普通なら別れろと言うのかもしれないが、所属することになったプロダクションの社長は、美也と零のことを知っても何も言わなかった。ただ、写真撮られたらだめだぞ、とだけ注意した。
「あと、1年くらいしたら公にしてもいいからって」
 藤谷は言った。
「どうして?」
 零が不思議そうに尋ねると、藤谷は
「今、映画の主題歌の話があるから。それまでおとなしくしてろって」
と答えた。
「美也ちゃんのこと、だめって言ったらおまえのことだから反発して辞めちゃうと思ったんだよ。社長はぜーったい手放さないよ、零のこと」
 そこまで考えてもらえてるのはありがたいことだけど……。
「歌、好きだろ?」
 覗き込むように言う藤谷の言葉に、零は戸惑いながらうなずいた。
「うん…… そりゃ……」
「歌わない自分を想像したことある?」
 予想もしていなかった問いに、零は思わず藤谷の顔を見て、それから視線を宙に泳がせた。
 歌わない自分?
  あんまりそういうのは考えたことがない。
「鼻歌で歌えばそれでいい? うん、まあ、そういうこともありだよな」
 藤谷は暑そうに着ていたTシャツの胸元をぱたぱたさせて立ち上がった。
「零がそれでいいってんなら、別にいいけどさ。零の声はそれじゃあもったいないよ」
 藤谷はそう言って部屋を出て行った。
 あのあと、しばらく動けなかったことを覚えている。
 もともと歌とは関係のない分野に行くはずだった。そう思えば、別に人前で歌えなくても構わないんじゃないかと思う。
 でも、それを納得しない自分がいた。
 生の楽器をバックに歌うことを知り、ホールにこだまする自分の声を知り、難しい音を次々クリアする自分を知ってしまった。
 映画の主題歌。映像と自分の声が重なる。
 歌わない自分は既にあり得なくなってしまっていた。
 でも、それは自分の人生の中で何番目のことなんだろう。
 一番目は美也? それとも歌? それとも……。

「ええとね、この子なんだけど」
 藤谷はめずらしくスーツ姿で、暑くてたまらないというようにポケットからハンカチを出して額を拭いながら零に写真を見せた。
 零は写真を受け取って興味なさそうに眺めた。いかにも作ったような表情でこちらを向く少女。
 真っ黒な長い髪、薄い眉に細い切れ長の目。つんと尖った鼻に小さな唇。お世辞にも「美人」とは言えないし、「可愛らしい」という表現も似合わなかった。
「知らない? 小野キリエ」
 零は知らないというように首を振った。
「18歳だけど、才能ある子だよ。シンガーソングライター。同年代の子から、上は中年のオッサンまでファンがいるんだってさ。なかなかいい曲作るよ」
 零は写真をテーブルの上に置いた。
「7歳くらいでミュージカルのオーデションに合格して、その時は端役らしかったんだけど声質がいいってんで、その後も何回かミュージカルに出てる。作詞作曲始めたのは中学生くらいの時だって。ただ、ビジュアル的にテレビ向きじゃないから、あんまり公に出ないんだけど、コンサートは年に数回してる。テレビドラマのさ「夢見がちな窓」の主題歌、あれ、おまえと彼女とどっちにするかってんで、ぎりぎりまでもめたらしいぜ。でも、彼女は自分の歌しか歌わないしな」
 藤谷はたまらなくなったのか、椅子にどっかりと座るとネクタイを緩めた。
「夢見がちな窓」か……。零は心の中でつぶやく。
 結局主題歌は零が歌った。曲は好きだったが、ドラマはいまひとつ感情移入できなかった。主人公が売れている俳優だったので、そこそこ視聴率は稼げたし、こっちも曲が売れたけれど、終わったらあっという間に人の記憶から消えたような気がする。
「一緒に歌ってくれないか、と言ってきたのは彼女のほうなんだ。おまえの声を聞いてからそうしたくてしようがなくて、羽田さん通じて社長に掛け合ったらしい」
 藤谷は、若干不機嫌そうな零の表情を無視して話している。
 零は何も言わずに、目の前の茶封筒からCDケースを取り出した。藤谷はそれを見て、茶封筒を自分に引き寄せた。
「それに曲が入ってる。歌詞はこっち」
 彼はA4サイズの紙を数枚引き出す。
「羽田さんが言ってたけど、最初は彼女がひとりで歌ってるのが入ってて、そのあと、ノーボイスになるから覚えてくれって」
「いつやるの?」
「明日」
「明日ぁ?」
 零は呆気にとられて藤谷の顔を見た。
「だからあんとき言おうとしてたのに。明日はとりあえず顔合わせと雰囲気確認する程度だから。何度か打ち合わせしながら曲のイメージづくりをしていかないといけないと思う。発売は9月15日くらいを考えてる。この日は雨倉夕奈も出すみたいだから、抜かしてやろうぜ」
(ちょっと時間がなさ過ぎじゃないかなあ……)
 そう思いながらちらりと藤谷を睨むと、零は無言でCDをポータブルプレイヤーに入れて、ヘッドフォンをつけた。
(今夜中に覚えるのかよ)
 ちょっとうんざりだった。
 スイッチを入れると、ほどなくしてギターとピアノの旋律が聞こえてきた。バラードか、と思った。
 彼女の声が聞こえてきたとき、音を聞きながら泳いでいた視線が止まった。思わずテーブルに置いた写真を取り上げる。尖った顔つきからは想像もできないほど、奥行きのある声だった。低い音も高い音もしっかり出ている。静かで滑らかな水面にしずくがしたたり落ちるような潤いもある。
 零は歌詞の書いてある紙をとりあげた。自分の歌うフレーズだけ赤くラインが引いてあった。
「曲名はKYRIE」
「キリエ?」
 零は怪訝そうに藤谷を見た。
「彼女の名前じゃないよ。賛美歌のほうのKIRIE。もちろんこれは賛美歌じゃないけどね。愛を乞う歌だそうだ」
「ふうん……」
 零はヘッドフォンからの音に耳を傾けた。
 ずいぶん難しい旋律だ。こんな難しい曲、今まで歌ったことがない。一晩で覚えきれるんだろうか。と、いうか、この子の声に自分の声がうまく合わせられるんだろうか……。
「まだオフレコだけど、これ、映画の主題歌。菅野監督の新作。ええと、なんていったっけ」
「明日、何時?」
 零はヘッドフォンを外して尋ねた。
「10時」
 藤谷は答えて、それからにっと笑った。
「やる気になった?」
 零は肩をすくめた。
「覚えるのが大変そう。もう今日は帰っていい? 家で覚える」
「ん、それがいいかも」
 藤谷の言葉に零は立ち上がった。