零がデビューしたのは2年前だ。
 もともと歌うことが好きで、幼馴染の美也と美也の高校時代の友人の竹田、伊藤、竹田の彼女の5人でバンドをやっていた。
 けっこういい線いってる、と思っていたけれど、竹田と竹田の彼女、伊藤の大学進学を機にバンドは解散し、零はバイトで溜めたお金でデザインの専門学校に進むつもりだった。美也は母親の経営するカフェを手伝っている。
 歌うことに未練がなかったわけではない。でも、零はそもそも譜面が読めない。竹田の彼女がキーボードで出す音を片っ端から覚えて歌った。みんなそれが天才的だとびっくりしていたが、楽譜を見たって何のことやらちんぷんかんぷんな自分が歌を職業にすることができるなんて、と今でも思う。
 零の声に一番惚れ込んでいたのは美也で、こっそりデモテープをプロダクションに送ったのも彼女だ。
 それがプロダクションの社長の耳に止まり、あっという間にデビューになった。
 空の声。
 デビューの時の自分のキャッチフレーズだった。
 だっせー、と零は苦笑したのを覚えている。
 しかし、もともとのルックスの良さも手伝って、瞬く間に人気が出て、外を歩く時にけっこう気を遣うようになった。
 美也のカフェに来ることができるのは、たまたまオフィスが2ブロック離れたビルだったからだ。そこから美也のいる『ペンギン』まではビルの谷間を通れば人目につかないことを零は覚えた。それでも、忙しくなってからは、一週間、いや、一ヶ月に一度、行けるかどうかになっていたかもしれない。
 ドラマのタイアップ、音楽番組への出演、ラジオ、コンサート、写真集の撮影、新曲の打ち合わせ……。身体はいくつあっても足りないと思えた。
 それでも、零は少しでも時間ができれば『ペンギン』に来た。
 ここに来れば、美也に会える。昔からの自分を知っている人に会える。
 それは大きな支えだった。
 零は小学生の頃に両親を事故で亡くしてから施設で育った。歌を歌う楽しさを覚えたのはその頃だっただろう。声を出していると寂しさが紛れた。
 高校時代は働きながら夜学に通った。
 美也の両親は零の母親の学生時代からの友人で、零を引き取ることを何度も話し合ったようだが、当時は『ペンギン』を始めたばかりだったし、経済的な部分で諦めざるを得なかったらしい。その代わり、零のことを本当の息子のように可愛がってくれた。誕生日にはケーキを焼き、クリスマスには美也と一緒にプレゼントを用意してくれる。
 正月は家に呼んで一週間ほど一緒に過ごしてくれた。
 零はそれがとても嬉しかった。
 学校を卒業して、働くようになったらたくさん恩返しをしよう、そう考えた。
 それが恩返しどころか、顔を見せるのすら大変になっている。
 美也は自分でデモテープを送った癖に、零の急激な人気に困惑しているようだった。
 小さい時からいつもそばにいた子がいなくなってしまう。最初はそんなふうに考えていたふたりだったが、そういう対象で相手を見ていないことにお互いに気づいたのは、つい最近のことだっただろうか。
 初めてのキスはやっぱり『ペンギン』の裏口で、ムードもなんにもなかった。
 閉店間際になって夕食を食べに来て、そそくさと帰ろうとしたとき美也に「零ちゃん」と呼ばれた。振り向くと、美也が自分を見つめていた。
「明日も元気、元気だよ。ダイジョウブ」
 彼女はそう言うと、力こぶを作るように腕を曲げて笑ってみせた。
 美也は全部知っていてくれる。
 あのとき、ちょっとしたスランプに陥っていた。何にも話さなかったのに、彼女は分かってくれる。
 そう思うなり、降りかけたコンクリートの階段を再び駆け上って彼女を抱きしめて不器用にキスをした。美也が好きだ。おれ、美也が大好きだ。
「『ペンギン』は忍耐強いんだよ。子育てのとき、ずーっと片方が餌を取ってくるまで待ってるの。必ず帰ってくるって信じて待ってるんだよ。帰ってくるほうも、家族のもとに帰らなきゃって覚えてるんだよ。すごいよね。わたし、お店の名前、ずっとギャグだと思ってたよ。違う、ってお父さんに怒られた」
 美也は零の腕の中でそう言ってくすくす笑った。
「零ちゃんも帰っておいでね。わたしは忍耐強いからダイジョウブ。絶対待ってる」
 でも、美也はどこかで覚悟をしている部分がある。
 零はいつか自分のそばを離れていく。
 縛りつけちゃいけない。
 そう考えていることが分かるだけに、ことさらに美也が愛おしかった。