1,嫌いな言葉

「ねぇ~、スタバの新作飲みたい~」
「しょうがねえな、帰り行くか」
「やったぁ!!」
男は、けだるそうな声を出しながらも微笑んでいた。
俺はそんなあいつらを見て、ものすごく機嫌が悪くなった。
吐きだす息が白くなり、俺の呼吸のペースを明確に表している。
自分で見てわかるくらい、呼吸のペースが速い。
それは、あんな光景を見たせいか。
俺が走っているからか、わからなかった。

俺は窓際の自分の席に座って、何の彩もない木々を眺めていた。
制服である学ランを着てもなお、肌寒い。
今は二月だ、無理もない。
教室を見渡すと、いつもどうりの光景が広がっていた。
教室の後ろに集まる陽キャ軍団。
黒板の端っこらへんに固まっている陰キャたち。
そして、俺達みたいなどちらにも属さないような人間は、自分の席に座っている。
この形が崩れることは一年間、一度もなかった。
それがこの学校の中に起きている、縦型社会という奴だろう。
別に俺は、これ自体に文句はない。
これは何の意識もせずとも、いつの間にかできているものだろうと思うから。
この学校という小さい社会の中で、騒ぐ奴らと、静かなやつらが分かれた。
ただそれだけの話だ。
そんなことを頭の中で考えていたら、ふと視界が真っ暗になった。
「ほ~んだ?」
そして、おちゃらけ声が後ろから聞こえてきた。
「それ言ったらこれする意味ないだろ?本田」
「あちゃ~ばれてた?」
視界がクリアになったから、後ろに振り向く。
そこにいる、本田真斗。
彼は完全に陽キャの部類に属するだろう。
金色に染めてる髪の毛、前のボタンをすべて外した学ラン。
本田は陽キャだが、よく俺に突っかかってくる。
そして俺以外にもこのクラス中の人間と仲がいい。
誰からも親しく接しやすい彼は、クラスの人気者だ。
俺もいいやつだと思うし、普通にかっこいいと思う。
さわやかっていうよりかは、男らしい顔つきだ。
「ばれるだろ。名前も言ってるし」
「あははっ、そりゃそうか!!」
手をパンパンたたきながら笑っている。
そんなに面白いことだろうか。
「なんでそんなに笑ってるんだよ」
「だって、面白いじゃん?」
「俺にはよくわからないけどな」
やっぱり、陽キャの考えはよくわからない。
いつでもきらきらと笑っている彼は、何を考えているのか。
「そーいやーさ」
まだ登校してきていない、前のクラスメイトの席に本田が座りながら言った。
「そろそろクラス替えだな。また一緒になれるかな?」
「それは聞かれてもわかんないけど、まあなれたらいいよな」
「おっ、いつも冷たい光太郎がデレたぞ」
「うっせ」
肘でぐいぐい押しながら、俺のことを煽る。
別にデレたわけじゃないんだけど。
「まあまあ照れんなよ」
「照れてねえよ、別に」
俺は肘をついて、窓の外を眺める。
相手をするのが、少しずつだるくなってきた。
「すまん、すまん」
こいつのすごいところはここだ。
俺がだるそうな雰囲気を出すと、すぐに察知をすること。
本当に、心が読まれているんじゃないかって思う。
これが人気者の特殊能力か。
「別に、謝られることもされてないし」
「完全に嫌な顔してただろ?」
にししと笑う彼。
「まあ...だるかった」
「まあまあ正直に言うな?お前」
「思ったことを言って何が悪い」
俺はちらっと視線を本田に移す。
「言いたいことは言う、言いたくないことは言わない、それが俺の生き方だ」
「なるほどな...」
顎に手を当てて、考え込むような表情をする本田。
「何してるの?」
「光太郎の生き方を俺にもできないか考えてた」
「無理だろ」
「ひどっ!!」
良くも悪くも。本田はまっすぐだ。
言いたいことを言うことはできるだろう。
そして言いたくないことを言うこともできるはずだ。
でも、余計なことも言ってしまうだろう。
俺はそこの区別はしっかりとしている。
だから、まあ、無理だろう。
「本田には本田のいいところがあるだろ。別に俺の生き方に寄せる必要もないだろ」
「優しい...惚れた...」
「きっつ」
「冗談だよ。でもお前っていいやつだな!!」
立ち上がって、俺の頭をくしゃくしゃに撫でまわす。
「おい、やめろよ。俺がいいやつなことくらい知ってただろ?」
「自分で言うか、それ?」
動きを止めながら本田は言った。
そして、今度は座らずに、俺の机に手を置いた。
「てかさ、もうすぐ俺ら先輩じゃん」
「確かに、新一年が入ってくるな」
先輩になるのか。なんだか実感わかないな。
まあ別にそんな気を張る必要もないが。
「やべぇな、後輩にサッカー教えられっかな?」
「逆に教えてもらうんじゃね?」
「そんなへたくそじゃねえわ!!」
まあそれは知っているが。
本田はまだ一年生だが、この学校のサッカー部のエースだ。
彼がいるおかげで、今の三年生は県大会準優勝という実績をおさめることができたといっても過言ではない。
「光太郎は部活入ってんだっけ」
「あぁ、俺は美術部だ。そう言っても幽霊部員だけどな」
本当は部活に入るつもりはなかった。
でも、担任が口うるさくいってきたので一応美術部には入った。
まあ、ほとんど行っていないが。
「なんだよ~じゃあ放課後何してるんだよ?」
「いや...なんもしてねえよ」
「本当は彼女とこっそり?」
俺はその言葉を聞いた瞬間、本田を睨んだ。
すると、本田は少し驚いたように身を引いた。
「...俺に彼女なんていない、お前と違ってな」
本田には、ずっと付き合い続けている彼女がいる。
そこそこ仲が良く、この学年のほとんどの人が知っているらしい。
「そ、そんな殺気丸出しで言うなよ。怖いぞ」
「すまん、でもお前が悪いんだぞ?」
俺の聞きたくない言葉を、ふたつも言ったお前が。
本田は理解できなかったようで、首をかしげていた。
俺はそんな本田を、ずっと眺めていた。

