零の所属するエテオエージェンシーは小さなプロダクションで、零を含めてアーティストは5人しかいない。
 社長の河原は厳しいが面倒見のいい人で、零が活動しやすいようにと年齢が近くて性格のいい藤谷をマネージャーにしてくれたのも彼だった。
 藤谷と行動を共にすることは零にとって本当に居心地の良いことだった。
 時に友人のように、時に兄貴分のように藤谷は零を支えてくれる。
 零が迷う部分は藤谷がきっちりと決めてくれることが多かったが、その藤谷が今回の小野キリエの件に関しては判断がつかない。
「楽曲聴いてみた感じはどうだったの? ぼくも一応聴いてはみたけど、かなり難曲な雰囲気だね」
 河原の言葉に零はうなずいた。
「小野さんの持ち味満杯の楽曲だとは思いました。でも、『KIRIE』よりもひとつひとつに時間かかりそうな気がします……」
 零の返答を聞いて、河原も藤谷は考え込むような顔をした。
「特に9曲目がかなり難題だと…… 思います」
「9曲目って、なんかフランス語っぽいタイトルついてたよな」
 藤谷は零の顔を見た。
「『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』。調べたら、雨、っていう意味でした。自分のパートのところ、もうちょっと教えてもらわないとわからないけど、おれの声域で出るかどうかっていうくらい高音要求されてると思います」
「ううーん……」
 藤谷は唸った。
「ちょっとでも体調悪いと出ない…… あんな高い音。ほかのはなんとかなるかもしれないけれど…… なんとかなる、かも、ですよ。”かも”」
「ううーん……」
 藤谷はまた同じ声を漏らした。河原も考え込んでいる。
「ボイトレはまた梶谷さんのところにお願いするとして…… これを受けるなると1年くらいはかかるかな」
 河原の言葉に藤谷がかぶりを振る。
「双方のスケジュールのこともありますから、それじゃあ足らないかもしれないですよ」
「そうだなあ……」
 河原はしばらく考え込んだのち、口を開いた。
「そもそも小野キリエさんと取り持ってくれた羽田さんの立場もあるし、はなから断るよりは妥協案出そうか。『KIRIE』と『AQUA』を入れてプラス4曲。ミニアルバムでどうだろう。選曲はあっちに任せるとして。それでもだめならスケジュールの都合がつかないからと断ろう」
 どうする? という河原と藤谷の視線を受けて零は渋々頷いた。
「『eau du ciel(オウ・デ・スィエル)』、入れてくると思いますよ」
「まあ…… そうだろうね」
 河原は呟く。
「それで小野さんとの共演は…… できれば終わりにさせてもらいたいです。彼女の曲はいいと思うけれど、要求に応じてるとおれ、なんだか自分を見失いそうです」
「わかった。じゃあ、それで先方に伝えよう。了承してもらえなかったら、もしかしたら先方と一度話し合いの場があるかもしれないけれど」
「はい」
 席を立とうとした零を藤谷が慌てて止めた。
「零、零、もう一個大事な話があっただろ」
「なに、大事な話って」
 河原が怪訝な顔をした。
しまった、という表情で零は再び座り直し、河原の顔を見た。
「小野キリエさんのこととは全く関係ないんですけど、あの…… 川島美也さんと結婚したいと思ってます。今はまだ一緒に暮らしているだけなんですけれど……」
 零がそう言うなり、藤谷はぐいっと身を乗り出した。
「美也ちゃん…… じゃない、美也さん、いい子なんですよ、ほんと。零の今後の活動のためにもなると思います。ええ、ほんとに!」
 藤谷がまくしるのを見て河原は笑った。
「式とか相当先になるよ? それで了承してもらってるの?」
「あ、いえ、そういう話はしてないですけど……」
「そーんな度量の低い子じゃありませんって!」
 零が口ごもると再び藤谷が言い募った。
「式や旅行のための時間なんて、小野さんの仕事がもし入ったってそのあといくらでも調整できます! おれ、します! させてください!」
 藤谷のこめかみから汗まで流れている。
「わかったから、唾飛ばすな」
 河原の声に藤谷は口を押さえて零を見やった。
 零は藤谷の勢いに茫然としている。
「まあ、前から聞いてはいたことだしね。彼女のためにもしっかり仕事して、しっかり生きなさい」
 河原の目尻に笑い皺ができた。
「はい。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
 立ち上がって零が頭を下げたので、藤谷も慌てて立ち上がって同じように頭を下げた。

「よかった、よかった、ああ、ほっとした」
 零よりも藤谷のほうが顔を上気させて嬉しそうだ。
 零はぺこりと頭を下げた。
「藤谷さん、ありがとうございます」
「何改まっちゃって。やめてよ。それより、大安どこか見とかないとなあ」
 藤谷はスマホを出していそいそとスクロールし始めた。
「大安?」
「え、婚姻届け出すでしょ? お日取りが良いところがよろしいんじゃありません?」
「美也のところに挨拶行くほうが先だよ」
 零は笑った。
「そういうのって、何がいいんだろ。先勝?」
 真剣に悩む藤谷を見ていると、この人ほんとにいい人だなあと思う。
 零のスマホが鳴ったのはその30分後だった。