4月上旬、学生の中での世間では新年度シーズン。
皇雅が通う学校…桜津高等学校に、新しい教師が赴任した。
藤原美羽(22)。
肩に乗るくらいに伸びた黒髪で170㎝はある長身の彼女は、先月まで大学生だった新米教師だ。彼女が受け持つクラスは、3年7組のクラスだ。受け持つとは言っても、副担任の枠ではあるが。
受験を控えた年でもあり他の進路のことなど色々大変な年でもある高校の三年目。その学年のクラスのうち一つを、副担任とはいえ最初のクラスとして受け持つことになって、とても緊張して不安モードの美羽だったが、彼女が受け持つクラスの担任の教師が、学年主任で教師歴二十年のベテラン教師であり、彼のお陰でどうにか不安を消せるようになった彼女であった。
美羽が新任教師でありながら3年のクラス担任に選ばれたのは、年が近い分、勉強や進路のことを気軽に相談しやすいと学校側の取り組みによるものである。
始業式の日、彼女が補佐するクラスの担任―浜田剛先生の後について行き、7組の教室の扉の前に立つと、再び緊張が走る。
この時が、美羽にとって人生初の先生側としてのホームルーム。そしてここから始まる教師人生。期待と不安に駆られている私に浜田先生に気負うな、と声をかけられて落ち着きを取り戻し、いざ教室に入る―――
入室した私を待っていたのは、好奇な目で私を見る生徒、美人教師だーってハイテンションで声を上げる男子生徒(女子も混ざってた)ばかりだった。
中にはこちらを一瞥して窓の外を眺めている生徒もいたが、気にする間もなく、自己紹介に入る。
短縮授業を終えた放課後、私はクラスの生徒たちに質問攻めをくらっていた。
どこから通っているのか、大学はどんな感じだったか、彼氏はいるのか、受験期に入ったらどう過ごせばいいのか、高校生の頃はどんなだったのかなど、とにかく色々質問された。彼らの質問に丁寧に返していると、クラスの中心にいる大西君が、次の日曜日に私を入れての進級祝いおよび私の歓迎会をやろうという話になった。
今時の高校生はこういうことしてくれるのかと驚きつつ、週末は特に予定無いので、生徒たちの厚意をありがたく受け入れた。
この時、教室にはまだクラスの全員が帰っていないものだと思っていたので、一人既に教室から抜け出していたことに、私は気付かなかった。
日曜日、最寄駅の近くにあるアミューズメント施設で遊ぶことになった私たち。驚くことに、クラス全員が集まってくれていた。全員固まって移動すると他の利用者の邪魔になるので、4つグループに分かれて私がそれぞれのグループにローテーションしていく形でみんなとふれあった。
最後のグループ…大西君と彼と特に仲が良い生徒たちと遊んでいる時、赴任初日でクラスの顔と名を全員把握していた私はここでようやく、今日の歓迎会である生徒だけがいないことに気付いた。
そのことを大西君に訊くと、彼らは一瞬顔を顰めて答えた。
(甲斐田のことすか?あ、あいつは...具合悪いって言うんで、欠席っす)
どこか歯切れ悪く答えたきり、ここにいない甲斐田君のことは触れることはなかった...。
翌日の授業日。ホームルーム時に浜田先生が朝の挨拶をしている傍らで教室を見渡して目的の人物を探す。そして窓側の最後尾の一つ前の席に彼…甲斐田皇雅を見つけた。
彼は窓の外を退屈そうに眺めていて先生の話をまるで聞いていなかった。ホームルームが終わり先生が退室してからは、机から1限目で使う教科書と読書用の本を取り出してそれを読み始めた。
特に気になる点は無かったので、私は浜田先生に続き教室を後にした。
昼休み。お昼を一緒にと誘ってくれた安藤さんや鈴木さんと、教室でお昼にしていた時のこと。
料理をするかしないかの話に花を咲かせている中、私は甲斐田君の席を見やる。そこに彼の姿はなかった。
安藤さんにクラスのみんなは昼はいつも教室で摂っているのかと聞くと、基本みんなはここか食堂かで食事するらしい。2年生の時のクラスのまま進級したからか、皆それぞれグループを作っているため一人でいることはないらしい。
じゃあこの前の遊びで欠席だった甲斐田君は?と聞くと、安藤さんたちは急にテンションを低くさせてしまう。彼のことは、このクラスではタブーだったのだろうかと思い、それ以上訊くことはしなかった。
周りの生徒たちも、甲斐田の名を聞いた瞬間空気が悪くなったきがした。
(昨日の大西君といい、今の反応といい、甲斐田君のことになるとどうしてこんなに空気が悪くなるのだろう...)