「では、朝のホームルームを終わります」
それだけ言い残して、担任は教室を出て行った。
俺たちは各々、授業の準備をする。
教科書やらノートやらを机の上に置く。
俺の前の席は、空いたままだ。
今日は欠席なんだろう。
まあ、別に仲がいいやつでもないからいいんだが。
でも、前の席がいないと先生の目が付きやすい気がするから落ち着かない。
しかも次は数学の時間だ。
俺は数学が大の苦手だ。
なんていうか、頭の中で想像しろとか言われるけど、そんなこと俺にはできないし。
想像力が乏しい俺は、一つ一つ考えていくしかない。
「はぁ...」
思わずため息が出てしまった。
これが何のため息かは、俺にはよくわからなかった。

放課後、俺は教室を足早に出た。
まだ教室の中にはほとんどが残っていたが、それは無視する。
俺にはいかなくてはいけない場所があるから。
早歩きで廊下を通り過ぎて、階段のもとまでくる。
そして、階段を降りようとしたその時、下から上がってくる足音が聞こえた。
部活に行くやつかな、とあまり気にせずに俺も階段を降り始めた。
上ってくる足音がだんだん近づいてくる。
そして、夕日が差し込む階段の踊り場で、その足音の正体の人物が見えてきた。
俺はちらっと見ただけだった。
でも、俺はそのまま階段を上って来たその人のことを凝視してしまった。
なぜなら、階段を上がってきた少女はこの学校の制服を着ていなかった。
おそらく中学生か?
そんなことを思っていると、俺の視線に気が付いたのか彼女は立ち止った。
俺は少しずつ視線を上げていく。
紺色のスカートから、紺色のブレザー。赤いネクタイも見えた。
そして、顔まで視線を上げた。
彼女は丸眼鏡の奥からこちらを不思議そうに見ていた。
「ご、ごめんな」
なんだか謝らないといけない気がした。
「いえ、大丈夫ですけど...」
そう小さくつぶやいた彼女は、その場でもじもじしていた。
俺は、どうしたらいいかわからなくて黙っていた。
すると、ふっと彼女が顔を上げた。
そのせいでメガネが少しずれている。
「あ、あの!!美術室ってどこにあるんですか!?」
大声を出す彼女に驚き、一歩下がってしまった。
聞こうにも、なかなかできないからあんな動きをしていたんだな。
「ああ、こっち。着いてきて」
口で言うのは俺も得意じゃない。
かといって無視をするほど薄情でもない。
だから実際に連れて行った方が早いだろう。
「あっ、ありがとうございます...」
後ろをひょこひょことついてくる。
下ってきた階段をまたもう一度上って、さらにもう一階ぶん上る。
俺たちの教室が三階で、美術室は四階。
正直急いでいたが、仕方がない。
「ねえ」
俺は彼女に声をかける。
ビクッと体を震わせて、肩をすくめた状態で俺の方を向く。
「君って中学生?」
「は、はい。来年に、高校生になるんです」
じゃあ学校見学ってやつかな。
でも、なんでこんな時間に。
「どうしてこんな時間に来たの?ていうか、なんで美術室に行きたいの?」
俺はできる限り優しく聞いたつもりだ。
いつも声が冷たくて怖いって言われているから、少し意識してみた。
「えっと、私は体が弱くて長い間入院しているんです。だから、体調がよくなった今のうちにしておいた方がいいかなって思って...美術室は、美術部に入ろうって思っているからです」
彼女は、弱弱しい笑顔を浮かべながらそう答えた。
その顔が、とある人と重なった。
俺は足を止める。
そして、彼女の方に振り返る。
彼女は頭の上に?マークを浮かべていた。
「俺、南光太郎。名前は?」
「あ、狭山晴美って言います」
「俺も一応、美術部なんだ。実際ほとんど行ってないけど」
「そうなんですね」
口元を手で隠しながら笑う様子。
俺はそんな彼女のことを見入ってしまっていた。
やっぱり、似ている。
俺は無理やり視線を変えた。
これ以上見ていると、俺はつらくなってきそうだから。
俺はまた歩き出した。
それに気が付いて、慌ててついてこようとする狭山。
夕日が照らした階段が、やけにまぶしかった。
階段を登りきって、廊下を歩く。
手前から音楽室、調理室、そして美術室。
音楽室では吹奏楽部が練習している。
様々な楽器の音が重なって聞こえてくる。
そんな廊下を歩いて、美術室に着く。
そしてガラッと扉を開く。
中には数人、集中して絵を描いている人がいた。
そして前に座っている、美術部の部長である桐谷瑞希がこちらを見た。
三年生はもう引退したので、彼女は二年生だ。
「あら、南君が来るなんて珍しいわね」
「違いますよ部長。美術部を見学したいって子を連れてきたんですよ」
そして、俺は横に一歩ずれる。
狭山と部長の目がばっちりと合った。
部長がバっと立ち上がって彼女のもとへと駆け寄った。
「あなた、美術部に興味があるの?」
「は、はい...」
おい、大丈夫かこれ。
部長は女子にしては身長が高い。
平均ぐらいの俺とあまり差がないほどには高い。
そんな彼女がいきなり近づいてきたらビビるだろう。
狭山完全に怖がってるし。
すると、部長は狭山の両手を取った。
「うれしいわ!!わざわざ美術部にまで見学に来てくれる子はあなたが初めてよ!!」
興奮状態で、狭山の手をぎゅっと握る。
狭山は少し困ったように笑っている。
「さあさあ、いくらでも見ていってちょうだい!!」
こんなテンションが高い部長初めて見たんだけど。
その言葉に狭山は小さくお邪魔します、と言って美術室の中に足を踏み入れた。
そして、一番初めに見に行ったのは部長の作品だった。
部長は今、この美術室から見える夕焼けと町の風景画を描いている。
その作品はまだ未完成だが、同じ系統の色でも少しずつ違いを出している。
下絵だけでわかる、部長は絵がうまい。
狭山の様子を見ると、真剣な顔つきで絵を見ていた。
「これは、風景画ですか?」
「ええ、ここの部屋から見える風景を描いているんだよ」
「目に見える一つ一つの色を、自分なりに表現しようとしているところがとても素晴らしいです。ですが、その気持ちが強すぎるがあまりに、この風景画に合っていない色があります。たとえば、こことか」
狭山が指さしたのは、絵の中の空の一部分だった。
「確かに今の時間帯だと、オレンジ系の暖色が強く見えます。ですが、この色では少し強すぎると思うんです。なので、もう少しレモンイエローなどのグラデーションの近い薄い色を混ぜたら...」
俺たちはいきなりたくさんしゃべりだした彼女に驚いていた。
そんな俺たちの様子に気が付いたのか、狭山が少しずつこっちを向いた。
そして部長の顔を見るなり、頭を下げた。
「す、すいません!!私みたいなまだこの高校に入ってすらない部外者がこんな偉そうなこと言って...」
「いえ、いいのよ」
部長はそう言って、自分の作品を見つめた。
「確かに、そうだね。私は自分の描きたい気持ちに囚われているわね。もっと作品全体を見なければいけないわね。ありがとう、気が付かせてくれて」
「い、いえ、とんでもないです」
部長はにこやかに笑っている。
そんな部長に何度も頭を下げる狭山。
「すごいな、狭山。絵が好きなんだな」
俺は思ったようにそう言った。
すると、少し狭山が表情を曇らせた。
「そう、ですね。本当に絵が好きでよかったです」
なんだかその言葉は、ひどく重いものだった。
その表情は一瞬で消えて、ほかの作品を見に行った。
しかし、俺の頭から彼女のあの表情が消えることはなかった。
なんだ、この胸の中に残る違和感は。
狭山の今の表情。
なんでこんなに、俺の頭から離れないんだ。
俺は美術室を飛び出した。
後ろから、俺を呼ぶような声が聞こえた気がするがそんなのどうでもよかった。
廊下を走って、階段を全速力で降りる。
そして、下足室で上靴と下靴を履き替える。
かかとを踏んだまま走った。
今はとにかく、あの場から離れたかった。
狭山のあの表情を忘れてしまいたかった。

