「今日はとりあえず流してみるだけね。細かいところは少しずつ詰めていこう」
羽田の太い声が聞こえた。
録音用のマイクを前にして、零は横に立つキリエをちらりと見た。マイクの前に立ったとたん、顔がしゃんと前を向いている。表情もさっきのような怯えた色はない。この子、ほんとに不思議な子だ。そう思って視線を戻した。
「最初はキリエちゃんが提案したほうで流そう。次に零の構成でいくよ」
「はい」
さあ、始まった。歌詞は覚えたけど、この難題な曲、歌いきれるかな。零は緊張をほぐすように肩をあげて、ふっとそれを落とした。
何度も聞いたイントロが流れる。キリエの声が聞こえてきた。
その途端、思わず彼女の顔を見た。
ド迫力。
すげー…。生はずんと心臓に来た。歌っている横顔はお世辞にも美しいとはいえなかったが、曲にどっぷりと浸かっている様子は子ぎつねから異世界の妖精のようになっていた。細い指が何かを探し求めるように動いている。
この子は全身で歌う子なんだな……。
(あ、まずい)
自分の歌う部分が近づいてきて、零は慌てて歌詞カードに顔を戻した。
ちゃんと出ろよ、おれの声。
そして息を吸い込んだ。
零の最初のパートは約10秒ほどだ。そのあとまたキリエが入る。零とキリエが何度か交互に歌って、ふたりが揃ったあと、キリエの声で終わる。
相手と一緒にいたいと願いながら、結局報われずに終わってしまう。そんな曲だ。
歌い始めてすぐに没頭した。5秒で別世界に行った。そして10秒後。
(……?)
零は思わずヘッドフォンを手で押さえていた。キリエの声が聞こえない。
慌てて彼女を見て、立っているはずの彼女の姿がないので余計に慌てた。そして足元を見て呆然とした。
彼女はうずくまって泣いていた。
「ちょっと、休憩しようね。大丈夫、大丈夫」
慰めるような羽田の言葉を聞きながら、零は自販機のコーヒーを買いにスタジオを出た。
歌番組の収録、4時じゃなかったかなあ……。ほんとに大丈夫かなあ。
そう考えながら紙カップのコーヒーを持って戻って来ると、ロビーのソファにしょんぼりと座るキリエの姿が見えた。藤谷と賀州の姿はない。スタジオ内で羽田とどうしたものかと相談しているのだろう。
束の間戸惑ったが、キリエに近づいた。
「気にしなくてもいいよ」
そう声をかけると、弾かれたように彼女の顔がぱっとあがった。そして見る間に真っ赤になった。
「すみません……」
彼女はそう言うと、再び顔を俯けた。
「どうしたの? 最初は歌ってたじゃん」
そう言いながら横に腰を降ろすと、キリエはさっと身体をこわばらせた。
なんなの、この子。
そう思ったが、顔には出さなかった。
「いい声出てたよ。昨日聞いたときもいい声だなあって思ったけど、生はもっと迫力だった。何が気に入らなかったの?」
コーヒーを口に運びながら彼女を見る。
「違います」
キリエは言った。
「え?」
零のカップを持つ手が止まった。
「零さんの声聞いたら、心臓が止まるかと思ったんです」
そう言うなりキリエの顔がこちらを向いて、少しぎょっとした。泣いたために細い目がさらに腫れぼったくなっている。
「零さんの声、すご過ぎて、歌えなかった。ごめんなさい」
「……」
零は困惑してキリエから目を逸らせた。
「歌わなきゃいけないのに、歌えなかった……」
キリエは涙声で言った。
「まだ初回だし、時間あるし、気にしなくてもいいよ」
キリエはかぶりを振った。黒い髪がぱさぱさと揺れる。
何をどう慰めていいものやら分からず、零はしかたなくコーヒーを飲んだ。
しばらく沈黙が続いた。
「零さん、お願いがあるんです」
彼女の言葉に目を向けると、キリエはせわしなく小さなバックの中を探ってスマホを取り出した。
「これ、わたしの番号。お願い、零さんのも教えて」
「は?」
自分の前に開かれた小さな画面を見て、零は呆気にとられた。
「わたしは自分の声を取り戻すの。だから、お願い、力を貸して」
彼女、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。忙しすぎてノイローゼになってるとか。
そんな思いが頭をよぎった。
「小野さん、ちょっと疲れてるんじゃない? 明日韓国に行くんだろ?」
零がそう言うと、キリエの顔に失望の色が浮かんだ。彼女は唇を噛むと零から目を逸らせて顔を俯けた。細い鼻に涙が伝ってぽたりと膝の上に落ちた。
困ったなあ……。
零はちらりとスタジオのほうを見た。藤谷が出てきてくれないだろうか。賀州はどうして彼女を放っておくんだろう。
「あ、ええと……」
弱りきって、零はジーンズのポケットを探った。スマホと一緒にハンカチが出てきたので彼女の手の上に乗せた。
「使ってないから」
そう言うと、キリエはぺこりと頭を下げた。それを見て、彼女が握り締めているスマホをとりあげた。画面はもう待ち受けになってしまっている。
しばらくためらったあと、零は自分のスマホで番号を出すとキリエの前に差し出した。
「はい」
腫れぼったい目がこちらを向いた。
「いいんですか?」
「教えてと言ったのは、きみだろ?」
「ありがとう」
初めて彼女は微かに笑みを浮かべた。
「出られないことは多いと思うよ。それでいいなら」
「ありがとう」
彼女はもう一度そう言うと、手早く入力してスマホを抱きしめるように自分の胸元につけた。
まあ、初めての仕事だし、何度かお互いの曲づくりについても時間外に話し合っておくのもいいだろう。
その時はそんなふうに考えた。
羽田の太い声が聞こえた。
録音用のマイクを前にして、零は横に立つキリエをちらりと見た。マイクの前に立ったとたん、顔がしゃんと前を向いている。表情もさっきのような怯えた色はない。この子、ほんとに不思議な子だ。そう思って視線を戻した。
「最初はキリエちゃんが提案したほうで流そう。次に零の構成でいくよ」
「はい」
さあ、始まった。歌詞は覚えたけど、この難題な曲、歌いきれるかな。零は緊張をほぐすように肩をあげて、ふっとそれを落とした。
何度も聞いたイントロが流れる。キリエの声が聞こえてきた。
その途端、思わず彼女の顔を見た。
ド迫力。
すげー…。生はずんと心臓に来た。歌っている横顔はお世辞にも美しいとはいえなかったが、曲にどっぷりと浸かっている様子は子ぎつねから異世界の妖精のようになっていた。細い指が何かを探し求めるように動いている。
この子は全身で歌う子なんだな……。
(あ、まずい)
自分の歌う部分が近づいてきて、零は慌てて歌詞カードに顔を戻した。
ちゃんと出ろよ、おれの声。
そして息を吸い込んだ。
零の最初のパートは約10秒ほどだ。そのあとまたキリエが入る。零とキリエが何度か交互に歌って、ふたりが揃ったあと、キリエの声で終わる。
相手と一緒にいたいと願いながら、結局報われずに終わってしまう。そんな曲だ。
歌い始めてすぐに没頭した。5秒で別世界に行った。そして10秒後。
(……?)
