『ペンギン』に寄りたかったが、諦めた。
 時計を見ると午後9時だった。寝る時間を抜くと5時間か6時間。いくら高校時代に天才と褒めてもらえたからといっても、こんな難しい曲を一晩で覚えたことはない。
 零は少し不安になった。
 小野キリエ。
 18歳なのに、こんな曲を作るのか……。
 それが若干妬ましくもあった。自分には曲や詩を作る才能はない。ただ、歌うだけだ。
 最初に合わせたときに、彼女の尖った顔から冷笑が漏れるのを想像して思わず身震いした。
 所詮こんな感じだったのね、という笑い。
 いいや、やめよう、こんなことを考えるのは。
 マンションの自分の部屋に入るなり、零はソファに身を落として一心に音を追った。

「おっはよーさーん、起きてるかー!」
 8時頃、聞きなれた声に零は身を起こした。
 耳にはまだヘッドフォンがついたままだ。昨晩は結局そのまま眠ってしまったらしい。
「あらら、徹夜かよ、まずいじゃねーか」
 藤谷はソファの上の零を見て顔をしかめた。
「大丈夫」
 零は髪をかきあげると、ヘッドフォンを外してCDプレーヤーをテーブルに置いた。立ち上がってうーんと伸びをする。
「シャワー浴びてくる」
「メシは?」
「コーヒー淹れてくれる?」
「いいわよん、あなた」
 零は藤谷をひと睨みすると、リビングをあとにした。
 シャワーから出てくると、テーブルの上にトーストとサラダ、コーヒーとフレッシュジュース、スクランブルドエッグにヨーグルトまで乗っていた。
「すげ……」
 思わずつぶやくと、藤谷はにやりと笑った。
「家が二軒隣ってのは便利でしょう? あ・な・た」
「気色悪いって」
 そう言ってから、零はぺこりと藤谷に頭をさげた。
「ありがと。すいません。」
 藤谷は笑った。
 藤谷の家は零の部屋の2つ隣だ。彼はちょうど零のデビューと同時期に結婚して、新婚なのにずっと自分につきっきりなので申し訳ないと思ったことがある。
 28歳の若いマネージャーは飄々とした雰囲気とは裏腹にとても気配りがまめで、仕事熱心だった。奥さんは小柄でショートカットの良く似合う可愛い感じの人だ。なんでも、藤谷とは中学校の時の同級生らしい。
 藤谷のマンションの一室が空いたというのを聞いたとき、そこに引っ越すことに決めたのは零のほうだ。朝の迎えや何やかんや、藤谷の労力が少しは軽減されるかもと思ったのだ。でも、逆にかえって奥さんの負担を増やしてしまったような気もする。今朝のようにフルコースの朝食が用意してあるのを見ると、特に。
「どう、覚えた?」
 トーストにかぶりつく零を見ながら藤谷は心配そうに尋ねた。
「んん…… なんとか…… ちょっとまだおぼつかないところもあるけど、何とかなるよ」
 オレンジジュースを口に運ぶ。
「歌詞は大丈夫だよ。覚えた」
「さすがだねえ」
 藤谷は感嘆したようにコーヒーの入った自分のカップをとりあげた。
「ドラマの話あるけど、受けてみる? セリフ覚え良さそうじゃん」
「そういうのはいや」
 零はちらりと藤谷を見て答えた。
「歌うのと演技するのはちょっと違うと思う。俺、たぶん両方はできないタイプ」
「だよねー」
 藤谷は、ははは、と笑った。
 しばらく黙々と食事を口に運び、全部をたいらげたあと零はフォークを置いて両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「嫁も喜びます」
 藤谷もおどけたように両手を合わせる。
「早く着替えな。9時10分には出るぞ」
「はい」
 皿を手早く積み上げて零は椅子から立ち上がった。