俺がそのまま走って向かった場所は、とあるドラックストアだ。
俺は自動ドアの前に立つ。
いつになく険しい表情の俺が、二つに切り裂かれた。
店の中に入り、俺は控室に入っていく。
俺は、ここでバイトをしている。
ウチの高校はバイト禁止ではある。
しかし、実際それを守ってる人は少なく、多くが遊ぶためのお金を稼いでいる。
学ランを脱いで、その上から店のエプロンをかける。
タイムカードをきって、仕事開始だ。
その前に、店長に挨拶だけしに行かないと。
店長は代々いつもレジ仕事をやっているから、レジにいるはずだ。
俺は白いタイルが敷き詰められている店内を歩く。
やっぱり、店長はレジにいた。
客がいないから、今あいさつに行っといたほうがいいだろう。
「店長、今日もよろしくお願いします」
「おっ、南くんか。今日も頑張ろうな」
「はい、失礼します」
店長は人柄がいい。
いつも優しい笑顔をしていて、俺たちにやさしい。
こんないい店長の期待に沿えるような仕事をしないとな。
そう思い、もう一度気合を入れなおした。
俺の主な仕事内容は品出しだ。
特に難しいことはない。
少なくなった商品を棚に陳列したり、在庫のチェックをしたりする。
なぜここのバイトは選んだのかというと、ほとんどここに高校の先生が来ないことだ。
みんなやってるにしろ、バレたらバレたでめんどくさい。
だから先生がここに来ないに越したことはない。
それに、店長やほかの人が優しいという理由もある。
人間関係があまり好きではない俺からしたら、好都合だ。
優しいみんなとかかわるのは、嫌いじゃないかな。
俺はいつもどうり商品の陳列を行っている。
今は、ハンドクリームやリップなど保湿関係の物を陳列している。
今の時期乾燥するから、売れ行きは右肩上がりだ。
どんな種類のものが人気なのか、買いもしないのに気にしながら並べていると、後ろに人の気配を感じた。
お客さんだったら、邪魔になる。
俺は横にずれて、お辞儀をする。
「いらっしゃいませ」
「えっ...南、さん?」
俺は名前を呼ばれ、驚いて顔を上げる。
思わずは?と声が出てしまいそうだった。
「狭山?」
「奇遇ですね」
制服のままの姿で、狭山がそこに立っている。
俺は動揺した目で彼女を見つめていた。
「は、なんでいるの?」
「なんでって、買い物に来たんですよ」
相変わらず弱弱しい笑顔で話す。
「でも、狭山は美術室にまだ」
「南さんが出て行ったあと、私もすぐに帰ったんですよ。皆さんの作品は、どれも素晴らしいものでした」
目をキラキラさせてそう言った彼女。
好きなことに対してはすごく熱心な子だな、と呑気に思っていた。
「そっか。よかったな」
「はい、より一層あの高校に入りたいって思いました」
俺はそこで疑問が生まれた。
「狭山ってなんで、この高校に入りたいって思ってるの?」
ぱち、ぱちと瞬きをして、少し視線を落とした。
「私、さっきも言いましたが体が弱いんですよ」
確かにさっき聞いたな。
なんでこの時間帯の着てるのかって聞いた時だな。
「私の体と家とか病院の位置を考えると、私の通える高校はあそこしかないんですよ」
狭山は自嘲気味に笑っていた。
「正直言うと、あの高校に行きたいっていうよりもあそこにしか行けないんですよ」
決められた一つしかない道。
「でも、あの高校は好きですよ。美術部の部長さんもいい人ですし、先生方も親切です」
それに、と言葉をつなげた。
「親切な、誰かさんもいますしね」
俺はその言葉に少し目を見開いた。
狭山ってこんな奴だったっけ。
まあ、俺も出会って少ししかたってないけど、最初の印象と少しずれている気がする。
「そうか、よかったな」
「はい、私はきっとこの高校に合格します。なので、待っていてくださいね」
彼女は、自信に満ちた目で、俺の姿を映していた。
俺は、小さくうなずいた。
「ああ、待ってる。きっと来いよ」
彼女はうれしそうに微笑んでいた。
なんだか、心のあたりが変な感じだった気がする。

