零が4曲目以降のレコーディングに集中していた頃、動いてはいけないというお達しつきではあったが、店が気になってしようがない咲は厨房の片隅に座って、代わりに切り盛りする広瀬の相談に応じたり、店内の様子を見ては美也に指示を出したりしていた。
 アルバイトの女の子がひとり入ったのと、広瀬がまだ見習い程度だが調理ができる青年を連れて来たので店の中は逆に以前よりスムーズに接客できるようになったと言ってもいいかもしれない。
「咲ちゃん、もうこのまま引退すれば」
 広瀬が言うと、咲はおおいに憤慨した。
「引退して還暦間近な広瀬さんに任せろと? 冗談きつ過ぎるわ!」
「いや、別におれがするっていうんじゃなくて、次世代育てればいいじゃないか。咲ちゃんだって歳とってくわけだし」
「先輩、グーパンチいきますか? わたしはまだ若いですっ!」
「おーこわ」
 ふん!とむくれる咲の顔を見てちょっと笑いながら、美也は来客の気配を気づいて顔を巡らせた。
「いらっしゃいませ」
 バイトの女の子が客に近づく。
「おひとりですか? どうぞ」
 小野キリエだ……
 美也はキリエの姿を見るなり厨房奥の咲のそばに身を潜めた。
「どうしたの?」
 咲が不審そうに尋ねる。
「小野キリエさんが来た。わたし、ちょっとあの人に会いたくない……」
「だめだよ。相手が誰でもお客様はお客様。ちゃんと仕事しなさい」
 叱咤されて渋々またホールに戻った。
「アイスティーひとつ、チーズケーキひとつです」
 オーダーを取った女の子が戻って来た。
「林さん、グラスそこ、氷そこ、アイスティーはそこ、チーズケーキは美也がセットしてお持ちして」
 咲が指示を出す。
「はい」
 女の子は返事をし、美也に顔を寄せた。
「すみません、あの方、用事があるみたいなんですが……」
 うわー…… と思わず心の中で声を漏らした。
 また何か変なことを言われたらどうしよう、と思いながら、美也は彼女がセッティングしたアイスティーを「わたしが持ってく」と言って手早くチーズケーキと共にお盆に乗せた。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
 営業スマイルで笑みを見せる美也を見上げてキリエも笑みを返した。
「こんにちは。また来ちゃいました」
「ありがとうございます。今日はオフですか?」
「いえ。近くで仕事だったので……」
「そうですか。お疲れ様です」
「あの…… お渡ししたいものがあって……」
 キリエはバッグをとりあげてがさごそと中を探り始めた。
 かすかに訝しそうな表情を浮かべる美也にキリエはCDを差し出した。
「あの……?」
 美也が戸惑ったようにキリエの顔を見る。
「『スカボロー・フェア』が入ってます……」
「え?」
 何のことか意味がわからなかった。
「サイモン&ガーファンクルの?」
「いえ…… あの…… 歌ったんです……」
 美也は呆然としてCDを見つめた。
「小野さんが?」
「はい。聴いていただきたくて……」
「えっ……? いいんですか?」
「はい。受け取って…… もらえますか?」
 少しはにかんだように言うキリエとCDを交互に見ながら美也はCDを受け取った。
「すみません…… わざわざ……」
 彼女が手を引っ込めた瞬間、左手の中指に光る指輪に美也はふと目を止めた。
 アーカーの指輪だ。
 美也の視線に気づいたキリエは申し訳なさそうに美也を見た。
「あ…… 指輪…… すみません…… あの…… どうしても欲しくて…… 自分で…… 買いました…… お揃いになっちゃって…… すみません……」
「そんな…… いいですよ。アーカーお好きなんですか?」
 美也が笑みを浮かべて尋ねると、キリエはためらいがちにこくんと頷いた。
「自分ではあまり持ってませんけれど…… 撮影のときはつけさせてもらえるから…… ちょっと役得です」
「ああ…… そういえば『KIRIE』のときもつけていらっしゃいましたよね」
「あ、わかりました? お願いしたんです。一度はつけてみたいって」
「ふふっ。いいなあ、わたしもそんな機会があったらつけてみたいです」
「いつもいつも可能なわけじゃないですけどね」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
「CDありがとうございます。聴かせていただきますね」
「はい。嬉しいです」
 美也はぺこりと頭を下げて戻って行った。
 キリエはそれを見送って顔をアイスティーに戻したあと、ぽつりとつぶやいた。
「《あなた》には負けない……」