二日目、零は前日のことがあったからか、高音部が不安定になった。
 三日目、零は持ち直したが、キリエが再び咳き込んだ。
 四日目も同じだ。
 予定の日数が残り少なくなり、皆の顔に少し疲労が浮かび始めた。
 咳き込んでスタジオを出たキリエのあとを美也は追った。
「小野さん、大丈夫ですか?」
 咳き込んでいるキリエの背を撫でると、キリエは「大丈夫」と言って少し笑みを浮かべた。
「喉の調子…… よくないんじゃ、ないですか」
「いえ、違います」
 キリエは即座に答えた。
「ここで負けるわけにはいかないの」
 この子は何と戦っているんだろう。
 キリエの細い顎を眺めて美也は思う。
「前に…… 勝つことを見届けて欲しいって言ってましたよね? 小野さん、零との勝ち負けを望んでるんですか?」
「違います」
 キリエは美也に目を向けた。
「わたしと零さんが勝つんです」
「なにに?」
 尋ねたが、キリエは美也の顔を見つめたまま無言だった。
「見届けてくれたらわかります」
 彼女はそう言ってスタジオに戻っていった。
「何、話してたんだ?」
 入れ違いにスタジオから出てきた零が美也の顔を見た。
「零ちゃん、地上に戻ってきてね」
「え?」
 零は戸惑った表情を浮かべた。
「雨の精を振り払って地上に戻ってくれるのを待ってる」
 零はまじまじと美也の顔を見つめた。
「待ってるよ」
 美也は念を押すように言ってスタジオに帰っていった。

「小野さん」
 ヘッドフォンをつけながら零は言った。
「ラストにしましょう。決着つけますよ」
 キリエは零に目を向けた。
「いいですよ」
 挑みかかるような視線を投げかけてキリエもヘッドフォンをつけた。
「小野さん、喉大丈夫ですか? 次、咳が出たら今日は止めておきましょう。傷めると良くないですから」
 羽田の声が聞こえる。
「大丈夫です」
 キリエは短くそう答えた。
「ではいきます」
 曲が始まる。

 雨の精は地上を探す。
 ひとりの青年に標的を絞り、彼を雲の中に引き込もうと腕を掴んだ。

「いっ……」

 ぎりっと鋭い爪で本当に腕を掴まれたような感覚がして、零の声が止まった。
「すみません、もう一度お願いします」
「ふっ……」
 キリエの嘲笑するような声が小さく聞こえた。
 思わず目を向けると、口元に微かに浮かんだ笑みが見えた。
 何が起こっているかわからない美也は二人の様子をただ見守るしかない。
 再び曲が始まった。

 雨の精が青年を雲に引き揚げようとする。
 強い力で引き揚げられて、足元がどんどん遠くなるのを見ながら暗い雲の中に放り込まれる。
 そして雨の精は再び次の獲物を探しに降りていく。
 周囲は嵐で激しい雨粒と轟音にまみれた世界だ。
 地上はどこだ。雲の切れ目はどこだ。
 ようやく見つけた隙間から明るい世界を見つけて雲から抜け出した。
 途端に雨の精が追ってくる。

 雨の精って…… こんな姿なのか?

 目の前の相手の姿に束の間恐怖を覚えた。

 腕は黒い翼、黒く長い髪、尖った顎に切れ長の瞳。
 足は鋭い爪のついた猛禽類の足。
 これで腕を掴んだのか。

 なぜ地上に戻ろうとする?
 ―― そこが自分の居場所だからだ。

 雲の中なら命は長らえ、共に旅ができように。
 ―― おまえと旅をする気などない。

 地上の者など小さきものなのに。
 ―― おまえの存在より小さいものはない。

 つべこべ言わずに声を寄越せ。
 ―― 何を言っているんだ。声など渡さない。

 声を寄越せ。おまえの声を。
 鋭い爪で掴まれた。

 離せ!
 おまえに声など渡さない!
 この声は渡さない!
 おまえは星の上を流れていくだけの存在だ。

 黒い翼を掴んで思い切り自分から引きはがした。
 爪に割かれて血が流れようと、かまわなかった。
 去るがいい!

 パシン…… と小さな音がした気がした。
 直後、スタジオ内に無数の黒い羽根が舞い散った。
「きゃ……」
 美也は思わず声を漏らして口を両手で覆った。
 それが自分の目にだけ見えているのだということは、他の人たちの様子を見ればすぐにわかった。
 きっと零もこの羽根を見ているだろう。
 彼の表情を見ればわかる。
 黒い羽根は床に落ちる前に溶けるように空中に消えていった。

 曲が終わった。
「すごい! これでベストじゃないか?」
 羽田の興奮したような声がして、零は我に返って横のキリエに目を向けた。
 コン…… と彼女は小さく咳をした。
 コン、コン、と咳は続き、どんどんひどくなってやがてキリエは立っていられなくなってうずくまった。
「小野さん?」
 零が慌ててキリエを支えた。
「大丈夫?」
 咳き込みながらひゅうひゅうと息を漏らしてキリエは零を見上げた。
「出てった…… ありがとう……」
 そのまま意識を失ってしまったキリエを見て零は声をあげた。
「救急車! 救急車呼んで!」
「キリエ!」
 賀州が飛び込んで来てキリエを抱えるのを零は呆然と見つめていた。