スタジオがあるビルに着いたとき、零は少なからず緊張している自分に気づいていた。
歌を歌うのに緊張したことなど、これまでなかった。歌えるとなると、むしろ水を得た魚のように気持ちが高揚したものだ。
「どうした? 気分でも悪いか?」
むっつりとした表情の零の顔を、藤谷が心配そうに覗きこむ。
「いや、大丈夫だよ」
零は無理矢理笑みを作ってみせた。
エレベーターで5階まであがると、ドアが開くなり藤谷は営業モードになった。
「おはようございます。遅くなりまして。お世話になります。どうも」
零はぺこぺこと頭を下げる藤谷の後ろから、スタジオ前のロビーにいた男の姿を見た。彼は藤谷の顔を見て座っていたソファから立ち上がった。いったい何センチあるんだろう。途方もなく背が高い。きっと180センチは優に超えているだろう。
「いえ、こちらも今着いたばかりで」
彼はちらりと笑みを見せた。藤谷は顔をめぐらせた。
「あの、小野さんは……?」
「ああ……」
男は再び小さな笑みを見せた。
「化粧室に行っています。申し訳ありません。どうも緊張しているようで……」
「あ、そうですか」
藤谷はそう答えると、零を振り返った。
「零、こちら、小野キリエさんのマネージャーで、賀州英二さん。賀州さん、うちの神西零です」
「どうも」
男はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと、一枚引き抜いて零に差し出した。
「賀州です。このたびはお世話になります」
零はぺこりと頭を下げると、無言で名刺を受け取った。
(ガシュウ……。変わった名前だな……)
天羽プロダクション、賀州英二。
白く、何の変哲もない紙に印刷された明朝体の文字が並んでいる。
「急なお願いで申し訳ありませんでした」
賀州が言ったので、零は名刺を見つめていた目をあげて彼の顔を見た。
「いえ……」
「もう少し早く予定を組みたかったのですが……。小野は明日から韓国のほうに行きますので、なんとかその前に一回でも雰囲気を感じていただければと思いまして……」
この人、本当に日本人なんだろうか。零は彼の顔を見つめて思った。鼻梁が高くて彫が深い。
年齢は藤谷よりは上だろうが、マネージャーというよりは、マフィアのような感じがする。濃い色のスーツを着ているせいかもしれない。少しぴりりとするような空気が彼の周りを取り巻いていた。
「この間のシングルは、二週連続で1位だったみたいですね」
そう言われて、零は慌てたようにうなずいた。こういう会話は言葉がすぐに出てこない。
「すぐ夕奈ちゃんに抜かされちゃいましたけどねー」
藤谷が助け舟を出す。零は自分の曲の順位をあまり気にしていない。
「小野さん、韓国は初めてじゃないっすか?」
「ええ、本人も少し緊張気味です。ステージに立つまでがいつも大変で」
苦笑まじりに答える賀州の後ろで、小さな影が動いた。目を向けると、小柄な少女が3人の姿を見てびっくりしたように立ち尽くしていた。
「キリエ、神西零さんだよ」
賀州の声に、彼女は面白いほどびくりと飛び上がった。そしておどおどした様子で近づいてきた。ふんわりした白のチュニックに黒い細身のパンツ。真っ黒で長くまっすぐなロングヘアが揺れる。
小さい……。写真で感じたより、ずっと小柄で華奢だ。細く尖った顔が子ぎつねを思わせた。
「お、小野キリエです。よろしくお願いします……」
彼女は消え入りそうな声でそうつぶやくと、ぺこりと頭を下げた。
本当にこの子、何度もミュージカルに出ていたんだろうか。
あの声が、この怯えたような子のどこから出てくるのだろう。
零は面食らって彼女を見つめた。
「今日はよろしくお願いします、気負わずに行きましょう」
藤谷が言ったが、それでも彼女のこわばった表情は崩れなかった。
「あの…… 曲どうでした?」
半分すがりつくような視線が零のほうを向く。
「ああ…… ええと」
いきなり聞かれて少しびっくりした。
「いい曲だと思いましたけど……」
「本当ですか」
なんだろう、この子。零は戸惑った。
「うん、でも……」
零は斜め掛けしていたショルダーバックから、昨日渡された歌詞の書かれた紙を取り出した。
「ここの歌い出しは小野さんがいいと思うけど……。ここと、ここもおれじゃなくて小野さんのほうがいいと思う。あ、あと、ここのフレーズも。そのあとおれが……」
「あっと」
そのまま話し始めそうになった零を藤谷が止めた。
「羽田さんが待ってくれてるから、あとは中でね」
「あ、すいません」
零は慌ててそう答えたあと、泣き出しそうな顔をしているキリエを見た。
まずい。余計なことを言っちゃったんだろうか。
