返すのを眺めている。

「……でもね、私……恋したことないの。両親が離婚しててお母さんいないし、お父さんともうまくいってない。だから家族の愛情も正直よくわからない。愛情の定義も知らない上に、誰からも想いを寄せられたことも寄せたこともない私が書いた恋愛小説なんて、きっと誰の心にも届かない……それなのに認めて欲しくて無意識に誰かのマネして、どこかで見たような文章書き連ねて、そんなの誰にも見つけてもらえないのにね。必要とされる訳ないから……そんな当たり前のことにさっき気づいて……心ごと全部……捨てたくなったの」

いくら頑張っても、いくら心が叫んでも誰にもみつけてもらえないから。蒼は暫く黙ってからボソリと呟いた。

「……俺も少しだけ……分かるかな」

「え?」

「……勿論全部じゃない。月瀬は俺じゃないし、俺は月瀬じゃないから。でも俺も心の中の将来の不安とか燻ってるだけで吐き出せない見えない何かに苛ついた感情とかをさ、唄にして心を表現して誰かに認めてもらいたかったんだけどさ……最後にしようと思って出した楽曲コンテストで見事に落選して、なんか虚しくなった」

虚しい、苦しい、悲しい、その感情だけがぐるぐる回ってどこにもいけなくて心に毒が回るみたいにこの世と自分に絶望する。

そんな感覚を私以外の誰かも感じていたことに私は驚いた。

「それにさ、月瀬と一緒で、唄も流行りはラブソングなんだけどさ。俺も恋愛なんてしたことないから……」

「え?そうなの?」

思わずそう蒼に訊ねていた。蒼はハッキリいって端正な顔をしている。きっと女の子にモテるんじゃないか、そう思った。

「あ、彼女いたことは、その……結構あるけど、適当な関係だったから……って最低だよな」

蒼が頬を掻きながらバツの悪そうな顔を浮かべた。

「ま、てゆうことでさ、俺は誰にも届かない唄なんか歌ってもしょうがないからコレ捨てんだよ」

蒼が立ち上がるとギターを持つ。そして海へ向かってギターをもつ両手を高く上げた。

「蒼くん待ってよっ!」

私は蒼の両手にしがみつくと、ギターを抱え込んだ。

「ちょ……離せよっ」

「蒼くんが、要らないなら私が貰う!」

「は?なんで月瀬にやらなきゃいけねぇんだよっ」

「捨てるんでしょ!じゃあ貰うっ!」

「ダメだ!これは俺の夢だから俺がちゃんと自分で捨てなきゃ意味ねぇんだよっ!」

蒼が私から再びギターを取り上げた。そしてそのまま足首まで海に入っていく。

「やめてっ!夢捨てないで!」

蒼の切長の瞳が大きくなった。そして暫く蒼は私をじっと眺めてから砂浜に戻ってくると、私にギターをそっと渡した。

「……蒼くん……?」

「じゃあさ……俺の夢貸してやるよ。だから泣くな」

「……え?」

「それに俺が泣かしてるみたいだろ、いい加減泣き止めよ」

蒼にそう言われてから初めて気づいた。自分の瞳から涙が溢れていることを。私は借りている蒼の白いシャツの袖で目頭をさっと拭った。そして蒼が隣に座ると私の濡れたノートを手に取った。

「そのかわり月瀬の夢貸して」

「え?」

蒼が私の少し乾いてきたノートを持ち上げると頬の横で振った。

「俺が預かってやるよ、月瀬の夢。そのかわり俺の夢を月瀬に預ける」

「え?どうゆうこと?」

「……なぁ、一個確認だけどさ、月瀬の夢は、ちゃんとした恋愛小説を書きたい、そんでもって自分を認めて貰いたいってことであってる?」

蒼がどうしてそんなことを聞くのがまるで検討がつかないが私はこくんと頷いた。

「了解。ちなみに俺は多くの人が魅了される心に突き刺さるラブソングを作りたい」

「うん……」

「あー、思ったより恥ずいな」

困った時の蒼のクセなのかもしれない。蒼がまた頬を掻きながら口を尖らせている。

「蒼くん?」

青が意を決したように私の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「七日間だけ、俺と恋愛ごっこしない?」

私は蒼の言葉の半分も理解できずに何度も蒼の言葉を脳内再生する。

「……えっと……」

「あー、マジで恥ずくて死にそう。あんな、勘違いすんなよ、マジで付き合ってって言ってる訳じゃなくて、お互いの為に七日間だけ真剣に恋愛して、もう一度俺も月瀬も夢にも自分にも向き合えたらいいなって話」

「あ、そうゆうこと……」

恋を知らない私は、会ったばかりの蒼から告白されたのかと思って跳ね上がった鼓動を抑えるように胸元を握りしめた。

「……で、返事は?嫌だったら……」

「お、お願いします……」

恥ずかしくてたまらない。それでも何故だかわからない。恋を知りたい気持ちと蒼を知りたい気持ちが入り混じって、私はそう返事をしていた。

「じゃあ、7日間宜しくな」

蒼が唇を持ち上げながら掌を差し出す。

その大きな掌に私の手を重ねた瞬間、波音に混ざって何かが変わる音が聞こえた気がした