あの後、彼女はハンドクリームを買って、帰っていった。
今日初めて会ったけど、懐かしい感じだった。
きっと、俺はあの姿を重ねているんだ。
俺の、姉さんと。
そう思いながら、商品を陳列していると後ろから背中をたたかれた。
振り返ると、店長が立っていた。
「南くん、彼女さんかい?」
店長はどうやら、さっきの一部始終を見ていたようだった。
「いえ、彼女は今日初めてあった人ですよ」
「そうなのかい?」
店長はひどく驚いている様子だった。
「なんでそんなに驚いてるんですか」
「いや、だってね...」
店長は一瞬言葉を止めてから、言った。
「失礼かもしれないけど、南くんって少し目つきがきついんだよ」
店長が振り絞るような、きつめの声で言った。
それは俺自身も自覚していることだ。
小さいころから親や友達に言われ続けてきたことだ。
いまさらそんなこと言われても、何とも思わない。
「でもね」
店長の声が急に柔らかくなった。
「あの子を見つめる君の目は、ものすごく優しかった」
俺はその言葉に息をのんだ。
「すごく大切なものを見ているような目?みたいな感じだったんだ」
違う、それは違うんだ。
「だからてっきり、あの子は南くんの彼女さんかなって思ったんだ」
「...違います。そんな目で見ていたのは、本当かもしれません。自分じゃわからなかったですから。でも、俺は彼女に好意を持っていません。きっと彼女も俺に好意なんてありません」
俺はそれだけ言って、控室へと向かって歩き始めた。
そんな俺に何か言いたげの店長がいたが、無視をしてそのまま足を動かした。
控室に戻った俺は、すぐさまエプロンをとった。
そして乱暴にカバンの中に押し込んだ。
椅子に掛けてあった学ランを取り、タイムカードをきって、そのまま店の外に出ていく。
普段なら店長やほかの人にもあいさつするが、今日はする気になれなかった。
店の外を出た俺を待っていたのは、吸ったら肺が凍りそうなほど冷たい空気だった。
空に浮かぶ三日月。
電柱についている電灯だけが、俺の視界を照らしてくれるものだった。
俺は、そんな薄暗い道を歩いていく。
何度も歩いた道のはずなのに、今はその道が初めてのように見えた。

2、幸せ
俺が狭山に初めて会ってから約一か月後。
今日は新入生の入学式だ。
俺らは二年生となり、後輩となる一年生が入ってくる。
こういう式典にはいつも興味ない。
正直眠いし、校長の話長いし。
でも今回は少し違う。
狭山が入ってくるはずだ。
入試で合格したかどうかは知らないが、あれだけの気合があるならこの高校くらい合格するだろう。
そう思いながら、在校生である俺は体育館の後ろ側に座っている。
『新入生、入場』
アナウンスが鳴った。
拍手をしながら、新入生の顔ぶれを見ていた。
一組、二組、三組とどんどん入場してくる。
そして、四組が入場を始めた時、女子の前から5番目に狭山がいた。
体が弱いと言っていたから、入学式に来るかどうか心配だったが、無事にこれたらしい。
でも緊張しているのか、体はカチコチで歩き方もぎこちない。
俺はそんな彼女が心配でずっと見つめてしまっていた。
「南、誰をそんな見てるんだ?かわいい子でもいたのか?」
俺の横に座っている、村田が話しかけてきた。
「いや、ちげえよ。知ってるやつがいたから見てたんだよ」
「それって女の子?」
「まあ、そう」
「南って女の知り合いとかいるんだな。意外だわ」
「失礼だろ、それ」
村田がけらけら笑っている。
なんだかむかついたから、ぽこんと肩を一度殴ってやった。

