零は耳につけたヘッドフォンに手をあてた。小首をかしげ、聞こえる音に神経を向ける。
(うーん、なんだろうなあ……)
 視線は遠くのスズメが戯れながら飛んでいくのを追ってはいるが、実は何も見ていない。頭にはスタジオの様子が浮かんでいる。
(ベースの人かなあ…… 前にもこんなことがあったような)
  僅かに口元が不機嫌そうに歪む。
(ほんのちょっと。 ……本当にごく僅かなんだけど、遅れる。それがすごく気になる)
 あ、まただ、と思いながら眉をひそめた時、部屋のドアが開いて籐谷が入って来たが、零はそれに気づかなかった。
「まーた、負けたよー!  もうオレ次の試合見に行くのやめるわ」
 藤谷は両腕で抱えていたダンボール箱をどさっとテーブルの上に置きながら叫んだ。その振動に零はぎょっとして顔を振り向ける。
「あ、ごめん」
 藤谷は、零の耳のヘッドフォンに気づいて言った。
「ね、ベースの人、変わった?」
 零はヘッドフォンを外すと、こめかみから顎に汗が滑り落ちている藤谷の顔を見た。
 藤谷は汗っかきだ。真冬でもしょっちゅう汗をかいている。5月のこの時期になると彼にとっては真夏並みだろう。
「あ、今度のやつ?」
 藤谷は腕をあげるとグレイのTシャツの袖で汗を拭いながら零の手元にあるスマホに視線を向けて言った。
「ごめん、新田さんは雨倉夕奈に取られちゃったみたい。羽田さんが悔しがってた」
 雨倉夕奈は最近ブレイクしているアイドル歌手だ。ベースを担当する新田は報酬で動く人だからそっちに行ってしまったのだろう。
「なんか、気になる?」
「んー……。気になるといえば気になるし…… 何とかなるかもと思えばそうだし……」
 零は考え込むような顔で答えた。
「保っつぁん、零のバックできるって、喜んでたよ?」
 零は頬杖をついて再び藤谷の顔を見た。
 ベースは保坂さんなのか。あの人は話せば雰囲気分かってくれる人だ。
「じゃあ、今度、保坂さんと話がしたいって伝えてもらえますか」
 零は立ち上がった。
「どこ行くの?」
 それを見て藤谷は怪訝な顔をする。
「メシ。一緒に行く?」
「ちょっと待てよ、これ、どうすんの。おまえが持って来いっつっただろ?」
 藤谷はダンボール一杯の手紙を指差して非難めいた声をあげた。
「ファンレター読むんだろ? あと、メールボックスも一杯だぞ? ブログもずーっと更新しないままでさ。ファンをもうちょっと大事にしろよ」
 零は椅子の上に置いていたハンチングを目深に被り、サングラスをかけた。
「『ペンギン』、開いてると思う?」
「『ペンギン』が開いてたって、こっちは詰まってっぞ。メシ食いに行く暇なんかねえ!」
 藤谷はダンボールをバンバン叩いて不機嫌そうに零を睨みつけた。零はそれを無視して、わざとテーブルを回って藤谷の横を通らずにドアに向かった。
「だめだってー!」
 零の後ろ姿にそう言ってから藤谷は、あ、という顔になり、慌ててダンボール箱から茶封筒を取り上げた。
「待って、待って、零! コラボの話! 羽田さんから来たよ」
「メシ食ってから聞く。30分で戻るよ」
 藤谷はパタンと音をたてて閉まるドアを見て、大きくため息をついた。

「うわ、びっくりした!」
 美也は裏口から忍び込むようにして入ってきた零を見て、大袈裟なほど大きな目を見開いた。
「不審者かと思うじゃん」
 零はちらりと笑うと慣れた様子で厨房をすり抜けてバックヤードに入り、小さな椅子に腰掛けた。腰掛けた途端にコンクリートの床に置いてあったドリンクの空き瓶が転がって、慌てて足で止めて壁際に立てる。
「電話くらいしなよ」
 口を尖らせる美也に、零は駄々を捏ねる子供のような表情になる。
「じゃあ、スマホの番号教えて」
「おかーさーん、不審者だー!」
 美也は声をあげた。
「いい加減にしなさいよ、もう」
  美也の母親が顔を出した。美也も華奢で幼く見えるほうだが、母親の咲も年齢よりは遥かに若く見える。黙っていると美也と姉妹に間違えられそうだ。
「零ちゃん、久しぶりねぇ。元気にしてた? ランチでいい?」
 彼女は頭の天辺でひとつにまとめた髪を透かし彫りの蝶の飾りがついたかんざしで器用に止めながら笑って言った。美也そっくりの二重の丸い目の端に笑い皺が浮かびあがる。
「今日、なに?」
「クラブサンド。アボガドのサラダ、つけてあげる。あ、それと、フレッシュグレープフルーツのドリンクと」
 零の問いににっこり笑って答えると、彼女は美也に目を向けた。
「零ちゃんにお水とおしぼり、持って来てあげなさいよ」
 母親が向こうに行くのを見送ってから、美也は零に顔を向けて彼の唇にすばやくキスをし、そして、はにかんだように笑った。
「まだスマホ持ってないの?」
 目の前にしゃがみこむ美也の顔を見て零は言った。
「スマホ、キライ」
 美也は零の膝の上に顎を乗せると、彼の顔を上目づかいで見上げて笑った。
「声聞くと、余計辛いもん」
 零は黙って美也の顔を見つめた。擦り切れたジーンズの膝から彼女の体温が伝わる。
「零ちゃん、どんどん有名人になっちゃう。どこまで有名になるの?」
「有名じゃないよ。まだアルバム一枚じゃん」
 零は苦笑した。
「でも、有名人だもん。アルバム出すのって大変だよ。なんかさぁ、そのうちここに来てもらえなくなるのかなあ、って心配になるよ?」
「来るよ、絶対」
 零は美也に顔を寄せた。
「おれ、美也が大好きだし」
 彼女はいつもグレープフルーツの香りがする。美也は幸せそうな笑みを浮かべた。
「ああ素敵。零の声で好きって言われると、なんだかすごく癒される」
「そう?」
「独り占めしたい。でも、そういうわけにはいかないんだよね」
「美也にしか言わない言葉はたくさんあるよ」
「零ちゃーん」
 美也は笑った。
「殺し文句いっぱい覚えたねえ。教えてくれるのは藤谷さん?」
「美也!」
 母親の声が飛んだ。
「水っ!」
「はあーい……」
 美也は立ち上がると、零の顔を見てちろりと舌先を出してみせた。