小野キリエの事務所、天羽プロダクションで、零と藤谷は賀州とキリエを前に座った。
 ガラス張りの向こうでスタッフたちがせわしなく動いている。
 こじんまりした零の事務所とは違い、天羽プロダクションの事務所は広い。
 ミニアルバムのタイトルはキリエが『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』」にしたいと言い、零もそれには内心拒否気味ではあったが了承した。
「『KIRIE』と『AQUA』はミニアルバムだけのアレンジも少し加えたくて…… 新たに歌うことになりますけど…… いいですか?」
 伺い見るキリエの視線を受けて零は短く「いいですよ」と答えた。
 彼女の横に賀州も相変わらずマフィアのような強面で座っている。
 零の返事を受けてキリエはにこりと笑みを浮かべた。
「良かった。実はもうバックの演奏の準備を始めていて…… この2曲は先に進めようかなって……」
 キリエは横の賀州に目を向けた。
「2週間後くらいにこの2曲のレコーディングに入るのはいかがですか?」
 彼に言われて藤谷が手帳をめくる。
「ええと…… 23日…… 以降ならいけますね。2日…… 3日くらいかかる感じですかね。新しいアレンジ加えるとなると」
「複雑なアレンジは加えてませんから、2日あれば十分だと思います。3日いただけるなら『スカボロー・フェア』もレコーディングしたいです」
 キリエが言う。
「じゃ、それが終わってから残りの3曲ですね。こちらの希望としては『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』は最後にしたいんですけど」
 藤谷は零の顔をちらりと見てからキリエと賀州に目を向ける。
「そうですね…… そちらも『準備』がおありでしょうし…… わたしが先に仮で歌を入れて音源お渡しします。でもレコーディングのときには一緒にお願いします。アルバムタイトルの曲なので、ふたりで詰められるだけ詰めたいです」
 かすかに口元に笑みを浮かべながら自分を見つめるキリエに零は少し苛立ちを覚えた。
 最初の時、わずか10秒で「すご過ぎて」と座り込んで泣いた同じ少女の態度とは思えない。
「あ、大事なもの忘れるところでした」
 キリエは封筒を取り出した。
「楽譜です。『スカボロー・フェア』はピアノ伴奏ですがアレンジ加えてCDに入れてます」
 差し出した封筒に添えられたキリエの手を見て、零は一瞬、眉をぴくりと動かしてしまった。
 その表情にキリエは「あ」と小さく声を漏らして左手を右手で覆う。
「ごめんなさい…… わたしも自分で買っちゃいました。綺麗だったので」
 口元に笑みを浮かべたままの彼女に
「そうですか」
 零はただそれだけを興味がない、というように答えた。
 何のことかわからない藤谷は怪訝な顔でキリエと零の顔をきょときょとと見るだけだ。
「えっと……? それじゃ、また連絡させていただくこともあるかもしれないんですけど、今日はこれで」
 藤谷は封筒をとって立ち上がり、零もそれに続いた。
「スタジオは仮押さえしていますので、また改めて決定の日時をご連絡いたします」
 賀州の声に藤谷はうなずく。
「はい、お願いします」
 じゃ、行こうか、と促されて零は部屋を出た。


「このまま梶谷さんところに寄ろうと思うんだ。ここからなら歩いて行けるし、梶谷さんのスケジュールも押さえてもらいたいし」
 天羽プロダクションの入っているビルを出て藤谷は零に言った。
「楽譜見てもらって、必要時間相談しよう」
「わかりました」
 零の返事は素っ気ない。藤谷は首を少し傾げて零の横顔を見た。
「どしたの? なんか不機嫌だね? ぼくは特に無茶な打合せじゃなかったと思うけど?」
「あ…… すみません…… 大丈夫です。行きましょう、梶谷さんのところ」
 零は笑みを見せたが、やはりその表情は硬い。
「零、気にかかることがあるなら言ってくれよ? 対応するから」
「何もないです」
「いいや、嘘だ。その顔は。どしたの? 言いなさい」
 藤谷の保護者的な物言いに今度は本当の笑みが零の顔に浮かんだ。
「藤谷さん、見抜いちゃいますね」
「当たり前だ。ここ一年は美也ちゃんよりおまえと一緒にいる時間が長い」
 藤谷はじわっと滲んできたらしい額の汗を手の甲で拭った。
「んで、どうした?」
「アルバムの件は関係ないんです。彼女が単に指輪を嵌めていただけで」
「指輪?」
 何のこと? というように藤谷は眉を潜める。
「小野さん、指輪してたんですよ。買っちゃった、って言ってたでしょ。あれ、おれが美也にプレゼントした指輪と同じなんです」
「えーと?」
 藤谷は考え込む。
「美也ちゃんの誕生日に指輪買うとか言って小野さんとサイト見てたよな? あれのこと?」
「そう。アーカーの指輪」
「まあ…… でも、普通に売ってるものだからねえ……」
「そう。別におれがどうこういう筋合いない」
 零は口を噤んだ。藤谷が目を向けると零は何かを考え込んでいるような表情だった。
「まだ、何かあるの?」
 零は歩を止めて藤谷を見た。
「『スカボロー・フェア』は美也が好きな曲なんです」
「……うん……」
 藤谷も足を止めて零を見る。
「美也が子供の頃から父親が口ずさんでたのを聞いて、おれも覚えて…… そういう曲なんです。でも、たくさんの人が知ってるイギリスの民謡」
「……うん……」
「……すみません。ただ…… それだけです」
 再び歩き始めた零の背を藤谷はしばらく見つめたあと、足早に彼を追った。
「零、拒否してもいいんだぞ?」
 零はそれを聞いてかぶりを振った。
「やります。藤谷さんに言ったらなんだか決心つきました。全曲、全力で歌ってやる。そのあとはもう二度と小野キリエとは歌わない」
 言い切ったあと、零は束の間空を見上げて息を吐いた。
 その横顔を藤谷は見た後うなずいた。
「わかった。これからも何か気になることがあったらちゃんと言ってくれよ。ずっと二人三脚で行くんだからな」
「はい」
 藤谷はぽんぽんと零の背を叩いた。