「小野がよく海外に行っていたのはご存知ですよね」
「ええ…… 台湾とか韓国に行かれてましたよね」
「あちらでライブはしていましたが、他のアーティストと共演もやっていたことがあるんです」
「……」
「でも、嫌がられるんです」
「嫌がられる……?」
 零は訝し気に賀州の顔を見た。
「小野の曲を歌うとついていけない。下手すると喉を傷める。別の曲を歌うと差が歴然としてしまう。だから嫌がられるんです。小野との曲とレコーディングに最後まで行きついたのは神西さんだけなんですよ」
 そう言われても零にはぴんとこなかった。確かにキリエの曲は難しいし、彼女の要望や声についていくのは大変だったけれど……
「小野は誰かと歌うと自分の中にいるものが相手の声を食べてしまう、とよく言っていたんです。これを追い払って自由になりたい、と」
「……」
「まあ、妄想というか、何かの脅迫観念なのかよくわからないのですが、精神も不安的になりがちなので病院では薬を処方されていました。歌えば歌うほど自分の中のものが具体的になってきて怖かったようです。黒い翼を持った悪魔のような女性だとか言ってましたね……」
 黒い翼…… パシンという小さな音と共に飛び散った黒い羽根。
 どうも自分と美也にしか見えなかったらしいことはあとでわかった。
『出てった…… ありがとう』
 キリエが言ったのはこのことだったのか……
「小野をあんなふうに追い詰めたのは彼女の母親です。小野の両親は彼女が幼い頃に別れています。父親は小野の親権をとりたがっていましたが、認められなかった。こうなることは分かっていたんでしょうね」
「あの…… 小野さんに会うことはできますか?」
「ご遠慮いただけるとありがたいです」
 賀州はきっぱりと言った。
「もう、音楽をやる気など全くない状態ですから」
「それって…… 引退ということですか?」
「そうです。向こうではわたしの親類が牧場をやっていますから、しばらくそこでのんびり暮らすでしょう」
 牧場…… 今までのキリエからはおよそ想像できない。
「小野さんは…… もう歌わないんですか」
「はい。その必要がなくなりましたので」
 必要がないなんて。あんなすごい声を持っているのに……。
 キリエとは今後一切一緒には歌わない、と考えていたが、彼女が歌わなくなることに戸惑う自分がいた。
「神西さん、あなたは歌うことを続けてくださいね。それが小野の願いです」
 静かな声で言う賀州の目を零は見た。
「賀州さん…… あなたは小野さんの何なんですか? 単にマネージャーというわけではないですよね」
 賀州は笑みを浮かべた。
「直接の血の繋がりはないですが…… さあ、なんといえばいいのかな。遠縁というか…… 彼女の父親とは古くからの友人です」
「……」
「小野の言動や態度にいろいろ不快な思いをしたかもしれません。でも、最後まで小野に付き合ってくださったこと、心から感謝しています。ありがとうございます」
 零がもう何も言わないことを悟った賀州はそう言うと頭を下げて背を向けた。