キリエと最初のレコーディングの日が来た。
 『KIRIE』も『AQUA』もアルバムアレンジはさほど難しいことではなかったので一日半で2曲とも収録を終えた。
 『スカボロー・フェア』も発音は藤谷がチェックに出してくれていたので問題ない。
 相手が小野キリエでも歌に入ってしまえばキリエはただ『声』の存在だ。
 『声』と『声』で曲を創り上げる。ひとつずつ。
「もうちょっとやっていいですか?」
 『スカボロー・フェア』を3回ほど歌ったあとキリエはガラスの向こうの羽田と賀州を見てから零にも目を向けた。
 零がうなずいたのを見て羽田の声が聞こえる。
「ちょっと30分ほど休憩入れましょう」
 『スカボロー・フェア』は零とキリエで交互にパートを交換しながら歌うが、キリエは自分のパートがどうしても気に入らずに何度も歌い直しを要求していた。
 零が聞く限りにおいては問題ないように思えたが、キリエには「足らない」らしい。
 何が足らないのか零にはさっぱりわからない。
 休憩を促されたあと、キリエは軽く咳をした。
「大丈夫?」
 思わず尋ねると、キリエはちらりと笑みを見せた。
「空気乾いてて。今日、ちょっと声が足らないです」
 充分に出ているように思えるのに……。やっぱりどこが足らないのか零はわからない。
 一度聴けばある程度耳コピーできる自分でわからない不足分っていったい何なんだろう。耳コピーみたいなことじゃ判別しきれない微妙な部分なのだろうか……
 ミネラルウォーターのボトルを携えてスタジオの外に出ると、零はうーんと伸びをした。
 スタジオの中にいると分からないが、いい天気だ。
 ボトルの蓋を開けながら窓の外を見ていると、コンコンと小さく咳をしながらキリエも外に出てくるのがわかった。
「調子悪いんじゃないの?」
 尋ねるとキリエはかぶりを振った。
「乾燥に弱いんです。少し休めば大丈夫です」
 そう答えながら彼女もミネラルウォーターのボトルを開けて近くのソファに座った。
 しばらくお互い無言の状態が続いて、なんとなく居心地が悪く感じたので零がスタジオに戻ろうとしたとき、キリエは声をかけてきた。
「零さん、『スカボロー・フェア』、もうちょっとわたしを追い込んで歌ってみてくれますか?」
「え?」
「あの歌、零さんがエルフィン・ナイトです。死者と生者の駆け引きですよね。エルフィン・ナイトは魂を抜き取ろうとしないといけないと思うんです」
「でも、追い込むと言われても……」
「零さん、慈しんで歌ってますよね」
 キリエの言葉に零は思わず口を堅く引き結んだ。誰にも言ったことがない美也と自分とふたりだけのささやくような『スカボロー・フェア』をキリエが見抜いているような気がしたからだ。
「『KIRIE』は乞うても得られない愛の歌。『AQUA』は遠くで見つめる片思い。『スカボロー・フェア』は相手の魂を抜きとって自分のものしようとする歌、『Lightning 』は別々の男女が出会う前、『Stella』は少し仲良くなった瞬間、『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』は追いすがる相手の頬を殴って遠くに追いやります」
 キリエはそう言って小さく笑って目を伏せた。
「まあ…… 零さんならわかってますよね…… ごめんなさい……」
「……」
 零は何を答えればいいのかわからず視線を泳がせた。
「エルフィン・ナイトは亡霊となって人を脅かす存在です。亡霊だから相手はパセリ、セージ、ローズマリー、タイム、って魔除けみたいに唱えるしなかない。そんなものは効かないよ、ってエルフィン・ナイトは難題を押し付けるんです。だから零さんがエルフィン・ナイトになりきってもらうと、受けるわたしも声出せるかな、って思って……」
「……わかった。よくわからない部分もあるけど…… やってみるよ……」
「ありがとうございます」
 ぺこんと頭を下げるキリエの姿は出会った頃と似た雰囲気だった。