「久しぶりだな、狭山」
「はい、お久しぶりです、南さん」
入学式が終わり、午前中に終わった学校。
俺は校門で狭山が出てくるのを待っていた。
「入学おめでとう」
「ありがとうございます」
桜が散るのを背景に、狭山が笑った。
今はあの時の制服姿ではなく、俺たちの高校の制服だった。
「ちゃんと入学式に来れたんだな」
「はい、体調はばっちりですよ!!」
狭山はぎゅっと両手を握って、前のめり気味になっていた。
一番最初のころの内気な彼女はどこに行ったのか。
今は、普通に素朴な女の子っぽい感じだ。
「これからもちゃんと来れそうなのか?」
「もちろんです。わくわくな高校生活なので」
楽しみなことはいいが、空回りはしないでほしい。
無理をして、長期的に休むことになったらきっとよくない。
「無理せずに、楽しめよ」
「はい、無理はしないと肝に銘じておきます」
そこの下限は彼女自身が一番わかっているだろう。
「じゃあ俺は帰るから」
「わかりました」
そう言って俺は踵を返して、歩き出す。
すると、なぜか佐山も俺の隣を歩き始めた。
「え、何してるの?」
「何って、下校ですけど」
「いやいや、それはわかるけどさ。なんで俺と同じ方向に歩いてるんだよ」
「だって、私の家の方向、こっちですもん」
こてん、と首をかしげている彼女。
丸眼鏡が、また少しずれてしまっている。
「そういうことか」
「はい、なので一緒に帰りましょう」
「まあ、いいよ」
俺はまた前を向いて歩き出す。
そんな俺の横を嬉しそうに歩く彼女。
地面には何度も踏まれた桜の花びらが何枚も落ちている。
入学式の人混みを抜け、そこそこ人が少ない道に出た。
「最近は、温かくなってきましたね」
「そうだな。学ランがいらないなんて日もたまにあるし」
四月の初旬。
気候変動が激しいこの時期、気温の変化も激しい。
風邪をひきそうで仕方がない。
くしゅん、と隣からくしゃみが聞こえてくる。
横の狭山のことを見ると少しほほを赤らめていた。
「でも、ちょっぴり寒いかもです」
「もっとあったかい恰好しとけよ。風邪ひくだろ?」
俺より頭一個分くらい小さい彼女が、見上げるように俺を見た。
「えへへ、心配ありがとうございます」
なんだか予想していた答えとは違う。
わかりました、とか言われると思っていた。
「お、おう」
なんか調子狂うな。
思わず顔を逸らしてしまう。
「南さん」
くいくい、と制服の裾を引っ張られた。
「また今度、学校の案内していただけませんか?」
怖いくらい真面目な顔で、俺に懇願してきた。
「別にいいけど、俺でいいのか?」
「はい。南さんがいいです」
「わ、わかった」
なんだ、この圧は。
視線を合わせることすらできない。
そんなことを思っていると、横からむぅ~、と不機嫌な声が聞こえてきた。
「南さん!!こっち向いてください!!」
腕をグイっと引っ張られて、彼女の方に少しだけよろける。
そして、俺と狭山の顔は異常なまでに接近した。
俺は急いで顔を離した。
「な、なにすんだよ!!」
「南さんが目を合わせてくれないのが悪いです」
ふんっと腕を組みながら歩く狭山。
なんなんだ、こいつは。
こんなことするような奴だったか?
何かがおかしい気がする。
いくら見ても、狭山は狭山だ。
別人ではない。
「なあ、今日おかしくない?」
俺はド直球に聞いた。
「何がですか?」
「いや、狭山って初めて会った日は、もっと内気って言うか、消極的だったような気がしてたんだけど」
初めて出会った、あの階段の踊り場。
あの時の弱弱しい笑顔。
口元を手で覆って笑うあの姿。

それは、まるで

「違いますよ」
狭山がきっぱりと告げる。
「これが本当の私なんですよ。あの時の私は、ただおびえていただけなんです」
一度立ち止まって、こちらを向く狭山。
「実は、あの時私は医者に高校生になっても高校に自由に通うことはできないかもしれないって言われていたんです」
狭山の髪を、春風が撫でる。
周りの音が一切聞こえない。
まるで、世界の時間が止まったように。
「すっごく怖かったんです。また中学生のような生活を送るって考えると。だから、南さんと関わることも怖かったです。無駄に交流を深めて、また裏切られることが」
睫毛を震えさせながら、語る。
「でも、部長さんや高校の雰囲気、そして南さん。そのすべてが私が今まで持っていなかったものだと思いました。それが欲しいって思ったんです。私は欲深いですからね」
少し茶化すように、あざとく狭山が言った。
「裏切られてもいい。この期待が無駄になってもいい。だから、もし裏切られなかった時のことを考えようって思ったんです。自分が思い描いた、高校生活を」
俺には、うまく狭山の気持ちを想像することができなかった。
だって、狭山が欲しかったものは俺からしたら当たり前のことだから。
俺は、こんな思いしたことないから。

――それは本当なのか?

