結局、そのあとは何もできずにキリエと別れることになった。
 賀州は何度も藤谷と零に申し訳ないと頭を下げた。
 キリエは約2週間韓国にいることになる。もう一度お互いの時間を合わせるのは、3週間後になるだろう。本当は今日中にある程度方針を見極めておきたかった。スケジュールがタイトになるが、しようがない。
 零は早速彼女から連絡が入るのではとびくびくしていたが、一週間たってもスマホが鳴ることはなかった。自分も忙しくなって、それどころではなくなった。
 美也の顔が見たいと思いつつ、『ペンギン』に行くこともできなくなっていた。
 せめて美也の声が聞きたい。美也はいったいいつになったらスマホを持つ気になるだろう。
 そして一息ついたのは10日後だった。
「忙しかったねえ」
 藤谷がどっかりと事務所の椅子に腰掛けてつぶやいた。
「ほっとしたいところなんだけど、明日は『晴れハレ!』の収録と夜はラジオの生番だよ」
「ウン、知ってる」
 手帳を見て言う藤谷の顔をちらりと見て零は答えた。
「ねえ、申し訳ないけど何とかバラエティだけは避けてもらえない? おれ、すっごい苦手なんだ」
「分かってるけど、あそこのプロデューサー、『音楽船』に押してくれた恩義があってさ。今回は我慢して」
 零は渋々うなずいて立ち上がった。
「『ペンギン』でメシ食ってくる。藤谷さんも行く?」
「いや、おれ、今夜は嫁さんが待ってくれてるから。2時間くらいしたら帰る」
「じゃ、おれはタクシーで帰る」
 零は答えた。久しぶりに美也とゆっくり話がしたかった。店が混んでなければいいけれど。
「美也ちゃんによろしくな。おれ、いつか美也ちゃんに怒られそうだわ。零をあんまりこきつかうなって」
 藤谷の言葉に小さく笑って、零は事務所をあとにした。
 スマホが鳴ったのは、エレベーターに乗ろうとしたときだった。画面に映った番号を見て、覚えがないな、と首をかしげ、ふと思い当たって慌てて出た。
「はい」
 一瞬の沈黙のあと、相手の声が聞こえた。
「あの…… 零さんですか? キリエです」
「ああ、うん。日本に帰って来たの?」
 キリエの声は前より元気そうだった。
「ええ、昨日。今日、オフだったんです」
「そう。お疲れさん」
「あの……」
 少しためらいがちな声になった。
「今からお会いできませんか?」
「今から?」
 思わず不機嫌そうな声になったかもしれない。
「あ、すみません、やっぱり無理ですよね」
 キリエは慌てて言った。
「この間、失礼をしてしまったので、韓国でのお土産を渡そうと思って……」
「土産?」
「ええ、キムチ」
「……」
 唖然としてから、笑い出しそうになった。お詫びのしるしがキムチかよ。
「今どこにいるの?」
「今ですか?」
 少し声が遠のいた。顔をめぐらせているのかもしれない。
「零さんの事務所、このへんかなあと思って来てみたんですけど、よくわかんなくて……。零さんだめだったら、事務所の人に預けようかと思ってて……」
「近くに何か目印になるものある?」
「ええと……」
 再び声が遠のく。
「お花屋さんと、薬屋さんがあります。あ、それとペンギンの書いてある看板と……」
『ペンギン』だ。零は思わず息を吐いた。
「じゃあね、そのペンギンの看板の店に入ってて。カフェだから。おれもすぐ行く」
「あそこ、カフェなんですか。雑貨屋さんかと思った」
「あ、それと……」
 零は慌てて付け加えた。
「おれ、オモテから入らないんだ。いつも裏口からで。キリエさんは大丈夫なの? 人目につくとまずいんじゃない?」
 耳元にふっと彼女の笑う声が聞こえた。
「わたしの顔、あまり知られてませんから。それに、普段着だと全然分からないみたいなの」
「そう。じゃあ、着いたらお茶でも飲んでて。おれが行ったらお店の人に呼んでもらうから」
「はい」
 電話を切ってエレベーターに乗り込んだ。よりにもよって美也の店で会うなんて。でも、まあ、キムチをもらうだけだし。
「キムチねえ……」
 エレベーターの中で零は肩を震わせて笑った。