マイクから離れて椅子に座るキリエを見て、零も水のボトルをとりあげる。
 今日は声の調子は悪くない。最初こそ声が出なかったが、二回目、三回目は比較的出たほうだと思う。でも、もう少し伸びが足らないかもしれない……。そんなことを考えていた時、キリエが零の背に声をかけた。
「零さん、もう少し私を追い詰めてもらえますか」
 零が振り向くと、キリエは鋭い視線を向けて来た。
「足らないです。わたしを相手にしてないですよね?」
「意味がちょっとよくわからないんだけど」
 零が眉を潜めて答えると、キリエは水をひとくちコクンと飲んで再び零に目を向けた。
「自分の声が出ることしか考えてないでしょう」
「そんなことは……」
「雨の精は男を連れて行こうとするんですよ? でも彼は地上の恋人の元に戻ってしまう。しつこい雨の精を最後は怒りで追いやるんです。それこそ横っ面はり飛ばすくらいの勢いで。わたしを憎まなきゃいけないくらいだって言いましたよね? 曲の内容を把握してください」
「してますよ。だいたい小野さんが途中で咳き込んでしまっちゃ、最後まで歌いきれないじゃないですか」
 カチンときて言い返すとキリエは負けじと言い返した。
「零さんが出し惜しみしているからですよ! 高音部出したらほっとしちゃってます」
「人のせいにするのは違うんじゃないですか?!」
「ち、ちょっとふたりとも!」
 羽田が慌てて声をあげた。
 藤谷と賀州が急いで中に飛び込んでくる。
「零、ちょっと出ろ」
 藤谷は急いで零の腕を掴むと外に連れ出した。
 美也が心配そうな顔をして様子を見守っている。
「零、落ち着け。喧嘩してちゃレコーディング終わらないよ」
 たしなめられて零はイライラとしたように髪をかきあげた。
 たしなめられているのはキリエも同じだろう。
 結局その後レコーディングは不可能となり、翌日に持ち越されることになってしまった。
 事務所に戻った零はまだ怒ったような表情で黙り込んでいた。
「小野さんも、まあ言い過ぎだとは思うけど…… 冷静にならないと」
 藤谷が言ったが零は少しうなずいただけだった。
 美也は普段あまり見ない零の表情に戸惑った。でも、考えてみればこれが歌に真正面から取り組んでいる零の姿なのかもしれない。
 自分はいつも愛情持って自分を見つめる零しか目にしていなかった。
 零は性格的にもそんなに情熱的なタイプではない。
 美也のように感情に押されて突発的な行動に出るタイプでもない。
 だから小野さんは零を挑発してるんじゃないかな、と美也は思う。
 激しく誰かを拒絶したり、憎んだことのない零の激情を呼び起こそうと。
eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』はそんなに感情がぶつかり合う曲なのか……
 だったらわたしは零をなぐさめるわけにはいかないかも。
 美也は口を引き結んでいる零の横顔を見て思った。
 わたしもしばらく我慢しなきゃいけないんだわ。零が地上に戻ってくるまで。