大切なものを求めようとしたことなんてない。
だって、元から持っているから。

――自分にうそをついて、どうなるんだよ

俺は頭を抱えて、道端にもかかわらずしゃがみこんでしまった。
だんだん狂い始める、俺の呼吸。
「ハァ...ハッ、ハァ...」
「どうしたんですか、南さん?」
狭山が神妙な声で聞いてくる。
俺は、受け答えをできるような状態ではない。
「ハァ...う、うぅぅぅぅ...」
うめき声が自然と口からこぼれ出てしまう。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
やっぱり、ダメだ。
頭が割れるほど痛い。
そして、何よりも、心が痛い。
思い出してしまうんだ。
ずっと、忘れたかったあの顔を。
あの匂いを。
あの優しさを。
ねえ、また俺の前に現れてくれよ。
そして、言ってくれよ。
「光太郎が大好きな、姉さんだぞってさ...」
俺のことを大切にしていた、あの姉さんを。
もう一度だけ、会いたいんだ。
言わないと、いけないことがあるのに。
しゃがみこんで、俯いている俺。
ふと、頭に何かが乗るのを感じた。
俺は顔を上げた。
そして、俺の目に映ったのは、俺の頭を撫でる狭山の姿だった。
「何があったかは、知りません。でも、辛いんですよね。今くらいは弱さを出してもいいんじゃないですか」
俺のことを上から見つめ、ほほ笑む姿。
それは、あの日俺が見た、姉さんの姿のようだった。
降り注ぐ春の日光が、狭山のシルエットを縁取っている。
その姿に、狂っていた呼吸が収まる。
頭痛もいつの間にかなくなっていた。
俺はふらふらと立ち上がった。
「大丈夫なんですか?」
心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。ちょっと、過去のことを思い出しただけだから」
そう俺が返すと、そうなんですねとだけ言って歩き出した。
俺はそんな狭山の背中に向かった声を出した。
「なあ、なんでこうなったか、聞かないのか?」
俺は不思議に思っていた。
さっきまであんな積極的な狭山が、すんなりと受け入れて歩き出した。
きっと、そうしてあんなふうになったのかとか聞かれるんだと思っていた。
狭山は足を止めて、くるりと振り向いた。
黒の髪の毛をたなびかせながら。
「気になりはしていますよ」
狭山の顔は、真剣そのものだった。
「でも、まだかかわりが浅い私が、南さんをそんな状態にするまでの悩みを解決できる気がしません。ていうか、きっとできません。なので、聞く必要がないです」
俺は、少し思った。
「なので、私を信頼できるようになったら、話してくださいね」
それは、本心なのか?
それとも、俺に対する同情なのか?
狭山のその眼には、悲しみの色が混ざっているように見えた。

「では、私の家はこちらなので」
「わかった。またな」
ぺこりとお辞儀して、狭山は歩いていく。
俺たちが別れた分かれ道は、俺の家のすぐ近くだった。
数十秒歩けばつく場所だ。
俺はそんな短い道を走った。
一瞬で現れた俺の家。
鍵穴にカギを差し込み、時計回りに回す。
すると、カギは空回りした。
鍵が開いている。
俺はドアを引いた。
中から、何か物音が聞こえてくる。
下を見たら、母親の靴があった。
今日は、仕事じゃないのか?
靴を脱いで、リビングへと向かう。
やっぱり、リビングのソファーで本を読んでいる母親がいた。
母親は扉を開く音で、こちらに気が付いた。
「おかえり、光太郎」
「ただいま」
俺は手短にただいまの挨拶を返した。
学校のカバンを床に置く。
「今日、母さんは仕事じゃないの?」
「今日は午後出勤なの」
にこにこ笑いながら、そう言った。
「そっか」
俺はそれだけ返す。
そして、制服を着替え始める。
制服はなんだか堅苦しくて、あんまり長い間着ていたくない。
だから俺は家に帰ってきてすぐに着替える。
でも、狭山はこんなことを感じることすらできなかったのかもしれない。
そう思うと、何とも言えない気持ちになった。
俺は制服を持ったまま、立ち竦んでいた。
学ランをただ、見つめているだけだった。
そんな俺を、本から視線を移した母親が不思議そうに眺めていた。
「どうしたの?ボーっとして」
「あ、いや。なんでもない」
本をぱたんと閉じて、こちらに向かって歩いてきた。
そして、おでこに手を当てた。
「熱は...ないっぽいけど」
「だから、大丈夫だよ。そんな心配しないで」
俺は母親から距離を取る。
ただ、少し思うことがあっただけだから。
そんな俺を、不安そうに見つめる母。
そして、口を開く。
「つらいことがあったら、言いなさいよ。千尋みたいに、光太郎もなったらって思うと母さんは...」
「やめて」
俺は無意識のうちに声を上げていた。
千尋とは、姉さんの名前だった。
「姉さんのことを、思い出させないで」
鋭い声で、母親に言う。
これ以上、思い出したら俺は、もう。
「でも、光太郎は千尋のこと...」
「うるさい!!それ以上、話さないで!!」
俺はリビングを飛び出した。
後ろから俺を不安そうに眺めている母親の姿が視界の隅に移っていた。
俺は自分の部屋に入って、ベットに飛び込んだ。
母親が言おうとしていたことは、わかる。
あの後に、どんな言葉が続くかっていうことくらい、わかる。
俺は、姉さんのことを忘れきれてない。
その事実が俺の心に重くのしかかる。
ベットに沈み込んだまま、俺は動く気になれなかった。
今日は、姉さんに囚われてばかりだ。
狭山の前でも、母親の前でもおかしな立ち振る舞いをしてしまった。
どうして、こんなにも姉さんが頭に浮かんでしまうのか。
なんども、なんども後悔してはつらい思いをする。
それの繰り返しだった。
そんな思いをするくらいなら、忘れたらいい。
何度、そう思っただろう。
記憶をなくす方法があるなら、教えてほしい。
本当に、そう思ってしまうほどだった。
これ以上、あの無残な姉さんのことを思い出したくなかった。