零は思わずヘッドフォンを手で押さえていた。キリエの声が聞こえない。
慌てて彼女を見て、立っているはずの彼女の姿がないので余計に慌てた。そして足元を見て呆然とした。
彼女はうずくまって泣いていた。
「ちょっと、休憩しようね。大丈夫、大丈夫」
慰めるような羽田の言葉を聞きながら、零は自販機のコーヒーを買いにスタジオを出た。
歌番組の収録、4時じゃなかったかなあ……。ほんとに大丈夫かなあ。
そう考えながら紙カップのコーヒーを持って戻って来ると、ロビーのソファにしょんぼりと座るキリエの姿が見えた。藤谷と賀州の姿はない。スタジオ内で羽田とどうしたものかと相談しているのだろう。
束の間戸惑ったが、キリエに近づいた。
「気にしなくてもいいよ」
そう声をかけると、弾かれたように彼女の顔がぱっとあがった。そして見る間に真っ赤になった。
「すみません……」
彼女はそう言うと、再び顔を俯けた。
「どうしたの? 最初は歌ってたじゃん」
そう言いながら横に腰を降ろすと、キリエはさっと身体をこわばらせた。
なんなの、この子。
そう思ったが、顔には出さなかった。
「いい声出てたよ。昨日聞いたときもいい声だなあって思ったけど、生はもっと迫力だった。何が気に入らなかったの?」
コーヒーを口に運びながら彼女を見る。
「違います」
キリエは言った。
「え?」
零のカップを持つ手が止まった。
「零さんの声聞いたら、心臓が止まるかと思ったんです」
そう言うなりキリエの顔がこちらを向いて、少しぎょっとした。泣いたために細い目がさらに腫れぼったくなっている。
「零さんの声、すご過ぎて、歌えなかった。ごめんなさい」
「……」
零は困惑してキリエから目を逸らせた。
「歌わなきゃいけないのに、歌えなかった……」
キリエは涙声で言った。
「まだ初回だし、時間あるし、気にしなくてもいいよ」
キリエはかぶりを振った。黒い髪がぱさぱさと揺れる。
何をどう慰めていいものやら分からず、零はしかたなくコーヒーを飲んだ。
しばらく沈黙が続いた。
「零さん、お願いがあるんです」
彼女の言葉に目を向けると、キリエはせわしなく小さなバックの中を探ってスマホを取り出した。
「これ、わたしの番号。お願い、零さんのも教えて」
「は?」
自分の前に開かれた小さな画面を見て、零は呆気にとられた。
「わたしは自分の声を取り戻すの。だから、お願い、力を貸して」
彼女、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。忙しすぎてノイローゼになってるとか。
そんな思いが頭をよぎった。
「小野さん、ちょっと疲れてるんじゃない? 明日韓国に行くんだろ?」
零がそう言うと、キリエの顔に失望の色が浮かんだ。彼女は唇を噛むと零から目を逸らせて顔を俯けた。細い鼻に涙が伝ってぽたりと膝の上に落ちた。
困ったなあ……。
零はちらりとスタジオのほうを見た。藤谷が出てきてくれないだろうか。賀州はどうして彼女を放っておくんだろう。
「あ、ええと……」
弱りきって、零はジーンズのポケットを探った。スマホと一緒にハンカチが出てきたので彼女の手の上に乗せた。
「使ってないから」
そう言うと、キリエはぺこりと頭を下げた。それを見て、彼女が握り締めているスマホをとりあげた。画面はもう待ち受けになってしまっている。
しばらくためらったあと、零は自分のスマホで番号を出すとキリエの前に差し出した。
「はい」
腫れぼったい目がこちらを向いた。
「いいんですか?」
「教えてと言ったのは、きみだろ?」
「ありがとう」
初めて彼女は微かに笑みを浮かべた。
「出られないことは多いと思うよ。それでいいなら」
「ありがとう」
彼女はもう一度そう言うと、手早く入力してスマホを抱きしめるように自分の胸元につけた。
まあ、初めての仕事だし、何度かお互いの曲づくりについても時間外に話し合っておくのもいいだろう。
その時はそんなふうに考えた。