放課後、そのことを浜田先生に尋ねてみたら、先生もどこか気まずげに答えてくれた。
(甲斐田は...去年のある出来事をきっかけに、クラスで孤立してしまっているんだ。俺は去年、彼の担任ではなかったから詳しくは知らないのだが、当時は職員会議でかなり厄介な案件として扱われてたそうだ。
甲斐田は自分に降りかかる火の粉は自力でかき消すような生徒らしくてね。だから虐めなどの報告は挙がらずに済んでるのはいいのだが……。
いかんせん彼の態度が災いして、新学期早々からクラスでずっと孤立してしまっている。担任の先生の俺も、この件にはけっこう手を焼いていてね)
あのクラスにそんな過去があったとは微塵も思っていなかった私は、驚愕したのと同時に悲しくも思った。そんな私に、浜田先生はこんな頼み事をしてきた。
(藤原先生...新任早々こんなことを頼むのは重く難しいかもしれないが、甲斐田のこと、気にかけてあげてほしい。
彼を無理にクラスの輪に入れるようなことはしなくていい。彼らとの溝はそれだけ深いものだからな。
甲斐田の相談相手、雑談でも良い。あのクラスの中でせめて一人だけでもそういう人がいれば、彼にとって少しは助けになれると考えている。もちろん俺もできる限りのことはするつもりだ)
浜田先生の頼み事を私はもちろん引き受けた。
生徒に勉強を教えることだけが先生の仕事ではない。むしろ、こういう問題を抱えている生徒の助けになって、できれば解決してあげるのが本業なのだと、考えている私だ。
甲斐田君もその中の一人。私が率先して彼の味方にならなければならない。
私はそう決心した。
けれど、彼はクラスで一人ぼっちでも、味方がいなくても、全く気にしなくて平気で、ちっとも苦しんでいないということには、まだ知らないでいた...。
翌日から、私は周囲に誰もいないタイミングで甲斐田君に声をかけた。こういう子に接触する時は、周囲に誰もいない時の方が良いと分かっているから。
(甲斐田君!苦しくて辛いと思ったら私に打ち明けて良いからね。私は、君も見てるからね!あと、合うか分からないけど趣味とかの雑談にも付き合えるから!)
出会い頭にこんなこと言われた彼は、「?」と訝し気な視線を寄越して軽く会釈して去って行った。
いきなりだったかなと思ったが、とりあえずファーストコンタクトはこれで良いかと納得させる。
その翌日も、誰もいないタイミングで甲斐田君に声をかけて、勉強はどうか?この時期になると部活での大会もうすぐ?など学校のことや、休日はどう過ごしてる?本はどんなもの読むの?などプライベートにも少し踏み込んだ雑談に挑戦してみた。もちろん先に私の方から色々彼に明かした。
無視するのは悪いと思ったのか、甲斐田君は初めは渋々といった感じで学校のことを、だが日を重ねるごとにプライベートのこともよく答えてくれるようになった。
(成績席次1位!?凄い!勉強よく出来るんだね!)
(陸上部短距離...ええ!?100m10秒以内で走れるの!?200mは...ゴメン、あまり分からないや...)
(ラノベ...聞いたことあるけど私読まないかなぁ。おススメ教えてくれない?
―————ふーん!?どれも面白そうな作品ね!)
(そっか...クラスのみんなと遊んだあの日も、家で読書やゲームしてすごしてたんだ。あ、そのゲームなら私も今遊んでる!対戦中々勝てなくて...えっ、レート2100まで達成したの!?パーティ編成と戦略のコツ教えてよー!)