まぶしさを感じて、目を開けた。
太陽の高さと場所が変わって、ちょうど俺の顔に日光が当たる位置に来た。
いつのまにか、眠ってしまった。
時計を見ると、短い針は5と6の間に来ていて、長い針は8と9の間に来ている。
変な時間に寝てしまったな。
俺は体を起こして、一度伸びをした。
ぽきぽきっと肩や背中からいい音が鳴った。
立ち上がって、リビングに向かう。
部屋の扉を開く。
その先にある空間から人の気配は感じられなかった。
そういえば、母親は午後出勤だと言っていたな。
そう思いながら、寝ぐせの付いた頭をかきながら歩く。
リビングに入っても誰もいない。
食卓を見ると、ラップがかけられている夕食があった。
つまり母親の帰りは遅くなるということか。
忙しいのに、わざわざ作ってくれていて感謝しかない。
さっきは少しひどいことを言ったな。
一時の感情の高まりだったが、そんなことは関係ない。
家に帰ってきたらしっかりと謝ろう。
そう決意した。
俺はソファーに座った。
さっき母親が座っていた場所と同じところに。
俺はこの場所に座りながら考えた。
母親は、どんな気持ちなんだろうって。
大事な娘があんな思いをして、大切な夫を亡くした。
そんな、心が抉られてばかりの人生をどう思っているのか。
俺の父親は、俺が生まれて数か月で亡くなってしまった。
原因は交通事故だった。
仕事場に出勤するとき、父親は自転車を使っていたらしい。
いつも安全運転をしていて、いつもやる気いっぱいで出勤していく父親。
新しく生まれた俺を養うために張り切っていたんだろう。
父親は、信号のある交差点を通る。
青信号になって、ペダルを踏みこんだ。
その時、信号を無視し完全に速度オーバーの速さで車が突っ込んできた。
父親は必死になってよけようとしたが、その努力もむなしく吹き飛ばされてしまった。
そして、地面に激しく頭を打ち付けて即死した。
それが母親から聞いた、父親の事故の内容だった。
母親はそこから俺と姉さんを女手一人で育ててきた。
俺たちに何不自由なく育ててくれた。
そのおかげで、俺たちはここまで成長ができた。
自分で言うのもなんだが、俺たちは母親の宝物といってもいいだろう。
夫という大きな存在を亡くした今、その分の愛情は俺たちに注がれた。
いつまでも、三人で笑いあえる日々が過ぎていくのだと思っていた。
でも、そううまくいくはずがなかったんだ。
とあるきっかけで、俺は姉さんを亡くした。
その時の、母親の悲しみ方は見ていられないものだった。
葬式も、ものすごく悲しんでいた。
でも、涙は流すことはなかったんだ。
ずっと下唇をかんで、俯ていた。
俺は、人目をはばからず泣いていた。
そんな俺のことを、母親はずっと俺の背中を撫で続けてくれた。
私が守ってあげるからって、何度もつぶやきながら。
俺はそんな風に泣き続けて、家に帰ってきてすぐに疲れて眠ってしまったんだ。
ふと、深夜の二時ごろに何かの声に目を覚ました。
それはリビングから聞こえてきていた。
俺は静かにそこへと向かうと、ソファーの上でうずくまっている母親がいた。
プルプルと背中を震えさせながら、泣いていた。
その時に俺は初めて知った。
あの場で泣かなかったのは、俺を不安にさせないためだったんだっていうことに。
俺は、そんな母親に近寄った。
そして、頭を撫でた。
その時に俺がいることに初めて気が付いたのか、驚いた表情を張り付けた顔をバッと上げた。
「あ、ごめんね。うるさかったよね...」
母親の目の下は、赤く腫れていた。
俺は、姉さんに教えてもらったことを守らないといけないって思った。
だから言ったんだ。
「母さんは、俺が守る」
俺は母親は真正面から見て、そう告げた。
俺はいつでも守られてばかりだった。
姉さんも母親も。俺のことを守っていてくれた。
そして母親が傷ついている今、そんな母親を守ることができるのは俺だけなんだ。
母親は大きく目を見開いた。
その眼から、透明な雫が一滴頬を流れ落ちた。
そして俺のことを引き寄せて抱きしめた。
「ありがとう、本当にありがとう...」
母親は涙を流しながら、なんどもありがとう、と言っていた。
その時の俺には、その感謝の言葉の意味をくみ取ることができなかった。
でも、今ならわかるんだ。
何に対してのありがとうなのか。
なんで泣いていたのか、すべてがわかるんだ。
そんな考えに耽っていたら、いつの間にか太陽は姿を消していた。
お腹もすいてきたし、母親が作ってくれた夕食を温めて食べるか。
俺はソファーから立ち上がった。
そしてラップがかけられている料理を手に取った。
そして電子レンジに向かおうとしたとき、料理の皿の下に何かあることに気が付く。
それは二つ折りにされている紙だった。
俺は一度料理をテーブルに置き、その紙を広げた。
そこに書いてあったのは、メッセージ。
『光太郎へ
お昼はごめんなさい。余計なお世話だったよね。でも、言った様に光太郎にまで何かあったら、母さんはおかしくなってしまいます。それだけは、いやなんです。大切な宝物を二つも亡くして、光太郎までって考えると...
思春期で、母さんに相談しにくいことはわかっています。思春期っていうのは、そういう時期だから。でも、一人で抱え込みすぎないでほしいです。母さんがだめなら、違う人でもいいです。学校の先生やお友達、光太郎の周りにはきっといい人がたくさんいます。なので、辛いときは無理しないでくださいね
母より』
俺はこの手紙を読んで、心が痛くなった。
こんなに俺のことを思ってくれていて、どれだけ苦しい思いをしてきたか。
本当につらいのは、俺じゃない。
母さんのはずなんだ。
ともに人生を歩んでいくと決めた人を亡くし、そんな大切な人との間で生まれた子宝も亡くした。
それなのに、俺はどんだけ自分勝手だったんだ。
「ごめん、母さん...本当に、ごめん...」
俺はそこにいないはずの母さんに何度も謝った。
手紙の下の隅っこに、まだ何かが書いてあるのに気が付いた。
『PS
今日はみんなが大好きな、唐揚げだよ。光太郎も、千尋も、お父さんも大好きだったんだよ。もちろん母さんも好きだよ。光太郎、一緒に唐揚げを食べてるときはすごく笑顔だったもんね』
違うよ、母さん。
唐揚げは、普通に好きなんだ。
でも、あれは。
母さんと食べるからこそ、一番好きだったんだ。

