梶谷のレッスンは予定通り進んでいたが、『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』がまだ心元ない。
「神西さん、あまり力んで声を出さないほうがいいです。空に引き揚げられますからふうっとなめらかに昇っていく感じで声を伸ばしましょう」
「はい」
 頭ではわかっているのだが、直前のブレスが短いのと高音部に移行することについ身構えてしまう。
 レコーディングまでに間に合うんだろうかと不安になった。
 そしてその気持ちを抱えたまま、『Lightning 』のレコーディングを迎える。
 ほとんどキリエがメインで歌うのと、『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』に少し似た部分はブレスの余裕も高音部も比ではないので思ったよりも早くレコーディングは終了した。
 最後の『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』は5日後にレコーディングだ。
「準備、うまくいってます?」
「なんとか間に合わせます……」
 キリエの問いに零はそう答えるしかなかった。
「これで最後なんですから、ちゃんと歌っていただかないと困りますよ」
 高飛車な彼女の物言いに言葉が詰まった。
「いい加減な出来にはしないでくださいね」
 キリエはそう言って背を向けた。
「すごい、ぴりぴりしてるね……」
 羽田と藤谷が顔を見合わせた。
「すみません。神西さんと歌うのも最後だというので小野も緊張状態なのだと思います。神西さんと歌うことは小野が心から望んでいたことですので…… 気を悪くなさらないでください」
 必要以外ほとんど口を開くことのない賀州が頭を下げた。
「あ、いえ、こちらも最良のコンディションでレコーディングには臨むつもりですので、どうぞお気になさらず……」
 藤谷が慌ててフォローをする。
『いい加減な出来にはしないでくださいね』
 突き差すような視線を思い出して零は口を引き結んだ。
 いい加減なことはするつもりはもちろんない。
 ただ、彼女の望む高みに届くのかどうかは零自身にもまだわからなかった。

 そんな不安を抱えながらも刻一刻とレコーディングの日は近づいて来る。
 予定は一週間。キリエとうまく噛み合い、零の声がうまく出れば早く終了するだろう。
 それはもうやってみなければわからない。
 そして翌日を第一日目に控えた夜、零はスマホにかかってきた相手に一瞬戸惑った。
 相手がキリエだったからだ。
「はい」
 少し警戒しながら電話に出る。
「あの…… キリエです。零さんですか?」
「はい。どうしたんですか?」
 こちらを向いた美也の視線と零の視線がぶつかった。
 美也は零の声の調子で電話の相手がキリエだと悟ったのだろう。
「お願いがあって…… 電話をかけました」
「……なんですか?」
 少々棘のある口調になったかもしれない。
「明日…… 美也さんも一緒にスタジオに来ていただけませんか?」
「……」
 逸らしていた視線をあげると再び美也の視線とぶつかった。
「何の必要があって? 美也はレコーディングの知識はないですよ?」
(少しくらいあるわよ!)
 と、いうように美也が口パクでこぶしを振り上げるのが見えた。
 零は片手をなだめるようにあげてみせる。
「そのほうが‥‥… 零さん、声が出るんじゃありません?」
「それはあなたにどうこう指示される筋合いはありません」
 怒気を含んだ声で零は答えた。
「そもそもまずは藤谷を介してもらえませんか。おれに直接じゃなく」
「藤谷さんには伝えますよ。でも彼もあなたに尋ねるんですから同じでしょう?」
 キリエの口調が変わってきていることに零は気づいていなかった。
「最後の曲はこれで本当に最後にしたいんです」
「それはこちらも同じですよ。精一杯します」
 そう答えたところで美也の手が伸びてきた。
「美也!」
 零が声をあげるのと彼女がスマホを奪い取るのが同時だった。
「小野さん、美也です。行きます。レコーディング。わたしも興味あります」
「美也!」
 スマホを取り戻そうとする零の手を美也は逃れて、素早くトイレに逃げ込むと鍵をかけた。
「美也っ! 怒るぞ!」
「零さん、怒ってますよ」
 少し笑いを含んだキリエの声が聞こえる。
「零がどんなに拒否したって、小野さん、わたしを呼びたいんですよね? だから行くってお返事します。明日のために零を早く休ませなくちゃいけないし」
「ありがとうございます」
「でも、なんでわたしが行かないといけないんですか?」
「見届けて欲しいからです」
「見届ける? なにを?」
「わたしたちが勝つこと」
「勝つこと? なにに?」
 ぷつりと電話が切れた。
 首を傾げながら美也がドアを開けると、零が怒りの形相で立っていた。
「なんで!」
「最後だよね。わたし、見届けるよ」
 そう答えて、キリエが言っていたのはこのことなのかな、と美也は思った。