「藤谷さん、アーカーって知ってる? ジュエリーブランドの」
 尋ねると、藤谷は胡散臭そうに零を見た。
「ア? ランジェリー? なにすんの?」
「いや、いい……」
 藤谷に聞くだけ野暮だった。零はヘッドフォンを耳につけた。キリエとの2回目のセッションは明日だ。
 キリエからの電話はあれっきりだった。電話番号を聞いたのは、そもそもキムチを渡すためだったのではとすら思える。キムチをもらって、それで彼女の気が済むのなら、それはそれで別に構わないけれど。
 キムチは結局『ペンギン』で引き取ってもらった。キリエには申し訳ないけれど、自分はもらっても食べつくせる自信がない。
「豚キムチとか作らないの? 美味しいわよ? これがあればごはんだって食べられるじゃない」
 咲は言ったが、零は無理と答えた。炊飯器なんて、今までで数えるほどしか使っていない。常に絶やさないのはパンと牛乳とヨーグルトとコーヒー豆と……。せいぜいそれくらいだ。それ以外は『ペンギン』で食べるか、出先ならそこで用意されていることがほとんどだった。
 美也が欲しがっているんなら、指輪は買ってやりたい。アーカーっていうのはよく分からないけれど、誕生日には何か渡してやりたい。
 でも…… 来月はキリエと歌うこの曲で忙しくなるだろう。レコーディングは15日。ミュージックビデオも撮るし、ポスターや何やかんや……。美也の誕生日は17日だ。会えない可能性が高かった。
「さ、そろそろ行きますか」
 藤谷の声を聞いて立ち上がりながら、零は『美也、ごめん』と心の中で詫びた。

 2回目は前回と違い、びっくりするくらいキリエと息が合った。いや、息が合うどころか二人で完全に別の世界に入り込んでしまったようなハマりようだった。羽田を始め、藤谷も、キリエのマネージャーの賀集も呆然としていたので、逆に二人のほうがびっくりしたくらいだ。
 アーカーについて教えてくれたのは意外にもキリエだった。
「私のこれがアーカーです」
 キリエは耳元の髪を持ち上げて自分のピアスを見せた。小さな丸い輪のピアスが彼女の小さな耳たぶに光っている。
「高い?」
 彼女の耳元を覗き込んで零が尋ねると、キリエは笑みを浮かべた。
「ミヤさんに?」
 聞かれて思わず顔が赤くなるのを感じる。
「あ、うん…… もうすぐ誕生日だから」
「値段はいろいろありますけれど…… この近くに確かショップがあったかも。終わったら寄ってみたら?」
「あ、助かるかも。一緒に行ってくれる?」
 零は思わず答えていた。自分ひとりで行ってもたぶん訳がわからないだろうからだ。とにかくプレゼントさえ用意できれば、美也の誕生日にスケジュールが合わなくても、それまでにどこかで咲に渡しておくことができるかもしれない。
「あー…… 一緒に行くのはよくないかも……」
 キリエは呟くとスマホを取り出した。
「アーカーはオンラインショップがあったと思います」
 そう言ってスマホの画面で指を滑らせ始めた。
 そういえばおばさんもネットで買えるから、とか言ってたっけ……。
「ああ、ごめん、自分で探せばよかった……」
 呟く零にキリエはスマホの画面を見せた。
「ありました。これです」
 零は顔を寄せて画面を覗き込んだ。
「へー…… こんなのが好きなんだ……」
 アクセサリーにはあまり興味がない零は華奢なアクセサリーを見て目を丸くした。
「どれ選んだらいいんだろう。なんか、花のモチーフがついた指輪って言ってたけど」
 零の表情を見て、キリエは少し羨ましそうな笑みを浮かべた。
「誰かにプレゼントするのっていいですね」
「小野さんの誕生日にも何か送ってあげようか?」
画面を見つめたまま何気なく言ったつもりだったが、キリエが小さく息を呑むのを感じて零は慌てた。
「あ、いや、そんなおおごとじゃなくてさ、前のキムチのお詫びというか、ちゃんと送ってくれる人がいるんなら、俺、別に邪魔しないから……」
「だめですよ、零さん」
 キリエはくすくす笑う。
「だめですよ。それが分かっているんなら、よその女にプレゼントしちゃだめです」
「そ、そうだよな……」
 かなり恥ずかしい。
「そんなことより、これからも私と一緒に曲づくりしてもらえませんか? アルバム一枚作れるくらい一緒に歌いたいです」
 キリエは零の目をひたと見つめて言った。
「うん…… 事務所がいいって言うならおれは別にいいよ? 小野さんと歌うの楽しいし」
「ほんとですか?」
「うん。小野さんの曲、ちょっと難しいところあるけれど、歌ってるとなんか別世界に行くような気分になって好きなんだ」
「ありがとう」
 キリエは嬉しそうに顔をほころばせた。
 その顔に笑みを返して零は再びスマホの画面に目を移した。
「でさ、花がついてるリングってある?」
「ありますよ」
 キリエは再び指を滑らせた。
「うわ…… どれなんだろう」
 差し出された画面を見て零は困惑した。
「零さんもおそろいでつければいいのに」
「おれ、アクセサリーよくわかんないんだよね。それにこれ女性ものじゃないの?」
「イヤーカフならいけるんじゃないですか? 似合いそうですよ」
 キリエが画面に指を滑らせた時、藤谷がやってきた。
「なにやってんの? えらい仲良くなったね」
「小野さんにアーカー教えてもらってたんだ」
「ああ、ランジェリーの」
「違う!」
 キリエがふたりの会話に笑い出した。
 彼女が体中で笑うのを見たのはこれが初めてだった。