俺はリビングのソファーに座っていた。
今は夜の十一時を過ぎたころ。
いつもこの時間帯は自分の部屋にいて、勉強したりゲームしたりしている。
でも、今日はそうしていられない。
自分の気持ちを、しっかりと母親に伝えないといけないんだ。
かといって、何もしていないのも退屈だ。
そう思い回りを見渡すと、いつも母親が読んでいる大き目の雑誌を見つけた。
それはファッション関連の雑誌だったが、俺は違和感を覚える。
母親はあんまりそういう服などに興味などない。
なのに、なんでこんな雑誌を読んでいるのか。
俺はそれを手に取ってみた。
すると、それは見た目に反して相当重かった。
なんでこんなに重いんだ?
その本をよく見てみると、雑誌の間にもう一つ何か本が挟まっている。
雑誌を開いて、その本を取り出してみる。
それは本ではなく、アルバムと書かれたものだった。
俺はそれをゆっくりと開いてみた。
一ページ目に、多々親と母親の結婚式の写真が貼られていた。
二人とも若い。
その写真の下に、1998年4月8日と日付が書いてあった。
きっと結婚した日だろう。
そしてそれは、今日に日付でもあった。
今日、2023年4月8日。
25回目の結婚記念日。
写真に写っている二人の顔は、幸せに満ちている。
ページをめくると、二人の新婚旅行の写真があった。
これはおそらくオーストラリアだろう。
左側のページにオペラハウスやコアラ、それにウルルの写真もある。
そして右のページ一面に貼られているウルルの夜空を背景に寄り添って座る二人。
その表情は後ろを向いていて見えない。
でも、間違いなく幸せであることはわかった。
その次のページには、母親が赤ん坊を抱いて、父親が泣いている写真があった。
その赤ちゃんはきっと、姉さんだろう。
姉さんが初めて立った時、姉さんが初めて歩いた時。
その一つ一つがアルバムには刻まれていた。
そして、俺が生まれた。
姉さんが俺のことを抱いて、にこにこ笑っている写真。
俺がテーブルにつかまって立っている横で、ジャンプして喜んでいる姉さん。
俺の手を引いて、公園の中で遊んでいる写真。
一つ一つの思い出が、俺の頭の中によみがえってくる。
そのたびにあふれ出るなつかしさ。
なぜか、涙があふれて止まらない。
俺とけんかして、二人で泣いている写真。
遊園地に行って、観覧車で撮った写真。
姉さんが、高校に合格した時の写真。
だめだ。見れば見るほど、懐かしさで感傷的になってしまう。
母親は、これをずっと見ていたんだ。
なんだよ、忘れられてないのはどっちだよ。
俺は少し、笑みがこぼれた。
すると、ガチャリと扉が開く音が聞こえた。
母親が帰って来たんだ。
「あれ、光太郎?なんでリビングに...ってどうしたの!?」
泣いている俺のことを見て、母親は俺に飛びついてきた。
「どうしたの!?どこか苦しいの!?」
俺はううんと首を振った。
そして、涙を拭いてから言った。
「さっきはあんなこと言ってごめん。そして、結婚おめでとう、母さん」
俺はできる限りの優しい笑顔で言った。
母親は驚いたように口を押えていた。
それから少しずつ、その顔が崩れていった。
涙が一粒、二粒と頬を流れている。
それから、思いっきり破顔した。
「いいのよ、私も悪かったんだから」
そして、と言葉をつなげた。
「ありがとう。私は誰よりも幸せだわ」
今この空間は、俺と母さんだけのためのものだ。
ありがとうって言いたいのは、こっちなんだけどな。
俺は涙を流す母親の頭に手を乗せた。
それはまるで、姉さんの葬式の日のようだった。

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