そう思ったが、謝る機会を失った。
歌を歌うのに緊張したことなど、これまでなかった。歌えるとなると、むしろ水を得た魚のように気持ちが高揚したものだ。
「どうした? 気分でも悪いか?」
むっつりとした表情の零の顔を、藤谷が心配そうに覗きこむ。
「いや、大丈夫だよ」
零は無理矢理笑みを作ってみせた。
エレベーターで5階まであがると、ドアが開くなり藤谷は営業モードになった。
「おはようございます。遅くなりまして。お世話になります。どうも」
零はぺこぺこと頭を下げる藤谷の後ろから、スタジオ前のロビーにいた男の姿を見た。彼は藤谷の顔を見て座っていたソファから立ち上がった。いったい何センチあるんだろう。途方もなく背が高い。きっと180センチは優に超えているだろう。
「いえ、こちらも今着いたばかりで」
彼はちらりと笑みを見せた。藤谷は顔をめぐらせた。
「あの、小野さんは……?」
「ああ……」
男は再び小さな笑みを見せた。
「化粧室に行っています。申し訳ありません。どうも緊張しているようで……」
「あ、そうですか」
藤谷はそう答えると、零を振り返った。
「零、こちら、小野キリエさんのマネージャーで、賀州英二さん。賀州さん、うちの神西零です」
「どうも」
男はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと、一枚引き抜いて零に差し出した。
「賀州です。このたびはお世話になります」
零はぺこりと頭を下げると、無言で名刺を受け取った。
(ガシュウ……。変わった名前だな……)
天羽プロダクション、賀州英二。
白く、何の変哲もない紙に印刷された明朝体の文字が並んでいる。
「急なお願いで申し訳ありませんでした」
賀州が言ったので、零は名刺を見つめていた目をあげて彼の顔を見た。
「いえ……」
「もう少し早く予定を組みたかったのですが……。小野は明日から韓国のほうに行きますので、なんとかその前に一回でも雰囲気を感じていただければと思いまして……」
この人、本当に日本人なんだろうか。零は彼の顔を見つめて思った。鼻梁が高くて彫が深い。
年齢は藤谷よりは上だろうが、マネージャーというよりは、マフィアのような感じがする。濃い色のスーツを着ているせいかもしれない。少しぴりりとするような空気が彼の周りを取り巻いていた。
「この間のシングルは、二週連続で1位だったみたいですね」
そう言われて、零は慌てたようにうなずいた。こういう会話は言葉がすぐに出てこない。
「すぐ夕奈ちゃんに抜かされちゃいましたけどねー」
藤谷が助け舟を出す。零は自分の曲の順位をあまり気にしていない。
「小野さん、韓国は初めてじゃないっすか?」
「ええ、本人も少し緊張気味です。ステージに立つまでがいつも大変で」
苦笑まじりに答える賀州の後ろで、小さな影が動いた。目を向けると、小柄な少女が3人の姿を見てびっくりしたように立ち尽くしていた。
「キリエ、神西零さんだよ」
賀州の声に、彼女は面白いほどびくりと飛び上がった。そしておどおどした様子で近づいてきた。ふんわりした白のチュニックに黒い細身のパンツ。真っ黒で長くまっすぐなロングヘアが揺れる。
小さい……。写真で感じたより、ずっと小柄で華奢だ。細く尖った顔が子ぎつねを思わせた。
「お、小野キリエです。よろしくお願いします……」
彼女は消え入りそうな声でそうつぶやくと、ぺこりと頭を下げた。
本当にこの子、何度もミュージカルに出ていたんだろうか。
あの声が、この怯えたような子のどこから出てくるのだろう。
零は面食らって彼女を見つめた。
「今日はよろしくお願いします、気負わずに行きましょう」
藤谷が言ったが、それでも彼女のこわばった表情は崩れなかった。
「あの…… 曲どうでした?」
半分すがりつくような視線が零のほうを向く。
「ああ…… ええと」
いきなり聞かれて少しびっくりした。
「いい曲だと思いましたけど……」
「本当ですか」
なんだろう、この子。零は戸惑った。
「うん、でも……」
零は斜め掛けしていたショルダーバックから、昨日渡された歌詞の書かれた紙を取り出した。
「ここの歌い出しは小野さんがいいと思うけど……。ここと、ここもおれじゃなくて小野さんのほうがいいと思う。あ、あと、ここのフレーズも。そのあとおれが……」
「あっと」
そのまま話し始めそうになった零を藤谷が止めた。
「羽田さんが待ってくれてるから、あとは中でね」
「あ、すいません」
零は慌ててそう答えたあと、泣き出しそうな顔をしているキリエを見た。
まずい。余計なことを言っちゃったんだろうか。
そう思ったが、謝る機会を失った。