「あらぁ、零ちゃん!」
 厨房で目を丸くしたのは、咲だった。
「電話してよー。美也、今日は帰っちゃったわよー。」
「え、そうなの?」
 思わず身体がこわばった。絶対会えると思ったのに。
「うん、昨日から風邪気味でね。熱出てきたみたいだから、こりゃ、だめだってんで、帰らせた」
「そうかあ……」
 がっくりといつもの椅子に腰掛ける零を咲は申し訳なさそうに見つめた。
「ごめんね」
「ううん、いいよ。おれこそ急にごめん」
 零はかぶりを振った。
「おばさん、美也にスマホ持たせてやってよ」
「うん、いつもそう言ってるのよ。いまどきさ、スマホ持たない子っていないじゃない? でも、絶対嫌だって。零の声、しょっちゅう聞けるようになると、余計辛いって」
 咲は忙しそうに手を動かしながら答え、零はため息をついてうなずいた。
「早く結婚しちゃいなよ。だめかなあ?」
 彼女の言葉に思わず顔をあげた。優しげな笑みが見えた。
「普通、こんなこと女の子の親から言わないよ?」
「そうだよね」
 零は目を伏せた。
「ごめんね、おばさん」
「やだ、ちょっと、半分冗談よ?」
 咲はそれを見て少し慌てたように言った。
「夕食、食べるんでしょ? ごはんものがいい? ピラフにしようか?」
「うん」
 そう答えて思い出した。
「あ、そうだ。おばさん、ええと……」
 厨房の隅から控えめに店の中に顔を覗かせる。キリエはどこだろう。ぐるりと見回してみたが、前に会ったときのような少女の姿が見当たらなかった。普段着だったとしても、黒く長い髪だからすぐに分かると思っていたのに。
「あれ…… まだ着いていないのかな……」
「誰かと待ち合わせしてたの?」
 零の視線を辿って咲が不思議そうな顔をした。
「ウン、仕事のさ……」
 そうつぶやいて、スマホを取り出した。さっきの着信を呼び出してコールを押す。
 すぐに自分の耳に聞こえるのと同期して、電話の鳴る音が店の中で聞こえた。
 また顔を出すと、隅の席でスマホを耳にあてる人影が視界に入った。大きなキャスケット、ベージュ色のくたくたになったロンT、だぶだぶの穴の開いたジーンズ、まるで男の子だ。まさか、と思ったとき、耳元で声が聞こえた。
「キリエです」
「そりゃ、わかんねぇわ」
 零は言った。
「おばさん、悪いけど、あの子、こっちに呼んでもらっていい?」
 咲は零の指差すほうを見て、いいよ、というように笑みを浮かべた。
 女ってわかんないなあ。
 ぺこりと頭を下げて厨房の奥に入ってきたキリエを見て零は半分呆れていた。
 前に会ったとき、彼女は似合う似合わないは別にして、割と都会的な雰囲気だった。それはシンガーソングライターとしての彼女のイメージを大切にしたものだったのだろうが、今、目の前に立つ彼女はどこをどう見ても身なりに構わない男の子みたいな少女だ。薄い唇にリップクリームすら塗っていない。長い髪はキャスケットの中にたくしこんでしまっていて、細い顎が剥き出しになっている。
「すみません」
 彼女はそう言って、零の顔を見るなり白いビニールの袋を突き出した。
「あ、いえ。気を遣ってもらってどうも」
 受け取るとずっしりと重かった。
「おもっ……」
 思わず中身を見る。
「これ全部キムチ?」
「ええ。1キロ。キムチ嫌いですか?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
 1キロ……。1キロのキムチ、どうやって食い尽くせばいいんだ。あ、藤谷さんにあげればいいか。と、いうか、この子、ずーっと1キロのキムチ下げて歩きまわってたのか。
「ほんとに、この間はすみませんでした。それじゃ」
 そそくさと帰りそうになったので、慌てて呼び止めた。
「あ、メシまだなんだろ?良かったら一緒に食って行けよ。奢るよ。」
 それを聞いたキリエの口が意外そうに開かれた。
「おれ、ここでしか食べられないけど、それで良かったらつきあってよ」
「いいんですか?」
「用事あるんだったら、無理にとは言わないけど」
「いえ、嬉しいです」
 キリエは本当に嬉しそうに顔をほころばせた。細い顔の笑顔が小学生の頃一緒のクラスだった男の子に似ているように思えて、零は思わず笑みを浮かべた。
「おばさん」
 零は言った。
「この人にもピラフ、お願いしていい?」
「いいよー。もう、作ってるし」
 咲は厨房から笑って答えた。
 零とキリエは顔を見合わせると、同時に笑みを浮かべた。