翌日、スタジオに訪れた零と美也、藤谷に賀州は深々と頭を下げた。
「どうも…… 申し訳ありません。いつもいつも小野が我儘を……」
マフィアのご面相で謝られると、逆にこちらが恐縮してしまう。
「あ、いえ、あの、川島さんも快諾してくれましたし、どうぞお気になさらず……」
藤谷がじわっと鼻の頭に汗を浮かべて答える。もう秋も終わりだというのに、藤谷にとってはこの陽気はまだ夏の終わりあたりかもしれない。
「あの…… 小野さんは」
周囲を見回して尋ねる藤谷に賀州は
「すみません、また化粧室です」
と答えた。
最初に会ったキリエは緊張のあまり化粧室に籠っていた。ただ、ここ何回かのレコーディングではそういうことがなかったから、零と藤谷は束の間顔を見合わせてしまった。
しばらく待ったがキリエは戻って来ない。
「あの…… わたし、様子見てきましょうか」
美也が言った。
「なんかあったら大変だし」
「すみません、お願いします」
いえいえ、というように美也は笑顔を残し、化粧室に向かった。
「小野さーん…… いますー?」
そっと化粧室の扉を開けると、キリエは鏡の前の洗面台に両手をついて立っていた。
「大丈夫ですか?」
美也は慌ててキリエに近づいた。
「気分でも悪い?」
「いえ……」
キリエは美也を見て少し笑みを浮かべた。
「すっごい緊張しちゃって。恥ずかしい……」
美也は目をしばたたせた。
びっくりだ。この人、場数踏んでるんじゃないの? そんなふうには全く思わなかった。
「小野さん」
美也は言った。
「ラジオ体操しましょう!」
「えっ?」
キリエの顔に困惑の色が浮かぶ。
「ラジオ体操知りません? やったでしょ? 学校で。はいっ、いっちに、さんし、いっちに、さんし」
美也は腕を振り上げて狭い化粧室でラジオ体操を始める。
「腕を回します、いっちに、さんし、ご、ろく、しち、はち、うっ、なんか体固いっ」
キリエがくすくす笑い出した。
「ラジオ体操、ものっすごく真剣にやるとダイエットにもいいらしいです。たまーーにやって、ます。たまーーに」
ぶんぶん腕を回す美也を見てキリエはますます笑い始めた。
しばらくして美也は、はあはあと息をつきながらら手を下ろした。
「行きましょうか」
そう言うと、キリエはうなずいた。
「ありがとうございます。わたし、無理を言ったのに…… 美也さんは優しいんですね」
「零のレコーディング風景なんて、こういうチャンスがなきゃ見れることないですから。むしろ感謝してます」
美也は笑って答えた。
『eau du ciel』一回目。
灰色の雲の中にいる雨の精は常に涙にまみれているために、地上にいる連れて来ようとする。
寂しさを紛らわせてくれる人、自分を愛してくれる人。
彼女はひとりの青年に狙いを定める。
彼に近づき、一緒に上にあがろうとささやき続ける。
しかし彼は応じない。
なぜなら既に地上に愛する人がいるからだ。
あなたには自分は必要ないと彼は拒み続ける。
雨の精は業を煮やし、強引に彼を雲の中に引きずり込む。
そして次の相手を探すために目を凝らす。
稲妻が光り、雨粒が叩きつける雲の中で青年は自ら雲を抜け出して恋人の元に戻ってしまう。
怒りに燃えた雨の精は青年を連れ戻そうとするが、青年は動じない。
雨の精は涙に濡れた目で懇願する。
雲に戻って。私と一緒にいて。
青年は言う。
あなたは星の上を巡る身だ。
それがあなたの使命なのだから、あなたは次の世界に行くがいい。
青年は激しく憤って雨の精を天上に追いやってしまう。
雨の精が青年を天上に引きずり上げる部分が、零がもっとも危惧する発声の部分で、青年が降りてからは激しいふたりのやりとりが続き、青年の怒りと雨の精の嘆きで曲は終わる。
歌詞はとても抽象的なので、こんなふうに具体的に捉える人は少ないかもしれない。
それは零とキリエにとって問題となる部分ではなかった。
歌から感じられるさまざまな感情が伝わればそれでいい。
その点でふたりの意見は一致していた。
ただ、『さまざまな感情』が伝わるよう深く歌いあげること……
互いにそう確認しあった。
美也はスタジオの奥のほうで、勧められた椅子に座ってふたりが歌うのを見つめていた。
零がやっぱり高音部で苦しんでしまう。
「すみません、もう一度お願いします」
二回目、今度はキリエが咳き込んだ。
「すみません」
「大丈夫ですよ。ふたりともリラックスしていきましょう」
羽田の声が聞こえる。
三回目、終盤部分で再びキリエが咳き込んだ。
「大丈夫?」
零が思わずキリエに目を向ける。
「だい、こほっ…… 大丈夫…… こほっ……」
「休憩いれようか」
羽田の声が聞こえた。ガラスの向こうの美也も心配そうな顔をしているのが零にはわかった。
「すみません、ちょっと5分だけ。お水飲みます」