などと、私なりに甲斐田君との距離をどんどん縮める為の会話イベントをたくさん起こしていった。
その頑張りが功を奏したのか、いつしか彼の顔から警戒とか無関心とかが貼りついたような負のオーラが消えていく感じがした。
それにしても、甲斐田君のスペックが凄い...。文武両道で(大学は偏差値高めの私大狙いで部活はインターハイ出場期待されているレベル)ラノベや漫画への愛が深く、ゲーム強い。中々いない男子高校生である。
ある時、昼休み一緒に食事どうかと誘ったのだが、意外な答えが返ってきた。
彼は部活仲間たちと食事しているとのこと。しかも後輩とも一緒の時や、たまに後輩女子とも一緒の時もあったりとか。
私はこの時になってようやっと気づいた。彼はクラスでは孤立しているが、学校全体でみると、ぼっちでも孤立無援でもないということ。ちゃんと気の知れた仲間がいるのだということを。私は勘違いしていたのだ。
それを察したのか、甲斐田君は私を見てこう言った。
(だからさ、俺は全く学校生活に困っていない。部活があるから。あの“鳥かご”では確かに問題児に見えるかもしれないけど、あそこ以外での俺は、うまくやれてるから、大丈夫ですよ。あんなクラスなんて、もうどうでもいいと思っていますから)
その目は、初めて見た時の、全てがどうでもいい、諦めさえ感じられるもののそれだった。
私と会話している時も、甲斐田君が楽しそうに笑ったりするところ、笑顔になってるところさえ見たことない。まだ、私には心を完全に開いてくれてはいないのだろうか。そういうことを少し聞いてみたら、
(藤原先生とのああいう会話は面白いと思ってますよ。俺の趣味内容をこうして誰かと生で話し合える人は今まで全くいなかったから。だから、“感謝”してますよ)
と答えてくれた。
感謝...彼からそんな言葉が出てきた時は嬉しく感じられた。私は彼の良き話し相手になれていて助けになっていたと、そう思えた瞬間だった。
だからこそ、私は残念に思う。話してみるととてもいい子なのに、クラスではあんなに孤立しているのだから。彼はもうクラスと和解する気は無いらしく、浜田先生も匙を投げた状態だ。ここで無理に和解させようと動いたら却って傷を深く広げるだけかもしれない。
それに、未だに甲斐田君の笑顔を見られていないことも、何とかしたいと思った。
6月中旬。この日は高校陸上の地方規模の大会...インターハイ出場がかかった大会だ。その大会に、甲斐田君が個人種目とリレーに出場する。
顧問でもない私は陸上部の顧問にお願いして同伴させてもらって応援観戦した。
甲斐田君は個人種目(200mだった)で入賞―インターハイ出場を決めた。さらにリレーも出場枠ギリギリの順位でゴールして同じく出場を決めた。
その時私は見た。彼の―—
甲斐田君の歓喜に満ちた、生き生きとした笑顔を。
同じ3年の部員たちと肩をたたき合って喜ぶ姿、後輩男子たちに尊敬され慕われている様子、後輩女子から熱っぽい視線?...で見つめられていたりなど。そういった光景を見た私は、安心した。
ああ、これなら大丈夫だと。こんなに喜びを分かち合えて、感情を表に出せる仲間がいるなら、彼はもう心配無いじゃないかと。
クラスのことは残念だけど、それは私が色々支えてあげよう。
大会が終わり、顧問が来るまでの間、3年生男子に甲斐田君のことを聞いてみた。クラスのことは皆知っているようで、その上で全員彼から離れようとはしていなかった。
甲斐田君の、熱心な練習態度や後輩の面倒見の良さを間近で見てきた彼らは、彼の内面をある程度分かっているようだった。後輩たちも同様な意見だった。約1名、どこか恥ずかし気に照れながら話してくれた子もいたけど...。
集合解散した後、女子部員たちにつかまって色々会話に花咲かせていると、甲斐田君が一人帰って行く姿を目にする。一人だけど独りではないと理解している私は、その背を微笑ましい目で見つめていた。
週明けの全校集会で、甲斐田君が校長先生に大会の表彰授与されたのだが、授与後に生徒たちは拍手を送ったのだが、30数名、彼に拍手を送らなかった子たちがいた。3年7組、担任クラスの子たちだ。その光景を見た私は、やっぱり心が痛んだ。クラスメイトの活躍に対し何もリアクションしないなんて。教師陣は事情知っているのか、拍手しながらも苦々しい顔を浮かべていた。
ただ、7組の中に音を立てずに拍手の動作をしている子がいた。高園さんだった。彼女なら、甲斐田君と和解できるかもしれない。せめて彼女だけでも甲斐田君と仲良くしてくれるよう、今度コンタクトを取ろう。
この時点での私は、甲斐田君の内面を理解したつもりでいた。
だが彼にはまだ誰にも見せていない内面があった。私も、部活仲間さえも知らない恐ろしく黒い内面があることを、知らないままでいた。
そして翌月のあの日、私と7組の生徒全員が眩しい光と妙な紋様に包まれながら、別の世界へ召喚されて―—