キリエは答えた。
「どうも…… 申し訳ありません。いつもいつも小野が我儘を……」
マフィアのご面相で謝られると、逆にこちらが恐縮してしまう。
「あ、いえ、あの、川島さんも快諾してくれましたし、どうぞお気になさらず……」
藤谷がじわっと鼻の頭に汗を浮かべて答える。もう秋も終わりだというのに、藤谷にとってはこの陽気はまだ夏の終わりあたりかもしれない。
「あの…… 小野さんは」
周囲を見回して尋ねる藤谷に賀州は
「すみません、また化粧室です」
と答えた。
最初に会ったキリエは緊張のあまり化粧室に籠っていた。ただ、ここ何回かのレコーディングではそういうことがなかったから、零と藤谷は束の間顔を見合わせてしまった。
しばらく待ったがキリエは戻って来ない。
「あの…… わたし、様子見てきましょうか」
美也が言った。
「なんかあったら大変だし」
「すみません、お願いします」
いえいえ、というように美也は笑顔を残し、化粧室に向かった。
「小野さーん…… いますー?」
そっと化粧室の扉を開けると、キリエは鏡の前の洗面台に両手をついて立っていた。
「大丈夫ですか?」
美也は慌ててキリエに近づいた。
「気分でも悪い?」
「いえ……」
キリエは美也を見て少し笑みを浮かべた。
「すっごい緊張しちゃって。恥ずかしい……」
美也は目をしばたたせた。
びっくりだ。この人、場数踏んでるんじゃないの? そんなふうには全く思わなかった。
「小野さん」
美也は言った。
「ラジオ体操しましょう!」
「えっ?」
キリエの顔に困惑の色が浮かぶ。
「ラジオ体操知りません? やったでしょ? 学校で。はいっ、いっちに、さんし、いっちに、さんし」
美也は腕を振り上げて狭い化粧室でラジオ体操を始める。
「腕を回します、いっちに、さんし、ご、ろく、しち、はち、うっ、なんか体固いっ」
キリエがくすくす笑い出した。
「ラジオ体操、ものっすごく真剣にやるとダイエットにもいいらしいです。たまーーにやって、ます。たまーーに」
ぶんぶん腕を回す美也を見てキリエはますます笑い始めた。
しばらくして美也は、はあはあと息をつきながらら手を下ろした。
「行きましょうか」
そう言うと、キリエはうなずいた。
「ありがとうございます。わたし、無理を言ったのに…… 美也さんは優しいんですね」
「零のレコーディング風景なんて、こういうチャンスがなきゃ見れることないですから。むしろ感謝してます」
美也は笑って答えた。
『eau du ciel』一回目。
灰色の雲の中にいる雨の精は常に涙にまみれているために、地上にいる連れて来ようとする。
寂しさを紛らわせてくれる人、自分を愛してくれる人。
彼女はひとりの青年に狙いを定める。
彼に近づき、一緒に上にあがろうとささやき続ける。
しかし彼は応じない。
なぜなら既に地上に愛する人がいるからだ。
あなたには自分は必要ないと彼は拒み続ける。
雨の精は業を煮やし、強引に彼を雲の中に引きずり込む。
そして次の相手を探すために目を凝らす。
稲妻が光り、雨粒が叩きつける雲の中で青年は自ら雲を抜け出して恋人の元に戻ってしまう。
怒りに燃えた雨の精は青年を連れ戻そうとするが、青年は動じない。
雨の精は涙に濡れた目で懇願する。
雲に戻って。私と一緒にいて。
青年は言う。
あなたは星の上を巡る身だ。
それがあなたの使命なのだから、あなたは次の世界に行くがいい。
青年は激しく憤って雨の精を天上に追いやってしまう。
雨の精が青年を天上に引きずり上げる部分が、零がもっとも危惧する発声の部分で、青年が降りてからは激しいふたりのやりとりが続き、青年の怒りと雨の精の嘆きで曲は終わる。
歌詞はとても抽象的なので、こんなふうに具体的に捉える人は少ないかもしれない。
それは零とキリエにとって問題となる部分ではなかった。
歌から感じられるさまざまな感情が伝わればそれでいい。
その点でふたりの意見は一致していた。
ただ、『さまざまな感情』が伝わるよう深く歌いあげること……
互いにそう確認しあった。
美也はスタジオの奥のほうで、勧められた椅子に座ってふたりが歌うのを見つめていた。
零がやっぱり高音部で苦しんでしまう。
「すみません、もう一度お願いします」
二回目、今度はキリエが咳き込んだ。
「すみません」
「大丈夫ですよ。ふたりともリラックスしていきましょう」
羽田の声が聞こえる。
三回目、終盤部分で再びキリエが咳き込んだ。
「大丈夫?」
零が思わずキリエに目を向ける。
「だい、こほっ…… 大丈夫…… こほっ……」
「休憩いれようか」
羽田の声が聞こえた。ガラスの向こうの美也も心配そうな顔をしているのが零にはわかった。
「すみません、ちょっと5分だけ。お水飲みます」
キリエは答えた。